第184話 やめた者の欄
雪は夜のあいだに締まった。
坂は途中まで踏んでも沈まない。板の下だけ黒い土が出ていて、そこに昨日の足跡が固まって残っている。ソウは右の端へ指を当てて、そのまま動かさなかった。
エルクは横から覗きこんだ。
「もう入らないんだ」
「入らないわ」
昨日書き足した行が縁まで来ている。指を一本置く幅も残っていない。
「小さく書けば入るんじゃないの」
「入るわよ」
筆は上がらなかった。
昨日の板きれを抱えたままのノノが、爪先立ちで脇の字を見上げている。
「そこ、よめない」
「そこだけ小さいのよ」
「ちいさいと、よめないよ」
ソウは筆を下ろさなかった。
「小さくしたら、子らが読めなくなるわ」
「読めない板ってさ」
「板じゃないわね」
ソウは筆の柄を親指で回した。回してから、板の右の端をもう一度上から下までなぞった。四本の線はどれも埋まっている。去年の冬に広く取ったぶんも、とうに字で塞がっている。残っているのは、三日前に取っておいた一行だけだった。
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庇の下から丸太の鳴る音がした。
ウーゴは丸太の脇にしゃがんで、板の縁の厚みを手の甲で当たっている。しばらくしてから広場のほうへ首を戻した。
「キマッタカ」
「何を書くかってこと?」
「ソレ。キマラナケレバ、ツクラナイ」
ソウは筆を硯の縁へ置いた。
「一枚目は今やってる人。二枚目は、やめた人と渡した先」
エルクは丸太の端から手を離さずに言った。
「決まったって」
「キマッタ。イタ、フタツ」
「二枚でいいの?」
「フタツ、デ、イイ」
「三枚は?」
「イラナイ。ミッツメハ、フタツガイッパイニナッテカラ」
エルクは丸太の端を持った。持ち上げるほうだけ手伝って、どこへ掛けるかも何を書くかも聞かなかった。
「トメガネ、ヨッツ」
「前に一つ足したよね」
「タシタ。フエタブンダケ、オモカッタ」
「二枚だともっと重いね」
「オモイ。ヨッツ、デ、モツ」
大きいのは留め金の頭を順に指で弾いた。四つとも同じ音になるまで木槌を当て直してから、二枚目を丸太の上へ寝かせた。
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ソウは掛ける前に並べ方を決めさせた。
一枚目の右へ横に並べる。上下ではなかった。
「上に掛けると、下のほうを誰も読まないわ」
「読まないんだ」
「読まないわよ。私も読まないもの」
筆の先が二枚目の面をなぞった。まだ何も入っていない板は日を返して白い。
「二つ要るんだね」
「一枚じゃ嘘になるの。今立ってる人の隣にやめた人を並べたら、誰が今日そこにいるのか分からなくなるわ」
「じゃあ二枚目のほうは、読まなくてもいい板?」
「そっちを読むのは後から来た人よ」
ソウは板の白いところへ手のひらを当てた。
「今いる人は一枚目でいいの。困るのはいなくなった後に来た人だもの」
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輪の後ろから声が来た。
「やめてよいと書いたら、皆やめるぞ」
薪を担いだ男だった。責める調子ではなかった。半分は自分に言っている言い方だった。
メルは頁を繰った。
「三人までは回ります」
「その次は」
「回りません」
指が頁の上を下りた。
「ですが三人出たら、たぶん元から回っていません。やめてよいと書いたから三人出るんじゃなくて、三人出る形のまま冬に入っていた、ということです」
「書かなきゃ出ねえだろうが」
「出ます。出たのが数に残らないだけです」
男は薪を抱え直した。それ以上は言わなかった。
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クラウが写し帳を膝へ載せたのは、日が板の面まで回ってからだった。
筆は先に二枚目の上のほうへ入った。三行だけだった。
「持ち場はやめてよい。やめるときは、やめると言う」
「渡すときは理由も渡す。言えない理由は、言えないと言って渡す」
「聞かされていない者を、続かなかった者と呼ばない」
書き終えてから、クラウは筆を寝かせて板から一歩下がった。字の大きさを離れて確かめる立ち方だった。
