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辺境の村のモンスターテイマー  作者: スルメイカ
第六部・来なくなった者/渡し切れない持ち場編
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第182話 届かなくなった手

 段の口の黒銀は伏せなかった。


『主。下は六人になるぞ』


「うん。ウーゴが先に行ってる」


『行った。腰かけを二つ抱えておった』


 ウルは灯りを持たない。段の下へ耳だけ向けて、前脚を組み直した。


『刻も数えておく』


「いつもは数えないよね」


『数えぬ。今日は長くなると思うたゆえ』


「わかるんだ」


『分からぬ。長くなってもよいように数えておくだけだ』


---


 記録の間の灯りは金具ごと下へ打ち替えられていた。


 ウーゴが縄を短く結び直している。炎の輪が床のほうへ落ちて、壁の低いところだけが明るくなった。立っている者の顔は暗いままだ。


「ヒクイ」


「これでいいの?」


「モット、サゲル」


「そこまでは要らないかな」


 大きいのは低い腰かけを二つ運んで、低い層の正面へ並べた。並べ終えてから、自分は座らずに壁のほうを向いて床へ下りた。


「ウゴカナイ」


「動かなくていいよ」


「ハコブノ、オワッタ」


---


 メアは腰かけの手前で膝を折った。


 座る前に、灯りの縁から自分の影が壁へ落ちていないかを確かめている。確かめてから、影の外へ半歩ずれて座った。


「触ってもいいですか」


「だめだよ」


「じゃあ、このままで」


 クラウは膝に写し帳を広げて、筆は寝かせたままにした。レオルは通路側の壁を背にして立っている。胴の半分が灯りの外にあった。


 ライは担いできた台を据えて、紙を三枚その上へ広げた。


『高さの紙です。三枚目が段の下がり方です』


「見ながらのほうがいいかな」


『いりません。並べるのはあとです』


---


 メアは膝の上で指を組んだ。


 組んだまま、低いところの黒を見ている。息の音が二度、灯りの芯の音に重なった。


「……読めません」


「今日も?」


「今日はちがいます」


 メアは目を離さずに首だけ振った。


「上のは、見せないようにされてました。こっちはそうじゃないです」


「隠されてないんだ」


「隠されてないです」


 組んだ指がほどけた。


「薄いんです。誰も覚えてないものは、こんなふうに薄くなります」


---


 クラウが顎を引いた。


「薄いというのは、消したのとは別か」


「別です。消したのはもっと固いです。……これは、置いてあったものが減っただけです」


「読める端はあるか」


「端だけならあります」


 メアは灯りを膝より上へ上げなかった。


「……手が見えます」


「手」


「伸ばしてます。上のほうへ」


 エルクは腰かけには座らなかった。メアの後ろで片膝をついて、そのまま動かなくなった。


---


「届いてます」


 声はさっきより低くなった。


「最初のころは届いてます。……いちばん上まで行きます」


「途中からは」


「行かなくなります」


 三枚目の紙の上でライの指が止まった。


『二十年ぶんです。一年に指の幅ほど下がります』


 エルクはメアのほうへ顔を戻した。


「その通りなんだって」


「そうだと思います。手じゃなくて、肩のほうが上がらなくなってます」


 メアは言葉を切って、少しだけ顎を引いた。


「毎日、同じところから来ます」


「どこから?」


「分かりません。……来る向きが同じ、っていうだけです」


---


 黒の段は途中から目に見えて低くなっている。


「途中から、来ても塗らない日が入ります」


「休んでるの?」


「休みじゃないです。来てます。来て、壁の前に立ってます」


「立ってるだけ?」


「立ってるだけです」


 メアの声だけが続いた。片方の手のひらだけが膝の上で上を向いている。


「立ってる時間のほうが長くなります。塗る時間より」


「そのまま帰るんだ」


「帰ります。……でも、帰るときに一回だけ壁を打ってます」


 クラウの手が止まった。


「打つ、と言うたか」


「打ちます。毎日です。一回だけ」


 しばらく間が空いた。


「……あれが打ち方を知っておった理由だな」


「そうかもしれないね」


「そう読んだ、と書く」


---


 灯りの芯が細く鳴った。


「さいごのほうは、ずっと同じことを思ってます」


「なに?」


「……たぶん、あしたはできる、です」


 エルクは何も返さなかった。


「毎日そう思って、毎日それより下を塗ってます」


「最後の日は」


「来てます」


「うん」


「立ってます。いつもより短いです」


「それで」


「打たないで帰りました」


 打たないで帰った、という一言だけが残った。


 ウーゴは壁のほうを向いたままでいる。ライの指は三枚目の紙の端に置かれている。レオルの尾は床へ伸びたきりだった。


---


 ライが紙を一枚だけ手前へ寄せた。


『合っています』


