第182話 届かなくなった手
段の口の黒銀は伏せなかった。
『主。下は六人になるぞ』
「うん。ウーゴが先に行ってる」
『行った。腰かけを二つ抱えておった』
ウルは灯りを持たない。段の下へ耳だけ向けて、前脚を組み直した。
『刻も数えておく』
「いつもは数えないよね」
『数えぬ。今日は長くなると思うたゆえ』
「わかるんだ」
『分からぬ。長くなってもよいように数えておくだけだ』
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記録の間の灯りは金具ごと下へ打ち替えられていた。
ウーゴが縄を短く結び直している。炎の輪が床のほうへ落ちて、壁の低いところだけが明るくなった。立っている者の顔は暗いままだ。
「ヒクイ」
「これでいいの?」
「モット、サゲル」
「そこまでは要らないかな」
大きいのは低い腰かけを二つ運んで、低い層の正面へ並べた。並べ終えてから、自分は座らずに壁のほうを向いて床へ下りた。
「ウゴカナイ」
「動かなくていいよ」
「ハコブノ、オワッタ」
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メアは腰かけの手前で膝を折った。
座る前に、灯りの縁から自分の影が壁へ落ちていないかを確かめている。確かめてから、影の外へ半歩ずれて座った。
「触ってもいいですか」
「だめだよ」
「じゃあ、このままで」
クラウは膝に写し帳を広げて、筆は寝かせたままにした。レオルは通路側の壁を背にして立っている。胴の半分が灯りの外にあった。
ライは担いできた台を据えて、紙を三枚その上へ広げた。
『高さの紙です。三枚目が段の下がり方です』
「見ながらのほうがいいかな」
『いりません。並べるのはあとです』
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メアは膝の上で指を組んだ。
組んだまま、低いところの黒を見ている。息の音が二度、灯りの芯の音に重なった。
「……読めません」
「今日も?」
「今日はちがいます」
メアは目を離さずに首だけ振った。
「上のは、見せないようにされてました。こっちはそうじゃないです」
「隠されてないんだ」
「隠されてないです」
組んだ指がほどけた。
「薄いんです。誰も覚えてないものは、こんなふうに薄くなります」
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クラウが顎を引いた。
「薄いというのは、消したのとは別か」
「別です。消したのはもっと固いです。……これは、置いてあったものが減っただけです」
「読める端はあるか」
「端だけならあります」
メアは灯りを膝より上へ上げなかった。
「……手が見えます」
「手」
「伸ばしてます。上のほうへ」
エルクは腰かけには座らなかった。メアの後ろで片膝をついて、そのまま動かなくなった。
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「届いてます」
声はさっきより低くなった。
「最初のころは届いてます。……いちばん上まで行きます」
「途中からは」
「行かなくなります」
三枚目の紙の上でライの指が止まった。
『二十年ぶんです。一年に指の幅ほど下がります』
エルクはメアのほうへ顔を戻した。
「その通りなんだって」
「そうだと思います。手じゃなくて、肩のほうが上がらなくなってます」
メアは言葉を切って、少しだけ顎を引いた。
「毎日、同じところから来ます」
「どこから?」
「分かりません。……来る向きが同じ、っていうだけです」
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黒の段は途中から目に見えて低くなっている。
「途中から、来ても塗らない日が入ります」
「休んでるの?」
「休みじゃないです。来てます。来て、壁の前に立ってます」
「立ってるだけ?」
「立ってるだけです」
メアの声だけが続いた。片方の手のひらだけが膝の上で上を向いている。
「立ってる時間のほうが長くなります。塗る時間より」
「そのまま帰るんだ」
「帰ります。……でも、帰るときに一回だけ壁を打ってます」
クラウの手が止まった。
「打つ、と言うたか」
「打ちます。毎日です。一回だけ」
しばらく間が空いた。
「……あれが打ち方を知っておった理由だな」
「そうかもしれないね」
「そう読んだ、と書く」
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灯りの芯が細く鳴った。
「さいごのほうは、ずっと同じことを思ってます」
「なに?」
「……たぶん、あしたはできる、です」
エルクは何も返さなかった。
「毎日そう思って、毎日それより下を塗ってます」
「最後の日は」
「来てます」
「うん」
「立ってます。いつもより短いです」
「それで」
「打たないで帰りました」
打たないで帰った、という一言だけが残った。
ウーゴは壁のほうを向いたままでいる。ライの指は三枚目の紙の端に置かれている。レオルの尾は床へ伸びたきりだった。
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ライが紙を一枚だけ手前へ寄せた。
『合っています』
「数と?」
『数とです。立った日は塗りが乗りません。乗らない年は厚みが薄くなります』
「薄い年があるんだ」
