第181話 四行目は足さない
筆は硯の縁に置かれたままだった。
クラウは板の前から動かない。ケインは離した手を首のうしろに当てたままでいる。板の左では名前の脇に短い欠きが並んでいた。朝の光が斜めに入って、欠きの底にだけ影が残っている。
「足すって、どこへ足す気だ」
「そこっす」
ケインは右の端の下を指した。
「ゆうべのを一行にすりゃいいと思ったんすよ。頭の無いのには返さねえって」
「決まりにするのか」
「決まりのほうが強えっす。段取りだと、知らねえ人が来たら終わりっすよね」
言い分に穴は無かった。クラウはそれには答えずに、脇へ挟んだ写し帳を開いた。
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去年の冬に引いた三行の頁だった。
紙の上を親指で押さえて、上から読んだ。
「うちの者でない者の持ち場も、同じ板に書く。知りたくないことは、知りたくないと言ってよい。書かないと決めたことは、書かないと決めたと書く」
読み終えてから頁の上の指を離した。
「四行目が要るようになった時は、たいてい三行目が守れておらん時だ。足すより先に、守れておらんと言え」
「……去年、それ言ってたっすね」
「言うた」
ケインは板から半歩離れた。
「足すほうが楽っすもんね、おれ」
「楽だ。俺も楽なほうを知っておる」
クラウは頁の下の折れを伸ばした。
「言うた側が先に調べる。……そう決めておかんと、この行は俺の口癖で終わる」
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坂の下から声のほうが先に上がってきた。
ダクトは束を胸の前で抱えている。板の前まで来て、雪をどけた石の上へ順に置いた。
「三枚は持ってきましたぞ」
「今日は替えるものが無いんじゃないの」
「替えませんぞ。並べるだけですな」
入口ぶんと下のぶんと会議のぶんを並べ、それから柱の板ぶんを外して端へ足した。
「並べてみますと、違いますな」
「違うの?」
「四枚は同じですぞ。……帳とは違いますな」
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エルクは写し帳の上へ屈んだ。
字を追う速さは相変わらず遅い。今朝の頁で二度戻ってから、指を止めた。
「ねえ。ここ」
「どこだ」
「逆になっておる、って書いてあるとこ」
ついさっき走らせた行だった。直さないと決めたこと。決めた日。それだけが短く入っている。
エルクは目を板の右の端へ上げた。
ぬる。まいばん。かわりなし。
三語のあとは、下の空きに名前が二つ入っているだけだ。板の脇の空きには夜の一度ぶんの日が入っている。日だけだった。
「板には無いね」
クラウは帳を引き寄せなかった。エルクの指の先を見ていた。
「……無い」
「去年のは板にもあったよね」
「あった。名を知らんと決めたぶんは入れた」
クラウは板の面へ手をついて、すぐ離した。
「今朝のは帳にしか入れておらん」
ケインは何も言わなかった。
「読める者にだけ書いた。……読めん者と、まだ来ておらん者には書いておらん」
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エルクは名前の二つのほうへ目を移した。
「じゃあさ。ミナのとこで三つになったやつも」
「同じ根だ」
「同じなんだ」
「あの娘は決めた通りに話した。板は決めたところを載せておらん。載っておらんものは、聞いたやつが持って帰れん」
「持って帰れないと、どうなるの」
「歩きながら足す。悪気は無い」
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ライが台を先に据えてから紙を置いた。器は今日は持ってきていない。
『日を突き合わせます』
「写しの?」
『四枚と帳です。替えた日が入っています』
細い指が端から順に下りた。四枚は同じところで止まった。
『四枚とも同じ日です。冬に入ってから三度替わっています』
「じゃあ古いのは残ってないんだ」
『残っていません。……ですが、四枚に入っているのは決まりだけです』
「決めたことは入ってないの」
『入っていません。決まりは運べる形をしています。決めたことのほうには形がありません』
ライは束の角をそろえた。
『替えた日は分かります。読んだ日は分かりません』
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ウーゴは板の右の端へ板きれを当てていた。
縁から下まで滑らせて、指の幅を二度置き直す。
「ハバ、タリナイ」
「足りないの」
「モジ、ハイル。ミジカイノダケ」
「長いのは入らないんだ」
「ハイラナイ」
板きれを下ろして、板の裏側へ回った。留め金の下を手のひらで押す。
「モウイチマイ、デキル」
「作るの?」
「キョウハ、ツクラナイ」
「なんで」
「ナニカクカ、キマッテナイ」
ウーゴは道具の袋を担ぎ直して、板の前から離れた。
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ソウは名簿を閉じて紐を掛けた。掛けてから板の正面へ回った。
「書くのはいいわ。誰が読むかは考えたの」
「読む人?」
「板は誰でも読めるのよ。冬に入ってきた人も、通りかかっただけの人もね」
