第187話 春に読ませた板
溝の水が下の端まで抜けていた。
昨日までは途中で溜まって濁っていた。今朝は上から来たぶんがそのまま草地へ出ていく。エルクは縁を歩いて水の先まで行った。土は緩んでいて足の跡が残る。
ウーゴは丸太のところに屈んでいた。
「アシ、ナオシタ。ムッツ」
「全部やったんだ」
「ヤッタ。シタニ、イシ、カマセタ」
「土が柔らかいから?」
「ヤワラカイ。イシナラ、シズマナイ」
手のひらで足の頭を押していく。四本目だけもう一度押し直してから立ち上がった。
「イタハ、サワッテナイ」
「今日はいいの?」
「キョウハ、ヨマセルヒ。ホルヒトハ、ジャマ」
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水の上のほうでは分身が三つ、縁に間を空けて伏せていた。崩れやすいところを内側から押さえている。本体は草の上に載ったままだ。
『今日で抜けたッス』
「早かったね」
『昨日のうちに緩んでるとこから先にやったッスからね』
「寝てる人は」
『五人寝かせたッス。夜に立ってた人ッスよ』
「掘るのも寝かせるのもやってるんだ」
『掘るのと寝かせるのは別ッスからね。おいら両方ッス』
鍬を担いだドレクが下の草地から上がってきた。刃に土は付いていない。洗ってから担いだらしい。
「下まで行ったか」
「抜けてたよ」
「じゃあ今日で終いだな。あとは畑だ」
「もう畑なんだ」
「もうだよ。溝が抜けりゃ水は畑のほうで要る」
担ぎ直した柄が肩で一度鳴った。
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下の端の草地に黒い胴が伸びていた。ドラゴは水の行き先を避けて横へ寄っている。
『来たな』
「下まで抜けたって」
『見ておった。細いが止まらぬ』
胴の先が草を撫でて、水の筋から一本ぶんだけ離れた。
『我の欄は動いておらん』
「水、来ちゃったもんね。場所替える?」
『替えぬ。濡れるのは腹の下だけだ。……欄の話をしておる』
「あ、そっちか」
『まだ二つだ。冬に入れたきり増えておらん』
「増やしたいの?」
『増やすものではない。打った夜があれば入るのだ』
「これから夜が短くなるもんね」
『短くなる。入る日は減る。……待つのは構わん』
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坂の上の物干しの棒が撓んだ。羽の風が下の草まで届いて、それから爪が木を掴む音がした。グリフは翼を開いたまま棒の上で向きを変えている。
『十九だ。俺が見たのは十九だ』
「戻ってくる人?」
『十九だ。荷を引いておるのが四つ。あとは歩きだ』
「降りないんだ」
『降りぬ。上のほうが早く数えられる』
「まだ来るかな」
『知らん。俺は見たものだけ言う』
エルクは坂を半分上がって当番小屋の前へ寄った。メルは綴りを腕に載せたまま紙の端を押さえている。
「十九だってさ」
「十九ですね。着いた数とは別に書きます」
「違うの?」
「途中で止まる人がいます。見た数を着いた数にすると翌日に消すことになりますので」
指の先が紙を三つに区切った。
「人は戻りました。当番の数は埋まります」
「じゃあ下りるほうも回せるね」
「回せません。下りられる人は減っています。畑と普請が開きましたので」
「戻ったのに減るんだ」
「戻った人は畑へ行きます。下へ入れるのは冬から入っている人だけです」
「新しい人に覚えてもらうのは?」
「覚えるのに十日かかります。十日のあいだの夜は、覚えている人が埋めます」
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エルクは溝の縁まで下りて腰を落とした。
水は同じ細さで流れ続けている。ソウが坂の上のほうから下りてきて、少し離れたところで足を止めた。両手には何も持っていない。指の腹にだけ墨が残っている。
「読ませたわ」
「みんな来た?」
「戻ってきた人には全部読ませたわ。前に立って、上から下まで指でなぞって見せたの」
「どうだった」
「静かだったわ」
「静かなんだ」
「一人も聞き返さなかったの」
ケインは薪の束を背負ったまま横に立っていた。
「割れねえなら上出来っすよ」
「上出来よ。……上出来なのに、去年より分かってないの」
「去年は間違って覚えたやつが三人いたんすよね」
「いたわ。三人いたって分かったの。今年は何人いるか分からないわ」
ソウは板のほうへは目を戻さなかった。
「さっき鍬を借りに来た人がいたのよ。上の三行だけ読んで帰ったわ」
「下は?」
「見てないわね。白いもの。読むところが無いって思うでしょう」
「白いのも読むところなんだけどね」
「そうよ。でも白いのを読めって書いてないの」
草を一本折って、ソウはそれを水へ落とした。
「読ませたわ。……読んだかどうかは、私が決めることじゃないのよね」
エルクは水を見ていた。
「割れなかったんだ」
流れは折れた草をすぐに下へ運んでいった。
「……割れないほうが、いいはずだよね」
誰も答えなかった。
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ミナは板きれを抱えて坂を下りてきた。
いつもは膝に載せて置いてくるのに、今日は抱えたままだ。
「おわった?」
「おわった。ぜんぶはなした」
「ちゃんとできた?」
「できたよ。とちゅうもとばさなかった」
抱えた板きれを一度持ち直した。