『あります。最後の二十年は、どの年も前の年より薄いです』
紙の角をそろえて、そこで筆を持ち替えた。
『ですが、数が言うのは薄いことだけです。立っていた、とは数は言いません』
「そっちは分けとくんだね」
『分けます。混ぜると、後で数のほうが言ったことになります』
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メアは膝へ手を戻した。
「これで終わりです」
「何者かは分かるか」
「分かりません」
「背丈でも構わん」
「……そこまで残っていません」
クラウはそれ以上聞かなかった。写し帳を繰って、来なくなった者の欄の下へ行を足した。跡がある、とだけ入っていた欄だった。
「見たのはメアだと書く」
「うん」
「読んだのはこっちだ。本人の言葉ではない。そこを混ぜると、いつか本人が言うたことになる」
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レオルが口を開いた。
開いてから、そのまま閉じた。
「なに?」
「……いや」
「言っていいよ」
「言えば、我の話になる」
長は低いところを見たままだった。灯りは胴の下半分までしか届いていない。
「今日はあれの話だ」
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エルクはしばらく立たなかった。
立ち上がってからも、低い層の終わりから目を離さなかった。段は終わりのところで床すれすれまで下りて、その先には素の石しかない。
「ねえ」
「なんだ」
「……やめますって、誰に言えばよかったんだろ」
クラウは天井の暗いところを見ていた。
答えは無い。ライの手も紙の上で止まっている。灯りの輪だけが床の上で少し揺れた。
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台の上の器の針が振れたのは、メアが腰かけから立った直後だった。
短い。毎晩の長いものではなかった。
『来ました。頭は付いています』
「じゃあ、あの人だね」
『あの人です。頭はいつもの二つでした。……そのあとが四つあります』
ライは台の上で紙をずらして、跳ねの並びを灯りの側へ押し出した。頭のあとの四つは、間隔が二つずつで組になっている。
『棚のどれにも当たりません』
「分からないってこと?」
『分けられません。分けられないと書いて、そのまま残します』
「読める?」
『読みます。私の読みです。書くなら私が読んだと書いてください』
「書く」
クラウは行の頭で手を止めた。
『おこって いない』
エルクは壁のほうを見た。
「……三百年ぶん、怒ってないんだ」
『そう読みました。それ以上は読めません』
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段を上がると風のほうが先に来た。
入口の外は雪が斜めに流れている。黒い胴の上には積もっていない。ドラゴは首を段の口へ向けたまま待っていた。
『長かったな』
「長かったね」
『我は入らぬ。狭いのだ』
「うん」
『入らぬが、待つのは仕事のうちだ。そう書いてある』
柱の上から羽の音が下りてきた。グリフは翼を畳んだままだった。
『下へは入っておらん。上で待った』
「なにかあった?」
『何もない。……何もないと書け』
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板の前へ着いたころには雪が浅くなっていた。
ソウは名簿を開いて、空いている面へ手のひらを当てている。
「日を決めるわ」
「今日決めるんだ」
「決めるわ。……日付じゃないけどね」
メルが束を胸から下ろした。
「次に雪が深く積む晩にします」
「雪って選べないよね」
「選べません。選べないから選びます」
メルは指を三本立てた。
「戻りはふた月です。ここからふた月のあいだに、深く積む晩は三度は来ます。三度来て一度も使わない、ということにはなりません」
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クラウが板の左へ目をやった。
「日を書けば、日のほうが決まりになる」
「なるの?」
「なる。書いた日が近づけば、皆その日へ向けて背を伸ばす。伸ばした背は早めたがる」
「早めないためなんだ」
「そうだ」
ソウは板の左の下へ雪の一字を大きく入れた。日を入れる幅は空けずに、その下へ理由のほうを長く続けて書く。
「きめていない、は消さないの?」
「消さないわ。上から線を引いて、脇に今日を入れるの」
「消したほうが早くない?」
「早いわね。でも消したら、いつまで決めてなかったかが誰にも分からなくなるわ」
線は細く引かれた。下の理由のほうはそのまま残った。
「上より下のほうが長くなったわ」
「いいの?」
「いいのよ。日は一晩で済むけど、なんでかは残るからね」
「読めない人には、僕が言うよ」
「そうしてちょうだい」
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レオルは板の左の下を見ていた。
「早めぬのだな」
「早めないよ」
「……よかろう」
尾の先は雪を叩かなかった。
右の端の空きには明日の日付だけが入っている。まだ白い。白いままの一行を残したまま、左の下の字だけが乾きはじめていた。
エルクは坂を下りながら一度だけ振り返った。
雪はまだ浅い。