「足さないんじゃなかったの」
「足しておらん」
クラウは一枚目のほうへ顎を向けた。
「あちらの三行に四行目を足すなら、守れておらんと言うのが先だ。……これは足したのではない。今まで無かったものだ」
「新しいほうなんだ」
「新しい板の一行目からだ」
「三行だ。増やさん」
「三つ目って、上の二つとちょっと違うね」
「違う。上の二つはやめる側の決まりだ。三つ目は残る側の決まりだ」
「残るほうにも要るんだ」
「要る。やめた者を悪く言う口を先に塞いでおかんと、次のやつがやめると言えん」
エルクは二枚目の白いところを見た。
「ねえ。やめますって、どこに言えばいいのって前に聞いたじゃん」
「聞いたな」
「答えなかったよね」
「無かったからだ」
クラウは帳の頁を親指で押さえた。
「言う先が要る、という話だった。……今日は板だ」
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坂のほうから長が上がってきた。
レオルは休みの欄のいちばん上を見上げた。半年ぶん動いていない字がそこにある。
「昨日の続きだよね」
「続きだ」
「来る必要がなかった、ってやつ?」
「言うた。……我が立っておっても、おらんでも、同じ夜だった」
尾の先が雪の上で止まった。
「これを移す」
「移すって」
「夜の門の持ち場だ。我はやめる」
板の前が静かになった。ソウの筆も止まった。
「半年ぶん、我は戻ると言い続けておった。戻る気の無い者が戻ると言い続けるのは、欄を一つ潰しておるのと同じだ」
「戻らないの」
「戻らぬ」
胴の下の雪が音を立てて沈んだ。
「出た先が無いって言ってたよね」
「言うた」
「できたね」
「できた」
ソウが筆を持ち直した。
「渡し先は」
「我は誰にも渡さぬ」
長は二枚目のほうへ顎を向けた。
「……板に渡す」
「人じゃないんだ」
「人にすれば、渡された者が次に一人で立つ。持ち場は板が持っておればよい。要るときに要る者が取る」
ソウは休みの欄の字へ細く線を引いた。塗り潰さない。二枚目の一行目にレオルの名と夜の門が入って、渡した先の欄は空いたままになった。
「長はやめないよね」
「やめぬ」
レオルは板から目を離さなかった。
「それは別の話だ。やめるときは、やめると言う。今日はこの持ち場だけだ」
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ドレクは井戸のほうから来た。桶は提げていない。
二枚目の前で足を止めて、乾ききっていない縁へ手を置いた。誰より先に触ったのはこの男だった。
「よそ者の枠のときと同じだ」
「同じって」
「誰も先に書いてねえ板は、後から来たやつが触っても文句を言われねえんだよ」
ソウは筆を持ったまま待った。
「消してくれって言ったやつだけどな」
「言ったわね」
「消すのは右の端のほうだ。下のは消さねえ」
「別の欄よ」
「別だ」
男は板の左の端を指した。欠きの入った短い並びがそこにある。
「下の当番はこっちだろ。左の欄に、欠きで入ってるやつだ」
「入ってるわ」
「右の端のは四つ目の欄だ。なんの当番かも知らねえまま名前だけ置いた。やめるのはそっちだけだよ」
ソウは板のほうを向いたまま短く受けた。
「そう」
「下は下りる」
ドレクは縁から手を離さなかった。
「下りるって言ったのは、板に書いてあったからだ。あっちは中身を聞いてから入ったんだ。知らねえまま置いた名と、聞いてから入った当番はおれの中じゃ別のもんだ」
「分かったわ」
筆が動いた。二枚目の二行目に名が入って、その脇へやめた持ち場が入る。右の端、と読める字だった。
それからソウは一枚目へ回って、右の端の名へ細く線を引いた。塗り潰さない。消し方は、今日やっと決まった。下の当番のほうは左の欄に残ったままだった。
クラウが横から覗いた。
「渡す先は」
「居ねえよ。おれの代わりに右の端へ入りてえやつなんざ、いるわけねえだろ」
「では、渡してはおらんと入れる」
「理由も要る」
「言わなきゃならねえのか」
「言えない理由は、言えないと言って渡す。……板にそう書いた」
「言えるよ」
ドレクは襟を下ろした。
「夜に思い出すって前に言ったな。知らねえもんの当番に、おれの名前だけ入ってた。それが理由だ」
