第183話 雪の深い日
昼を過ぎてから粒が大きくなった。
板の面に乗ったぶんは払ってもすぐ戻る。ソウは三度目でやめて袖を下ろした。坂の足跡は途中までしか残っていない。上から降りるものが下から来るものより早い。
メルが庇の下で綴りを開いた。
「今夜です」
「深くなるの」
「なります。日暮れまでにもう一度積みます」
「そこまで分かるんだ」
「分かりません。積むほうへ賭けます。外したら明日また賭けます」
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板の前に人が集まりはじめた。
ソウは左の欄からは読まなかった。右の端の脇にある短い並びのほうを先に読み上げる。
「短いのが二つ。長いのが一つ。これが下の一人目よ」
「名前じゃねえのかよ」
「あとで言うわ。今夜は並びのほうが先なの」
「順番なんざ聞いても覚えられねえぞ」
「覚えなくていいわ。板の前で聞いて、板の前で打つんだもの」
炭の袋を提げた男は口を閉じた。閉じてから右の端の脇の欠きを目で追っていた。
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メルが綴りの頁を裏返した。
「下は四人で足ります」
「四人?」
「四人です。残りは上でいいんです」
輪の前のほうが静かになった。
「去年は十二人おったろうが」
「おりました。去年は下にいないと声が届きませんでした」
メルは指を頁の上へ置いた。
「今年は打てば届きます。打つところは下でなくていいんです」
「楽になったってことか」
「軽くなっただけです。足りないのは去年と同じです」
誰も笑わなかった。数はそのまま板の脇へ書き足された。
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エルクは板の左の端で自分の名を探した。
二度戻ってから指が止まった。名の脇に欠きが二つと一つ。上の欄に入っている。
「僕、今日は上だよ」
「下りねえのか」
「書いてあるもん」
ソウは名簿から目を上げなかった。
「そこ、あんたが自分で入れたのよ」
「入れたね」
「入れたやつが破ったら、次から誰も欄を信じないわ」
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ウーゴは板の裏へ回っていた。留め金の下を手のひらで押して、それから離した。
「今日はまだ?」
「マダ」
「もう一枚って言ってたよね」
「イッタ」
ウーゴは道具の袋を担ぎ直した。
「ナニカクカ、キマッテナイ」
「決まったら作るの」
「キマッタラ、ツクル。ヨルハ、シタニイル」
クラウが右の端の脇へ筆を入れた。前の日付の上へ細く一本引いて、その脇へ今日を足す。消しはしなかった。
「延ばしたと書く」
「白いままにしないんだね」
「せん。延ばした日が残っておれば、忘れたのではないと後で分かる」
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段の下では夕方のうちに糸が張られていた。
アラーネは天井の際から二本目まで下りて、そこで前脚を止めた。
「今夜は下だけよ~」
「上は張らないの?」
「張らないわ~。上まで張ると、上で人が動いたぶんまで乗るのよ~」
ラネが低いほうの端で結び目をこしらえている。指の先が二度往復した。
「ふたつつくるのよ!」
「二つ?」
「ひとつは私! もうひとつは姉さんの!」
アラーネは糸を離さなかった。
「結び目はね~、数えるためについてるんじゃないのよ~。どこで結んだか分かるためのものよ~」
ウーゴは低い腰かけを壁のほうへ据えて、それきり動かなくなった。柱の札の縁を指で二度なぞって、彫った浅さを確かめただけだった。
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上では丸いのが小屋の戸を叩いて回っていた。
『起きるッスよ』
「もう起こすんだ」
『起こすッス。飯食う時間がいるッスからね』
スラは分身を二つ、別々の戸口へ置いている。
『寝かせたぶんは、おいらが起こして送り出すまでが仕事ッス』
「夜は入らないもんね」
『入らねえッス。おいらが夜に入ったら、明日の昼に寝かせる人がいなくなるッス』
跳ねて次の戸口へ移っていった。誰も呼び止めなかった。
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ケインは板の前から離れなかった。
石を一つ選んで、打つ面を手の甲で払っている。
「上で打つっす」
「下りたそうな顔してるけど」
「下りてえっすよ」
ケインは石の縁を親指でなぞった。
「けど、おれ先に名前置いといたやつっすからね。上のぶんに穴あけたら、置いた意味がねえっす」
脇でノノが板きれを膝に載せて座った。エネはうしろの樽に腰かけて、紙を膝から下ろさない。ミナは段の三つ目に座って、下りていく順を口の中で繰り返していた。
「ノノ、かぞえるね」
「数えるの」
「うつかず、かぞえる。かぞえるだけならまちがえないもん」
エネは何も言わなかった。紙の隅を折って印にしただけだった。
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入口の外の雪はいつもの縁で途切れていた。
ドラゴは胴を半分だけせり出させて、それから首を動かした。
『我の場所はここではないのだ』
「動くの」
『動く。前は入口の外におった』
尾が雪を割って、石の出ているところまで下りた。
『今日は少し寄る。……上と下で同じ音が要るのだろう』
「聞こえた?」
『聞いた。空のが言うておった』
ドラゴは尾の先を石へ当てて一度打った。段の口の内側で、ライの声だけが上がってきた。
『届いています。上でも下でも同じ数です』
『では、ここだ』
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柱の上でグリフが翼をひらいて畳み直した。
『上で打つ。下まで届かん』
「じゃあどうするの」
『届かんぶんは俺が持って下りる』
「下には入らないよね」
『入らん。段の口までだ』
首が坂の下を向いた。
『空のぶんは俺一羽だ。増やさん。増やせば、次に一羽で足りなんだ時に理由が要る』
「うん」
『俺は数と、聞いたことだけを持って下りる。読みは持って下りん』
