第185話 言えないと言って渡す
板の右の端の一行だけが白かった。
硯は石の上へ据えたままだ。ソウは脇に並んだ日付を三つとも指の腹でなぞった。最初に入れた日と、そのあと二度先送りにした日だ。
隣の二枚目は昨日字が入ったばかりで、下の三分の二がまだ白い。そちらが白くても誰も何も言わない。白いままで困るのは一枚目の右の端のほうだった。
「四つ目になるわ」
エルクは雪を鳴らして板の下へ入った。日付の並びを端から見ていく。
「四つ目?」
「今日入れなかったら、日付が四つ並ぶの」
クラウは写し帳を小脇へ挟んだまま板の正面に立った。
「先送りにしたと書いてあるぶんには構わん。……四つは多い」
エルクは板の下から出てクラウの肘の横に並んだ。
「多いと駄目なの」
「駄目ではない。四つ並ぶと、書けんのだと読まれる」
エルクは白い一行を見上げた。字の入っていないところだけが日を返している。
「書けないんじゃなくてさ。言わないって決めたんだもんね」
クラウは答えなかった。答えないまま、写し帳の古い頁を繰りはじめた。
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手が止まったのは去年の冬の頁だった。
エルクは反対側へ回って、帳の下から頁を見上げた。読めない字ではない。行が細かいだけだ。
「なにか出てきた?」
「俺が去年言うたことだ」
クラウは頁を指で押さえた。
「知った時点で、俺たちの誰かが口を持つ。口は増やすもんじゃない」
「言ってたね」
「言うた。……あれは名の話だ」
指が頁から離れた。
「口が増えるのは名だ。理由では増えん」
ソウが筆を持ったまま顔を上げた。
「同じものだと思ってたわ」
「俺もだ」
クラウは板のほうへ向き直った。
「言えんのは名だ。理由ではない。……俺は理由まで黙っておった」
エルクは板の白いところから目を動かさなかった。それから急に肩が下りた。
「あ、そっか」
「なんだ」
「名前は言わないけど、なんで言わないかは言えるんだ」
「言える」
「それ先に言ってよ」
「今日思いついた」
「一年かかったんだ」
「かかった」
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雪の締まる音が広場の端から近づいた。
レオルは板の正面には立たなかった。右の端が横から見える位置で胴を止めて、そこから白い一行へ目をやる。
「理由を書けば、そこから名へ届く者が出るぞ」
「出る」
「認めるのか」
「認める。……届く者は、書かんでも届く」
クラウは白い一行を指した。
「届かん者に届かんままにしておくほうが危ない。届かん者は自分で埋める」
尾の先が雪の上で一度だけ動いた。
「去年の三つか」
「三つだ。病気と、崩れかけと、亡霊だ。どれも親切な埋め方だった」
「埋めた者を咎めるか」
「咎めん。埋める材料をこちらが出しておらんかった」
長はしばらく黙っていた。胴の下で雪が鳴った。
「……よかろう。我は反対したと書いておけ」
「書く」
「書いた上で、我は止めぬ」
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ソウは字の大きさを先に決めた。
「そこは大きく書くわ」
「小さくすれば二行入るよね」
「入れないの。ここは後から来た人が読むところよ」
筆は二度硯へ戻ってから板へ入った。四つ目の欄の下、線の下の一行に字が並んでいく。
途中で一度だけ手が止まって、字と字のあいだを広げ直した。詰めれば端まで余る。ソウは余らせなかった。
名は入らなかった。
「名は聞かないと決めた。聞けば言える口が増えるからだ」
ノノが爪先立ちで下から追った。読み終えるのに時間がかかった。
「きけば、いえるくちが、ふえる」
「読めた?」
「よめた。……くちって、なに」
「言える人のことだよ」
「ふえるとこまるの」
「困るね」
「じゃあ、ふやさない」
ノノは板きれを抱え直して、同じ行をもう一度上から見た。今度は声に出さなかった。
エネは輪の外に立ったままだった。読み上げも繰り返しもせず、紙を持つ手の位置だけ変えた。
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ミナは聞き手の三人を坂の途中へ待たせてから板の前へ来た。
板きれは抱えていない。
「あしたっていったの、きょうだよね」
「今日だ」
「ミナのも、なおしたよ」
「言うてみろ」
息を吸ってから、いつもの言い方をそのまま先に置いた。
「言わないって決めた話がある、ってところまでは話す」
「それは残すのか」
「のこす。まちがってないもん」
指を一本立てて、その先を継ぎ足した。
「そのあとに、なんで言わないかは話す」
クラウは穂先を紙から浮かせたまま、ミナの指のほうを見た。
「なぜ足す」