「なんでいわないかも、はなした」
「じゃあ完璧じゃん」
「……でも、だれもきいてない」
板きれを胸へ押しつける手に力が入った。
「なんでっていうひとが、ひとりもいなかったの」
「一人も?」
「ひとりも。ミナ、しらないっていうつもりだったのに」
言ってから、ミナは自分の口を手で押さえた。
「いえなかった」
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柱の下でラネが前脚を動かしていた。糸の下の端に触れては離し、触れては離している。
「まだぬれてるわ!」
「上げたままなんだ」
「あげたままよ! でもきのうよりすくないの!」
上のほうから声だけが落ちてきた。
「戻せる日は近いわね~。でもまだよ~」
「戻す日、決めるの?」
「決めないわ~。乾いた日が戻す日よ~」
ミナが柱の裏から覗きこんだ。
「かぞえてるの?」
「この子が数えてるのよ~。私は聞いてるだけ~」
「私がみたの! 姉さんはさわってないわ!」
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ダクトは写しを四枚とも石の上へ広げていた。
「四枚とも同じですぞ」
「替えてないんだよね」
「替えておりませんな。……ですが裏はまだですぞ」
「まだ聞いてるの?」
「聞いておりますぞ。今日で七人ですな」
「返すって言った人いた?」
「一人ですな。その者は裏に何が書いてあるかを先に聞いてまいりました」
束を揃え直して、ダクトは端を指で押さえた。
「聞いてから返す者は返しますな。聞かぬ者は表で足りますからな」
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薪小屋の軒下でクラウが硯を出していた。
「書くの?」
「書く」
「なんて」
「割れなんだ、とだけ書く。良かったとは書かん」
「良かったんじゃないの」
「分からん」
「分かんないんだ」
筆先が硯の縁で止まった。
「去年は三つ出た。三つ出たゆえ、三人が考えたと分かった」
「今年は?」
「今年は何も出ておらん。考えた者が何人おったかは、出ておらんほうからは数えられん」
「板に足す?」
「足さん。今日は足すところが無い」
書いてから、クラウは帳を閉じずに膝の上へ置いた。
「読ませたことは書く。読まれたとは書かん」
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段の口の内側で黒銀が伏せていた。
「割れなかったんだって」
『聞いた』
「板に書いてあるのにね」
『書いてある』
「書いてあるのに、なんで届かないんだろ」
前脚の上の顎がわずかに浮いた。
『主は読める側におる』
「え」
『主は板の前へ立てば読める。読めるゆえ、書いたものは渡ったと数える』
「数えてないよ、そんなの」
『数えておる。……主は今日、板の前へ行っておらぬ』
「行ってないね」
『行かずに、書いてあると思うておる。それが読める側だ』
エルクは段の口の柱に手をついた。
「ウルは?」
『我は字を読まぬ。読まぬ者がここに一人おる』
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門の内側は昼のあいだに乾いていた。ライオはその乾いたところへ胴を置いている。戻ってきた者の列は昼のうちに終わっていた。
『十九来たそうだな』
「十九だって」
『戻った者は門を見上げる。初めて来た者は見ぬ』
「見ないんだ」
『見ぬ。見上げるのは閉じておったのを知っておる者だけよ』
「新しい人には、はじめからある門だもんね」
『はじめからある門だ。悪いことではない』
門柱の影が前脚のところまで伸びていた。ライオはそこから爪を引いた。
『板も同じよ』
「板?」
『白いところを白いと思うのは、埋まっておったのを見た者だけだ』
日はもう門の面から外れていた。ライオは決めた刻に立ち上がって、門の内から一歩だけ下がった。二枚目に獅子の名は今日も無い。
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日が落ちてから段の口に灯りが二つ並んだ。
ウルは伏せたまま顔を上げた。
『名は』
「名前だって」
二人とも名を言った。ウルは聞いてから顎を前脚へ戻した。灯りは段の下へ落ちていく。
しばらくして下から足音が上がってきた。上がってきたのは二人だ。そのあとにライが紙を抱えて出てきた。
『下りたのは二人だ。上がったのも二人だ』
『打ったのも二人です』
ライは紙を灯りのほうへ寄せた。
『……頭が三つあります』
「三つ?」
『三つです。長いのが一つ。短いのが二つ』
黒銀は伏せたまま、紙のほうへは目を向けなかった。
『我は人を数えておる。字も形も数えぬ。……段を下りたのは二人だ』
「冬のと同じ?」
『同じです。数も順も同じです』
「今度は気づいたんだね」
『順番も守っています。間も空いています。守ってあるものは目に留まりません』
「冬はなんで分からなかったの」
『冬は下へ入れるのが八人でした。頭がいくつあっても、その数を段の口の数と突き合わせる者がおりませんでした』
「今日は」
『ウルが二人と言いました。二人しか下りていない紙に、頭が三つあります』
エルクは紙を膝の上で受け取った。三つ並んだ頭のうち、二つは今夜下りた二人のものだ。
残りの一つを打った者は、段を下りていない。




