第186話 名前ではないもの
坂の下で水が二本になっていた。
踏むと沈む。昨日まで固かったところが緩んで、板の下の土だけ黒く出ている。そこに雪は残っていない。
ウーゴは丸太の足を一本ずつ手で揺すっていた。揺すっては下の土へ指を差し込んで、入る深さを見ている。
「アシ、ムッツ」
「六本もあるんだ」
「ムッツ。ゼンブ、ヌレテル」
「抜けちゃう?」
「ヌケナイ。ズレル」
留め金の頭を端から順に押した。四つとも同じ音がした。
「トメガネハ、ヨッツノママ」
「増やさないんだね」
「フヤサナイ。ハル、チカイ」
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溝は薪小屋の脇から掘りはじめてあった。
ドレクが上から鍬を入れて、丸いのが分身を二つ使って土を下へ送っている。エルクは縁に立って下を覗きこんだ。
『今日中に抜くッス』
「早くない?」
『緩んでるうちなら掘れるッスからね。固まってからだと二日ッス』
「夜に立った人は」
『三人は寝かせたッス。あと二人は飯食ってから寝るって言うんで、おいらは待ってるッスよ』
「起こしに行かないんだ」
『行かねえッス。寝ろって言って寝るなら、おいら要らねえッスからね』
ドレクは鍬を土へ立てた。
「春だな」
「まだ雪あるよ」
「あるけどよ。溝掘れって言われる頃には、もう畑の話になってんだよ」
メルは綴りを開いたまま縁に立っていた。
「掘る人はどこから出すの」
「夜の当番から出します。今日は昼に寝ますので」
「春になったら楽になる?」
「なりません。人は戻りますが、戻ったぶんは畑と普請へ行きます。空くところが入れ替わるだけです」
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庇の下の卓には石の重しが二つ載っていた。
夜のうちにライが書いた紙だ。エルクは重しをどけずに横から覗いた。二行目の頭から追って、半分まで行ってまた頭へ戻る。
「これ、なんて書いてあるの」
「まだ、ぬる、だ」
クラウは紙を回さなかった。逆さのまま上から読み下している。
「頭にぬるが付いておる。間があって、そのあとがまだ、ぬるだ」
「頭にも入ってて、中にも入ってるんだ」
「入っておる」
指が短いほうの列で止まった。
「名なら中には入らん。持ち場ゆえ中に入る」
「まだって、まだ塗るよってこと?」
「そう読める。……そう読んだ、と書いてある」
ライは卓の下からもう一枚出した。夜のあいだ下にいて、そのまま上がってきている。
『長いほうはどこにも入りませんでした』
「今日も駄目なんだ」
『駄目です。棚の外へ置いてあります。分け方が増えるまではそこです』
「まだって、ほんとにそう言ったのかな」
『私の読みです。あの人は先のことを打ちません』
「今まで打ってないんだ」
『打っていません。まだ、が付いたのは昨夜がはじめてです』
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坂の途中で三人が下からすれ違って上がっていった。
誰も何も言わずに通り過ぎる。ミナは石の上に座ったままだった。膝の上には何も載っていない。
「終わったの?」
「おわったよ」
「どうだった」
「おなじはなしになった」
袖を引いて、指の先だけ出した。
「みっつがひとつになったの」
「そっか」
「……つまんなくなったっていわれた」
クラウは一段上のところに立ったままだった。写し帳は小脇に挟んである。
「つまらんのはよいことだ」
「そうなの」
「面白い話は歩きながら足される。つまらん話は足されん」
ミナは石から下りた。
「みっつのときは、みんなおぼえてたよ」
「覚えてたんだ」
「うん。でも、いまのほうがいい」
言ってから、坂の下のほうへ目をやった。
「いまのは、ミナがいなくてもおなじだもん」
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ダクトは坂の上から順に写しを配って回っていた。
四枚のうち二枚はもう置いてある。
「裏まで写しましたぞ」
「同じ紙の裏だよね」
「裏ですな。……ですが、裏を返す者がおりませんぞ」
「返さないの?」
「返しませんな。表を読んで満足いたしますからな」
束から一枚抜いて、裏を上にして石へ置いた。
「三人に聞きましたぞ。二人は表のままでよいと申しましたな」
「じゃあ表のままにする?」
「まだ聞きますぞ。私が決めますと、私しか直せなくなりますからな」
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当番小屋の裏で子らが半円に並んでいた。
ノノは護符の紐を握ったまま子らのほうを向いていた。四つ目までは間があかなかった。
「やめるときは」
五つ目で列の後ろが遅れた。半分だけが続いて、あとの半分は口が動いただけで音にならない。