「数と?」


『数とです。立った日は塗りが乗りません。乗らない年は厚みが薄くなります』


「薄い年があるんだ」


『あります。最後の二十年は、どの年も前の年より薄いです』


 紙の角をそろえて、そこで筆を持ち替えた。


『ですが、数が言うのは薄いことだけです。立っていた、とは数は言いません』


「そっちは分けとくんだね」


『分けます。混ぜると、後で数のほうが言ったことになります』


---


 メアは膝へ手を戻した。


「これで終わりです」


「何者かは分かるか」


「分かりません」


「背丈でも構わん」


「……そこまで残っていません」


 クラウはそれ以上聞かなかった。写し帳を繰って、来なくなった者の欄の下へ行を足した。跡がある、とだけ入っていた欄だった。


「見たのはメアだと書く」


「うん」


「読んだのはこっちだ。本人の言葉ではない。そこを混ぜると、いつか本人が言うたことになる」


---


 レオルが口を開いた。


 開いてから、そのまま閉じた。


「なに?」


「……いや」


「言っていいよ」


「言えば、我の話になる」


 長は低いところを見たままだった。灯りは胴の下半分までしか届いていない。


「今日はあれの話だ」


---


 エルクはしばらく立たなかった。


 立ち上がってからも、低い層の終わりから目を離さなかった。段は終わりのところで床すれすれまで下りて、その先には素の石しかない。


「ねえ」


「なんだ」


「……やめますって、誰に言えばよかったんだろ」


 クラウは天井の暗いところを見ていた。


 答えは無い。ライの手も紙の上で止まっている。灯りの輪だけが床の上で少し揺れた。


---


 台の上の器の針が振れたのは、メアが腰かけから立った直後だった。


 短い。毎晩の長いものではなかった。


『来ました。頭は付いています』


「じゃあ、あの人だね」


『あの人です。頭はいつもの二つでした。……そのあとが四つあります』


 ライは台の上で紙をずらして、跳ねの並びを灯りの側へ押し出した。頭のあとの四つは、間隔が二つずつで組になっている。


『棚のどれにも当たりません』


「分からないってこと?」


『分けられません。分けられないと書いて、そのまま残します』


「読める?」


『読みます。私の読みです。書くなら私が読んだと書いてください』


「書く」


 クラウは行の頭で手を止めた。


『おこって いない』


 エルクは壁のほうを見た。


「……三百年ぶん、怒ってないんだ」


『そう読みました。それ以上は読めません』


---


 段を上がると風のほうが先に来た。


 入口の外は雪が斜めに流れている。黒い胴の上には積もっていない。ドラゴは首を段の口へ向けたまま待っていた。


『長かったな』


「長かったね」


『我は入らぬ。狭いのだ』


「うん」


『入らぬが、待つのは仕事のうちだ。そう書いてある』


 柱の上から羽の音が下りてきた。グリフは翼を畳んだままだった。


『下へは入っておらん。上で待った』


「なにかあった?」


『何もない。……何もないと書け』


---


 板の前へ着いたころには雪が浅くなっていた。


 ソウは名簿を開いて、空いている面へ手のひらを当てている。


「日を決めるわ」


「今日決めるんだ」


「決めるわ。……日付じゃないけどね」


 メルが束を胸から下ろした。


「次に雪が深く積む晩にします」


「雪って選べないよね」


「選べません。選べないから選びます」


 メルは指を三本立てた。


「戻りはふた月です。ここからふた月のあいだに、深く積む晩は三度は来ます。三度来て一度も使わない、ということにはなりません」


---


 クラウが板の左へ目をやった。


「日を書けば、日のほうが決まりになる」


「なるの?」


「なる。書いた日が近づけば、皆その日へ向けて背を伸ばす。伸ばした背は早めたがる」


「早めないためなんだ」


「そうだ」


 ソウは板の左の下へ雪の一字を大きく入れた。日を入れる幅は空けずに、その下へ理由のほうを長く続けて書く。


「きめていない、は消さないの?」


「消さないわ。上から線を引いて、脇に今日を入れるの」


「消したほうが早くない?」


「早いわね。でも消したら、いつまで決めてなかったかが誰にも分からなくなるわ」


 線は細く引かれた。下の理由のほうはそのまま残った。


「上より下のほうが長くなったわ」


「いいの?」


「いいのよ。日は一晩で済むけど、なんでかは残るからね」


「読めない人には、僕が言うよ」


「そうしてちょうだい」


---


 レオルは板の左の下を見ていた。


「早めぬのだな」


「早めないよ」


「……よかろう」


 尾の先は雪を叩かなかった。


 右の端の空きには明日の日付だけが入っている。まだ白い。白いままの一行を残したまま、左の下の字だけが乾きはじめていた。


 エルクは坂を下りながら一度だけ振り返った。


 雪はまだ浅い。


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