筆の柄が右の端を指した。
「そこへ書くってことは、通りすがりに読ませるってことよ」
「……そうだね」
「読んだ人は知らない話をひとつ持って帰るわ。中身は空のままでね」
クラウは頁の端を折って印にした。
「名は書かん」
「名は書かないの」
「書かん。書けん。……だが名を書かんことと、なぜ書かんかを黙ることは、同じではないかもしれん」
「別なんだ」
「かもしれんと言うておる。今日は分けられるかどうかまでだ」
ソウは筆を持ち上げなかった。
「分けられるなら私も反対しないわ。……分ける前に書いたら、去年と同じところへ落ちるわよ」
「落ちる」
二人ともそこで止めた。板の前の声はしばらく無くなった。
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板の脇の雪が一度だけ鳴った。
黒銀は朝から同じところにいる。耳は動かさなかった。
『あの若いのは引いたな』
「見てたんだ」
『声だけだ』
顎は雪の上から離れなかった。
『引くところを人前でやった。次に思いついた時も、あれは口に出す』
「うん」
『黙って引く者は、次から思いついても言わぬ』
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丸いのが薪割り場のほうから転がるように寄ってきた。
『昼に寝るのは二人ッス』
「今日も二人だね」
『二人ッスね。板は見てねえッスけど、名前は聞いて回ってるッス』
「読めないもんね」
『読めねえッス。おいら読めなくても回るんで、今まで困ってねえッスよ』
跳ねて薪割り場のほうへ戻っていった。誰も呼び止めなかった。
エルクは板を見上げた。読めない者は困っていない。困らないまま回っている。
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長は岩を下りて、板の正面の雪の上へ胴を置いていた。日は背のほうへ回っている。
「聞いておった」
「聞こえてたんだ」
「板の前は声が通る」
レオルは右の端を見上げた。
「我らが先に絶えたら、と我は聞いた」
「聞いたね」
「答えはまだ無い」
クラウは帳を膝の上で開いたままにした。
「入口だけならある」
「言え」
「絶えるのは止められん」
「止められぬな」
「……渡し方を決める」
尾の先が一度だけ雪を叩いた。
「今日か」
「今日ではない」
「では、いつだ」
「決まった日に書く。今日は、まだ渡しておらんと書く」
長はそれ以上押さなかった。押さずに右の端をしばらく見上げていた。
「我の欄は左だ」
「左だね」
「……左に居るうちは、まだ言える」
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ミナが坂を上がってきたのは、聞き手の三人が散ったあとだった。板きれは抱えていない。小屋へ置いてきたのだという。
「きいてた?」
「聞いてたよ」
「ミナのも、なおすの」
「まだ決めてないよ」
ミナは空いた手を袖の中で握った。
「きめるの、あしたでいい?」
「明日でいい」
クラウはそれ以上足さなかった。ミナは顔を上げた。
「きょうじゅうって、いわないんだね」
「言わん。今日じゅうに決めた形は、今日の困り方に合う」
「あしたはちがうの」
「明日は明日の困り方だ。両方に合う形が要るなら、二日かけるほうが早い」
ミナは袖から手を出した。出してから、もう一度だけ右の端を見上げた。
「あしたは、ミナもここにいる」
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ソウが硯へ筆を浸けたのは、板の影が短くなったころだった。
右の端の名前の下へ横に一本引いた。線の下は空けたままにする。
「一行取っておくわ」
「なに書くの」
「今日は書かないの。明日ここへ入れるわ」
クラウが線の脇へ小さく日を足した。明日の日付だった。
「白いままにはせん」
「白いと埋められるんだよね」
「埋められる。……日が入っておれば、埋めたやつがすぐ分かる」
板の空きは白かった。白いが、置いておく空きではない。いつ書くかだけが先に入っている空きだった。
ダクトは並べた写しを順に拾い上げて、板ぶんだけを柱へ戻した。
「これは今日じゅうに書き替えますぞ」
「一枚だけ?」
「一行増えましたからな。増えた日を入れておきませんと、明日が二日目に見えますぞ」
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メアが当番小屋の裏から出てきたのは昼を過ぎてからだった。
外套の裾に灰がついている。手には何も持っていない。
「下へ行ってきていいですか」
「今から?」
「低いところの前です」
エルクは板のほうを見てから、メアへ目を戻した。
「読むの」
「読んでみます」
メアは襟の紐を結び直した。
「……そこまで残っているか分かりませんけど」
「わかった。僕も行くよ」
ライが器の台を担ぎ直した。ウーゴは低い腰かけの脚を持って、先に段のほうへ歩いていく。段の口の黒銀は伏せた形から起き上がって、数える形になっていた。
メアは段の口で足を止めた。下からの風はもう来ていない。
「灯りは低くしてください」
「低く?」
「立ったままだと、あの高さは見えないので」