「もういっかい」
指は下ろさなかった。二度目でようやく終わりまで揃う。揃ってからも、いちばん後ろの子が首をかしげている。
「言い慣れてないんだね」
「うん」
「ほかのは言えるのにね」
「やめるっていうの、はじめてだもん」
エネは物干しの縄の下にいた。紙を小屋の板へ当てて、線を一本引く。顔は上げなかった。
「五つ目だけ数えます」
「数えるんだ」
「そのうち言い慣れますので。言い慣れた日が分かるようにしておきます」
「誰が決めたかは書かないの」
「書きません」
線の下へ小さく日を入れてから、エネは縄の下を出た。
「書いたら、あの子のものになりますから」
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薪の山を組み直していたケインが手だけ止めた。
「夜、静かだったっすか」
「静かだったよ」
「毎晩打ってるんすけどね。返ってくるのは頭だけっす」
「それでいいんだって」
「いいんすかね。……おれ、先に名前置いた口っすから。返ってこねえと落ち着かねえんすよ」
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昼前の卓では、ライが冬のぶんを綴じはじめていた。
紙は日ごとに分けてある。刻の並びと、頭の並びと、名。順に重ねて端を糸で留めていく。
『日が空くと抜けます』
「あとで足せばいいじゃん」
『足せません。抜けたと気づく者がいないうちに春が来ます』
三枚目のところで手が止まった。止まってから、ライはその一枚だけ手前へ引いた。
『昨夜のぶんです』
「なんかある?」
『頭が一つ多いです』
「多いって」
『昨夜打ったのは六人です。頭は七つ並んでいます』
クラウが紙の上へ屈んだ。
「並びを言え」
『長いのが一つ。短いのが二つです』
「下の一人目と同じ数だな」
『数は同じです。順が逆です。……この形は配っておりません』
「余りはどうした」
『余りはありません。ミナの並びを移した日に無くなりました』
灯りの要らない明るさなのに、クラウは顔を近づけて三度数え直している。
「間はどうだ」
『空いています。頭のあとに間があって、そのあとに用件が来ています』
「打ち方は」
『こちらと同じです。順番も守っています』
ライは紙をエルクの側へ回した。
『順番は合っていました。だから昨夜は誰も気づきませんでした』
エルクは並びの上へ指を置いた。置いたきり動かさない。
「気づかないんだ」
『気づきません。私も今日まで気づいていません』
「じゃあ誰が打ったの」
『誰が打ったかは分かりません』
筆が下りた。
『……誰かが、自分の印を持っています』
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クラウは写し帳を開いて、日を先に入れた。読みは入れない。
「あいつかな」
「書かん」
「そう読んだって書くのは?」
「それも書かん。今日は材料が無い」
筆は二行で止まった。
「分からんと書く。それで足りる」
エルクは二枚の板を見上げた。
「名前は書かないって決めたでしょ」
「決めた」
「印は書いたよね」
「書いた。板が持っておる」
クラウは筆を硯の縁へ寝かせた。
「名は守れる。……印は守れん」
「ちがうんだ」
「ちがう。名は違うと言える者がおる。印には要らん」
「欄、また増やすの」
「今日は増やさん」
帳は閉じずに脇へ挟んだだけだった。
「増やす前に、あるものが守れておるか見る」
ソウは一枚目の右の端へ日を足していた。足してから二枚目のほうへ回る。
「そっちは増えてないね」
「増えてないわ。三つのままよ」
「増えたほうがいいの?」
「よくないわね。……でも、増えない板は誰も見に来ないの」
筆の先が下の空きを指した。
「春に一度読ませるわ。人が戻ってきたときにね」
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長はもう来ていた。
レオルは二枚目の一行目が見える高さで胴を止めている。半年ぶん動かなかった字は、今は一枚目には無い。
「まだ、と打ったそうだな」
「打ったんだって」
「聞いた」
尾の先が濡れた土の上で止まった。
「板にはやめてよいと書いた」
「書いたね」
「あれは読めぬ」
「読めないね」
「彫ったものも読めぬ」
「読めないよ」
長は板から顔を戻さなかった。
「では訊く」
「うん」
「我らの誰も覚えておらぬ頃に、あれがやめると言うたらどうする」
筆の音が止まった。
「一回空いたら終わりだって、去年メルが言ってたよ」
「言うた」
クラウは筆を硯へ戻さなかった。
「終わりが来ると分かっておって、やめてよいと書いた。そこまでは今日の話だ」
「答えは」
「答えん」
穂先が紙から浮いた。
「……書いておく」
レオルは短く鼻を鳴らした。否定はしなかった。