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夜に入って、下は四人になった。
当番の女が刻を書く紙を膝に置いている。もう一人の当番は壁際で灯りの油を足していた。レオルは通路の口が見える側へ胴を寄せた。ドレクは腰かけの端に腰を下ろして、両手を膝の上で組んでいる。
ライは器の前に座った。数には入っていない。ここは初めからライの場所だ。
「よそ者の枠のやつが下かよ、と昼に言われたぞ」
ドレクは手の甲で鼻をこすった。
「書いてありゃ下りるんだよ、おれは」
レオルは首だけを動かした。
「打たぬと言うておったな」
「言った」
ドレクは膝の上で手を組み直した。
「打たねえのと、下りねえのは別だったんだよ。……打つのは何回だ」
「順に一度ずつだ。抜けたところはそのままにする」
「そのままかよ」
「埋めれば、打った者と打っておらぬ者が同じ形になる」
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中夜の手前で門の内側から声が来た。
『我は下がる』
「もう?」
『決めた刻だ』
エルクは坂の途中で足を止めた。雪は膝の下まで来ている。
「今日くらいいてもいいんじゃないの」
『今日は特別か』
「特別でしょ」
『特別な日に残る者は、次の特別な日にも残る』
ライオの声は下がらなかった。
『残った日は誰も咎めぬ。咎めぬゆえ、下がる刻のほうが先に消える』
「……わかった」
『我は明日もおる。明日おるために下がるのだ』
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塗る音が止まったのは、夜が二つ目の刻に入ってすぐだった。
『止まりました』
「眠ったの」
『眠ったと思います。針も落ちています』
黒の縁が灯りの届く手前まで下がりはじめた。
最初に打ったのは下の一人目だった。短いのが二つ。長いのが一つ。それから間を置いて、いつもの用件。段の口でグリフの声がして、上の一人目の並びがそのまま下で鳴った。
ドラゴの尾が同じ間で石を打っている。上と下の両方で同じ音がした。
ノノは板きれの上へ線を一本ずつ引いていた。
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声は来なかった。
半刻経っても来なかった。もう半刻待っても、器の針は細かい振れのままだった。
『来ません』
「まだ早いのかな」
『去年は名が三十いくつのころでした。今は四十を越えています』
紙の端をそろえて、ライは筆を持ち替えた。
『頭の無い拍も来ていません』
「そっちも来ないんだ」
『来ていません。……こちらの打ったぶんだけが並んでいます』
ドレクが腰かけの上で背を伸ばした。
「何も来ねえのはいいことだろ」
誰も返さなかった。レオルの尾が床の上で一度だけ動いて、そのまま止まった。
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上では小屋の戸が開けたままになっていた。
布の上の箱は夕方と同じ明るさで光っている。強くもならず、弱くもならない。ライの代わりに刻を測っている当番が、同じところへ同じ形の字を書き足していた。
ウルは段の口から動かなかった。
『下は四人。上は十四だ』
「合ってる?」
『合うておる。四半刻ごとに数えた。減っておらぬ』
「今日は数えるだけなんだね」
『数えるだけだ。書くのはライだ』
黒銀の耳が一度だけ下へ向いた。
『主。来ておらぬな』
「来てないね」
『来ぬのと、来られぬのは違う』
「どっちなの」
『分からぬ。分からぬゆえ、我は数だけ言うておる』
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ケインは打ち続けていた。
順が回るたびに石の面を払って、二つと一つを置く。それを夜のあいだ十度以上やった。
「なんも来ねえっすね」
「来ないね」
「これ、勝ってるんすか」
エルクは板の前の灯りを見ていた。
「わかんない」
「わかんねえのかよ」
「うん」
ノノが板きれを持ち上げた。線は数えきれないほど並んでいる。
「ひゃくと、まだあるよ」
「そんなに打ったんだ」
「ぜんぶかぞえた。ぬけたのはひとつもないよ」
エルクはその板きれをしばらく見ていた。誰も一度も抜けなかった。それでも何も来なかった。
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塗る音が戻ったのは夜明けの前だった。
『上がりました』
「戻ってる?」
『戻っています。縁からです』
黒が広がり直していく。ライは針の振れが去年と同じ幅まで戻るのを待ってから、そこで一行だけ書いた。
ダクトが写しを抱えて段を上がってきた。夜のあいだ、上と下を四度往復している。
「下のぶんと上のぶんが同じですぞ」
「合ってたんだ」
「合っておりますな。……合っておることのほうが、今日は書きにくいですぞ」
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朝の板の前には人が集まった。
昨夜のことを聞きたがっている顔ばかりだった。ソウは筆を硯へ浸けてから、名簿ではなく板の脇へ手を伸ばした。
「なんかあったのかよ」
「なかったわ」
「なんにもか」
「なんにもよ」
ソウは日を先に入れて、その下へ字を大きく続けた。
「来なかったことを書くのよ」
「来なかったのを書くのか」
「書くわ。何も無かった夜こそ書くの」
前は、探しに行って見つからなかったことを書いた。今度は自分たちで構えて、構えたほうが空を打ったと書く。板の上では同じ長さの一行になる。
クラウは写し帳の縁を親指で押さえたままでいた。
「打った数も入れておけ」
「入れるわ」
「来なかった、だけでは足りん。何をして来なかったのかが残らん」
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レオルは板の下の雪の上に胴を置いていた。
日はまだ坂の向こうにある。長は右の端を見上げてから、ゆっくりと口を開いた。
「来なんだのではない」
板の前の声が止まった。
「……来る必要がなかったのだ」
誰も返さなかった。ソウの筆は硯の縁に置かれたままになった。ノノは線の並んだ板きれを胸に抱えたまま、大人たちの顔を順に見上げている。
雪はもう降っていない。夜のあいだに積んだぶんだけが、板の下で固く締まりはじめていた。