クラウの筆は顔を上げずに動いた。理由の欄は一行で足りた。聞かされておらぬまま名を書いた、と入った。
「それだけだ」
「それだけかよ」
「それだけだ。書いたら次へ行く」
ドレクは二枚目から手を離した。
「消してくれって言った日は、やめる場所が無かったんだよな」
「無かったわ」
「今日はある」
男はそれだけ言って、薪小屋のほうへは行かなかった。段の口のほうへ歩いていく。昼の当番の刻だった。
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柱の上のほうから糸が一本垂れた。
アラーネは板の縁までは下りてこない。少し上で止まって前脚を組んだ。
「下の糸ね~、二本のうち一本はやめるわ~」
「やめちゃうの」
「やめるわ~。私が二本とも張ると、私が下りられない日に二本とも死ぬのよ~」
「一本ずつなら」
「片方は生きるわ~」
板の裏からラネが顔を出した。結び目をこしらえていた指がまだ動いている。
「私の名前で張るのよ!」
「アラーネのぶんじゃなくて?」
「私の! 私が張った糸は、私が見に行くの!」
「見に行くところまでが持ち場だもんね」
「そう!」
二枚目の三行目にアラーネの名が入って、その隣の欄にラネの名が入った。渡した先が埋まったのは、その一行だけだった。
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ダクトが写しの束を抱えて卓の脇まで来た。
「写しを一枚増やしますかな」
「増やしたほうがいいの?」
「私に決めさせるのはおやめくださいですぞ」
束を胸の前で揃え直した。
「枚数を決めるのは持って行かれる側ですからな」
クラウが顎を引いた。
「増やさん。四枚のままだ。二枚目のぶんは同じ紙の裏へ写せ」
「承知しましたぞ。紙が増えますと、どれが本物かと必ず聞かれますからな」
小屋のほうから丸いのが跳ねてきた。
『昼のぶんは並べたッス』
「もう?」
『並べるッス。夜のぶんが動いたら昼も動くッスからね』
「動いた?」
『動いたッス。一つ減って、一つ増えたッス。……おいらは名前しか見てないッスけどね』
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日の当たる石の上でたてがみが持ち上がった。
ライオは二枚目の前まで来て、上から順に読んだ。読み終えるのに時間はかからなかった。三行と、名が三つだけだった。
『……我の名は、まだこちらには無いな』
「ないよ」
『無くてよい』
前脚をそろえ直した。
『……いつか要る』
「そのとき書けばいいよ」
『書く。その日に欄が無ければ、我はまた減らすほうへ回る。減らすは、やめるの顔をしておるゆえな』
黒銀は一枚目の脇から動いた。二枚目の前まで来て、そこで伏せた。
何も言わなかった。エルクが横に立っても耳だけがこちらを向いて、それきりだった。
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板は二枚になった。
留め金は四つ。二枚目には三つの行と、名が三つ入っている。やめた者の欄に字が入ったのは、この国では今日がはじめてだった。
ソウは硯を石の上へ戻してから、一枚目の右の端をもう一度見た。幅はまだぎりぎりだ。減った行はひとつも無い。
「軽くならないんだ」
「ならないわね。やめた人のぶんは、誰かが持つもの」
ソウは筆の先で一枚目の右の端をなぞった。線の下の一行はまだ白い。脇の日付は今日のぶんまで足してある。
「そこは?」
「今日も延ばすわ」
クラウは写し帳を閉じなかった。
「明日だ。名と理由はまだ分けられておらん」
エルクは坂の下へ目をやった。段の口の先は昼でも暗い。
ウーゴが彫るほうの刃を布で拭いている。
「シタノハ、イチマイ」
「下は増やさないの」
「フヤセル」
大きいのは刃を石の上へ置いた。
「……ホル、モジガ、キマッテナイ」
段の下の柱に掛かっているのは、去年掛けた一枚きりだ。彫ってあるのは持ち場だけだった。やめてよいとは彫っていない。渡すときは理由も渡す、とも彫っていない。
三行はこちらの板にしか無い。下の一枚には、なぜ毎晩塗るのかも、いつまで塗るのかも、一字も入っていなかった。
エルクは坂の下をしばらく見ていた。雪はもう固い。