「言わないって言うだけだと、なんで言わないのかを自分で作っちゃうから」
ソウは硯の縁で筆をしごいた。
「三つに割れたのは、そこが空いてたからね」
「うん」
「線は動かさないのね」
「うごかさない。のばすだけだよ」
ミナは坂の途中を振り返った。三人はまだ同じところに立っている。
「あのね。おわりも、かえたの」
「終わり?」
「きいたひとが、なんでっていうでしょ。そこで、ミナはしらないっていう」
「知らんと言うのか」
「うん。しらないもん。しらないのにしってるみたいにしゃべると、ふえるでしょ」
クラウは筆の先を紙から離したままにしていた。
「……それでよい。足さんでよい」
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段の下は昼でも暗い。
柱の札の前でウーゴが屈んでいた。刃を布から出して、彫ってある並びを指の腹で確かめている。
「モジ、キマッタカ」
「決まったよ」
「ヨコカ、シタカ」
「下がいいんじゃないかな。上のは持ち場だもん」
「シタ。フカク、ホル」
ダクトが写しを胸の前で揃えた。
「板と同じ字にしていただきますぞ」
「違うと駄目なの」
「違いますと、どちらが本物かで揉めますからな。……揉めるのはいつも書いていない側ですぞ」
「見ながら彫ればいいんだよね」
「紙は下へ置けませんぞ。湿りますからな」
ダクトは束から一枚だけ抜いて、灯りの下で端を押さえた。
「読み上げますゆえ、彫るほうは手を止めずに」
刃が入りはじめた。木の粉が灯りの中を落ちていく。ダクトが一字ずつ区切って言い、大きいのは同じところで刃を返した。
エルクは彫られていく行を見ていた。壁のほうは見なかった。
「これさ」
「ナニ」
「向こうからは読めないよね」
手は止まらなかった。
「ヨメナイ」
「じゃあ読める人にだけ渡してることにならない?」
「ソレデモ、ホル」
「なんで」
「ホラナケレバ、ダレモ、ワタセナイ」
彫り終えた行を布で払って、ウーゴは深さを指で当たった。上の持ち場の彫りより深い。
「深いね」
「フカイト、ケズレテモ、ノコル」
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昼を回ってから柱の上へ影が下りた。
グリフは翼を畳んでから段の口を一度見た。
『行ってきた』
「上まで?」
『上までだ。理由のほうだけ持っていった。名は持っておらん』
「持ってないもんね」
『持っておらんから運べた。……主から預かった』
「なんて?」
『我らは一度、理由ごと消した。……二度目はせぬ』
「そのまま?」
『そのままだ。俺は足しておらん』
「短くない?」
『短い。短いものほど足したくなる。だから預かったまま下りた』
嘴の先が坂の下のほうへ向いた。
『枠は一羽のままだ。主もそう言うた』
「増やさないんだね」
『増やさん。理由を渡したから増やせ、とはならん』
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坂を上がると子らの声が揃っていた。
ノノは指を四本立てたまま前に立っている。四つ目まで言い終えても指は下りなかった。
「もひとつ、ふえるの」
「五つ目?」
「うん」
小さいのは護符の紐を握り直した。
「やめるときは、やめるっていう」
子らが繰り返した。三度目で揃った。
「なんで五つ目なの」
「わかんない」
「わかんないんだ」
「うん。でも、いる」
エルクはそれ以上聞かなかった。ノノも足さなかった。
エネは樽の上で紙へ線を引いた。誰が言い出したかは書かなかった。
クラウは半分ほど上ったところで立ち止まっていた。
「……足りるかもしれん」
「なにが」
「返さぬと決めた夜のことだ」
クラウは写し帳を持つ手を下ろした。板の側は見なかった。
「頭の無い拍には返さんと決めた。だが黙って返さんのでは、あれには何も起きておらんのと同じだ」
「返さないって、打てばいいんだ」
「打てばよい」
ライが段の口から紙を抱えて上がってきた。
『いま聞こえました』
「五つ目?」
『五つ目です。……返さないと打つなら、並びが要ります』
「作れる?」
『作れます。短いのを三つにします。板へ載せてから使います』
「先に使っちゃ駄目なの」
『載っていない並びは使いません。私が作ったものでもです』
「作った人でも?」
『私がいちばん駄目です。読む側は私の手を見ておりませんので』
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日が板の面から外れたころ、クラウは写し帳を膝へ載せた。
縦線が三本引いてある頁を開く。三本目の下には、跡がある、と一行だけ入っていた。
「そこ、まだ空みたいなもんだよね」
「空だ。高さは中身ではないと言うた」
「言ってたね」
「今日は中身がある」