「答えを持たぬまま書いた者がおったと残るな」
「残る」
「よかろう。残っておれば、いつか誰かが答えを持つ」
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門の内側では獅子が伏せたままだった。
日はもう当たっていない。頭の上のほうで羽が一度鳴った。そのあとは音がしない。
『今日も無いな』
「ないよ」
ライオは立たなかった。
『無い日を数えておる。数えておけば、入った日が分かる』
上からは短い声だけが来た。
『俺は今朝飛んでおらん。書け』
「飛ばない日も書くんだよね」
『書く。……王は飛んだ。俺は見た』
「ゼルガが?」
『飛んだ。峰の上を一度だ。用があって飛んだのではない』
「それも書くの」
『書く。用の無い飛び方も、飛んだうちだ』
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柱の裏からラネが先に顔を出した。前脚がまだ動いている。
「かぞえたわ! あってた!」
「なにが?」
「姉さんが上げたぶん! ぜんぶ数えたの!」
「上げたんだ」
「あげたわ!」
声だけが上から下りてきた。
「下の糸ね~、一段上げたわ~」
「濡れるから?」
「濡れるわ~。壁のいちばん下が湿ると、糸が鳴らなくなるのよ~」
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二枚目の板の下に黒銀が伏せていた。
エルクはその背へ手を置いて、坂の下の水を見た。
「ねえ」
『聞いておる』
「渡すのってさ。渡したあとが長いんだね」
『長いゆえ、板に書くのだ。主が忘れても板は忘れぬ』
「板も燃えるよ」
『燃えたら書き直す』
耳が一度だけこちらへ倒れた。
『……主より早い』
エルクは吹き出した。手は背に置いたままにしておいた。
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卓のほうへは戻らずに、段の口へ足を向けた。
「まだって言われてさ。こっちが何も言わないの、変じゃない?」
「変だ」
「行っていい?」
「行け。……読みは持って行くな」
「読み?」
「まだ、はこちらが読んだものだ。持って行けば、あれの言うたことをこちらが言い直すことになる」
「頭だけ打ってくる」
「それでよい」
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入口の外では黒い胴が半分だけ土の上へ出ていた。
雪はもう縁のところにしか残っていない。
『我の欄に二つ並んでおる』
「打った日でしょ」
『打った日だ。二つだ』
首だけがこちらへ回った。
『三つ目は要るか』
「次に何か入るかもね」
『……では待つ』
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段を下りきると灯りの色が変わる。
外の白さはどこにも残っていない。記録の間の入口では当番が入れ替わるところだった。上がるほうが刻の紙を渡して、受け取るほうが端から順に読み上げている。数と、打った頭の並びと、返ってきたぶん。読み終わるまで二人とも手を止めなかった。
エルクは終わるのを待ってから声をかけた。
「エルク。一人増えるけど、いい?」
「いいです。……二人ですね」
上がるほうは灯りの油を足してから出ていった。
台の器は昼も針が細かく揺れている。壁の裏の音は途切れそうになっては同じ調子で戻った。
エルクは壁の前で膝をついた。
名前は聞かなかった。
指の背で自分の並びを打つ。間を置く。それから板の右の端のいちばん上、去年から入っている三文字のぶんを打った。短いのが一つ。長いのが一つ。
壁の裏の音が止まった。
止まってから針が跳ねた。刻を書いていた当番が手を止めて顔を上げる。
「返ってます」
「うん」
「頭だけです」
「それでいいよ」
エルクは立ち上がった。灯りには手を伸ばさなかった。音はもう戻っている。
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段を上がると外のほうが明るかった。
水の音が坂じゅうから聞こえる。二枚目の板が日を返していた。
エルクは段の口で立ち止まった。
「……名前じゃないもんね、あれ」
返事は無かった。黒銀は下に残っている人数を言っただけで、そのまま耳を戻した。
板は二枚になった。やめてよいと書いた。理由も渡した。渡すときは渡した先の名を言うという決まりは、名を持たない者にも届くようになった。
ただ、名を持たない者へ届くものは、名を持てない者にも届く。
板に無い印がひとつ、この冬の記録の中に綴じてある。誰が打ったのかは分からない。分からないと書いてある。
声はこの冬のあいだ一度も何も言わなかった。急がないと言い続けていた者が、急がないとすら言わずに冬を越した。