筆が入った。名は入らない。年も入らない。
「やめると言う場所が無かった」
エルクは頁の上へ顔を寄せたまま動かなかった。
「それだけ?」
「それだけだ。それ以上は読んでおらん」
「……うん」
「読んでおらんことを書けば、書いたほうの声が本人の口から出たようになる」
ソウは二枚目の板の前で筆を止めていた。真ん中の欄に字の並びが三つぶん入っている。
「ここ、見出しがないわ」
「見出し?」
「なんの欄か書いてないの。名前と持ち場の次に字が並んでるだけよ」
「読めば分かるんじゃないの」
「今は分かるわね。私が書いたもの」
筆が欄の頭へ回った。
「五年経ったら、誰かが名前だと思うわ」
理由、と二文字だけ入った。
「二文字でいいの」
「二文字で足りるわ。足りないのは中身のほうよ」
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札を掛け直したのは日が落ちてからだった。
留め金は元のままで足りた。ウーゴは掛けたあと一度も触らずに段の口のほうへ下がった。
ウルは段の口の内側で伏せている。掛け直す音のあいだ、耳だけがそちらへ向いていた。
『一枚のままか』
「一枚だよ。字が増えただけ」
『字は数えぬ』
「数えないんだ」
『数えん。我が数えるのは人と刻だ。字を数えはじめると、字の多いほうを守る』
「多いほうが大事なんじゃないの」
『大事かどうかは我が決めることではない』
黒銀は前脚の上へ顎を置いた。
『今夜も同じ数だ。減っておらぬ』
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門の内側でライオが立ち上がった。
たてがみが動いて、そのあとに声が来た。
『下は済んだか』
「済んだよ」
『彫ったのだな』
「彫った」
『……読めぬ者へ彫ったか』
「読めないよ、向こうは」
『よい。読めぬ者へ彫ったものは、彫った側が忘れぬ』
「ライオは見に行かないの」
『行かぬ。我の刻はここだ』
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段を上がってきたのは壁のほうに付いていた当番だった。
手すりの縄をたどって上まで来て、段の口で息を整えた。
「下へ来てもらえますか」
「なんかあった?」
「来ました。一つ目の刻に入ったところです」
「短いの?」
「長いです。……こんなに長いのは初めてです」
エルクは段を下りる途中で柱の前に足を止めた。
掛け直した札は縁も見えない。彫ったばかりの行も、この暗さでは一字も出てこない。指の腹で上から下までなぞってから手を離した。彫りは深い。目で読めなくても指なら終わりまで届く。
記録の間の入口の灯りは低いままだった。
器は台に据わっている。ライは台へは触らずに床へ座って、紙を膝の上に広げていた。筆はもう持っている。当番はエルクを入れてから壁の前へ戻った。
「もう終わったの」
『終わりました。数えるところまでは済んでいます』
「早いね」
『来ているあいだに点を打ちました。あとから数え直すと、私の手が入ります』
「長かったんだって」
『長いです。用件で来るものはこれほど続きません』
ライは紙の向きを変えなかった。
『塗る音は先に止まりました。止まってから来ています』
エルクは台の脇へ手をつこうとして、途中で引いた。
『そこは触らないでください。ダクトが合わせた脚です』
「そうだった」
紙の上には墨の点が並んでいる。列は途中で一度切れていた。
『二つあります。長いほうが先で、短いほうが後です』
「続きじゃないんだ」
『続きではありません。あいだが空きすぎています』
「長いほうはなんて言ってるの」
ライは列の前のほうへ指を置いた。置いたまましばらく動かさなかった。
『分かりません』
「分かんないんだ」
『私の分け方は音の長さでできています。長さの合わないものはどこにも入りません』
「入らないとどうするの」
『読めないと書きます。読めないまま置いておきます』
「捨てないんだね」
『捨てません。あとで合う分け方ができたときに、これが無いと合わせられません』
指が列の後ろへ移った。今度はそこで止まらなかった。
『こちらは読めました』
「読めたんだ」
『読めました』
「なんて?」
『先に書かせてください』
「読んでからでもいいんじゃないの」
『よくありません。口で言うと、私が読んだことが落ちます』
「落ちる?」
『落ちます。聞いた人は器が言ったと覚えます。あとで違っていたときに、直す者がいなくなります』
「ライが直すんだよね」
『直します。ですから先に名を置きます』
筆が紙へ下りた。
一行目に入ったのは読みではない。刻と、読んだ者の名だ。名の下へ短い線を引いてから、ライは筆先を墨へ戻した。
壁の向こうでは塗る音がまた続いている。入口の灯りは低いままだ。
筆が二行目へ移った。




