第180話 受け取るほうの決まり
灯りは段の口の柱に掛けてある。
風はそこがいちばん強い。炎が横へ寝るたび、下の暗がりが少しだけ伸びた。ウルは鼻先を段へ向けたまま動かない。
『名は』
「エルク」
『聞いた』
「毎回言うんだね」
『毎回だ』
黒銀の耳が一度だけ段の下へ向いた。
『我が忘れるのではない。忘れた日が分からなくなるのが困る』
「下は」
『二人だ。上がったのが一人ゆえ、今は一人になっておる』
「戻すよ」
『戻せ』
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入口の外へ回ると、ドラゴの声のほうが先に来た。
『我は打っておらん』
「聞いてないよ」
『聞かれる前に言うておく』
「同じじゃないの」
『違う』
雪は黒い胴の縁のところで途切れている。尾の先も、首も動かなかった。
『聞かれてから言うたのでは、聞かれて言うたことになる』
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下りるにつれて風の音が消えた。
記録の間の灯りは器の脇に一つきりだった。腰かけはそのままだ。壁際の一つだけが、奥のほうへずらしてある。
器の前に残ったほうの当番は動いていなかった。膝の紙には刻が縦に並んでいる。秋の終わりに移ってきたほうの女だった。
「あのあとにもう一つ来たわ」
「もう一つ?」
「若いのが上がってすぐよ。走って呼びに行こうかと思ったけど、ここを離れるなって言われてるから」
「離れなくていいよ」
ライが紙を受け取って、灯りのそばへ持っていった。跳ねの並びの前のほうで指が止まる。
『返しです』
「打ち返してきたんだ」
『そうです』
「いつもの?」
『いつものです。……ですが頭が付いています』
「頭」
『短いのが一つと、長いのが一つです』
エルクは器の縁へ手を伸ばして、触れる前に引いた。
「それって」
『あの人のです』
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クラウは写し帳を開かなかった。
開かずに灯りのほうを向いたまま声に出した。
「渡すときは渡した先の名を言う。受け取った者は受け取ったと名で言う。休みは当番と同じ欄に書く」
「うちのだね」
「うちのだ」
言い終えてから、写し帳の縁を親指で押さえた。
「……後ろ半分を渡しておらん」
「後ろって」
「受け取った者は受け取ったと名で言う。これは受け取る側の決まりだ」
「渡したじゃん」
「渡したのは前半分だ。打つときは頭に自分の印を付ける。それだけしか渡しておらん」
エルクは紙のほうを見た。跳ねの塊は二つ。頭になっているほうは、指で数えても二つで終わる。
「頭の無いのが来たんだよね」
「来た」
「それに、名前を付けて返しちゃったんだ」
「返した。決まりの通りにな」
灯りの芯が一つ跳ねた。
「うちの三行は名乗るやつがおる前提で書いてある。名乗らん者が打った夜のことは、どこにも書いておらん」
「……教えてないもんね」
「教えておらん」
「じゃあ、あの人は悪くないよ」
「誰も間違えておらん。そこが厄介だ」
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器の針は小刻みに揺れ続けている。
壁の向こうで塗る音も止まっていない。続いていたが、途中で一度だけ細くなった。
『線が下がりました』
「薄くなったの」
『薄くなっています』
ライは紙の端を押さえて待った。針の振れが元の幅へ戻るまで筆を持たなかった。
『戻りました』
「戻ったんだ」
『戻りました。細かったのは指の幅ほどの長さです』
「短いんだね」
『短いです。……短いので、明日には数のほうへ埋もれます』
筆が刻の脇へ下りた。
『埋もれる前に書きます』
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梁の下から糸が下りてきた。
アラーネの前脚が二本、灯りの届く高さで止まる。
「乗ったわ~」
「何が」
「分からないわ~。糸は乗ったところしか覚えないのよ~」
「上のほう?」
「下よ~。壁から二本目のところ~」
ラネが下の糸を伝って降りてきた。途中で止まり、糸の一点を前脚で押さえる。
「ここよ!」
「触ったんだ」
「一段下げるのよ!さわったところがひくいもの!」
ダクトは器の脚の下から動かなかった。四本のうち一本だけ、床との隙間へ指の先を差し込んでいる。
「糸のほうへは行きませんぞ」
「なんで」
「私が触れば、動いたのが糸なのか私なのか分からなくなりますからな」
指を抜いて、同じ隙間へもう一度当てた。
「二度測って同じでしたな。脚は動いておりませんぞ」
ライが新しい行を二つ引いた。
『糸が動いた刻と、線が下がった刻を別に書きます』
「同じくらいだったよね」
『近いです。同じとは書きません』
「なんで」
『同じと書くと、後で読む者が一つの出来事にします』
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メアは奥へ寄せた腰かけの前に座っていた。
壁には触っていない。灯りも自分の膝より上へは上げていない。
「読めた?」
「読んでません」
「読まないの?」
「今日は近づきたくないみたいです」
「あの人が」
メアは膝の上で指を重ねた。
「うまく言えないです。……見せたくないっていうより、今日は誰にも見られたくない日みたいで」
「わかった」
「訊かないんですか」
「訊かないよ」
エルクは腰かけの脇へしゃがんで、そのまましばらく動かなかった。
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筆を置いたクラウが顔を上げた。
「今夜から一つ足す」
「増やさないんじゃないの」
「板の三行は増やさん。足すのは打ち方だ」
「ちがうの」
「ちがう。決まりを足すのと、段取りを足すのは別だ。混ぜたやつは次に必ず行を足す」
クラウは器のほうへ顎を向けた。
「頭の無い拍には返さん。うちが先に守る」
「あの人には」
『打つ形がありません』
ライの筆は動いていなかった。
『返すな、という形がありません。こちらが持っているのは名と、いつもの用件だけです』
「言えないんだ」
『言えません』
クラウが立ち上がって、灯りを壁のほうへ半歩だけ寄せた。
「ならやって見せる。毎晩、頭を付けて打つ。頭の無いものには返さん。それを続ける」
「見て覚えるかな」
「一日で覚えおったやつだ」
『覚えたかどうかは分かりません』
「返ってこなかったら覚えたってことじゃないの」
『なりません』
ライは紙をそろえて膝へ載せた。
『返ってこないのは、覚えた時も、聞いていない時も同じ形です』
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段を上がりきると、風のほうが先に当たった。
ウルは柱の脇から動いていない。灯りの下で顔だけを上げた。
『下に残っておるのは一人だ。数は合うておる』
「ちゃんと数えてるんだね」
『合うておる。……だが我は、下で何があったかを数に持っておらん』
「言おうか」
『言え』
エルクは段の口の縁へ腰を下ろした。ウルは前脚を組み直して待った。
『我は下へ入らぬ。入らぬゆえ、主の口から受け取る』
「受け取るって言った」
『言うた』
黒銀の顎が雪の上へ下りた。
『……我も受け取るほうだな』
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朝には雪が止んでいた。
板の面に乗ったぶんをソウが袖で払っている。払い終えてから、右の端ではなく板の脇の空きへ筆を入れた。
「かわりなしって書いてあんだろ」
右の端を見上げているのは、炭を担いだ男だった。
「書いてあるわ」
「書き替えねえのかよ。昨日の夜はかわりがあったんだろうが」
「替えないわ」
ソウは筆の先を右の端の三行へ向けた。
「あれは持ち場よ。毎晩塗って、交代がないってこと。昨日の夜のことじゃないの」
「同じじゃねえのか」
「同じ板に二つの意味を載せると、次に読む人がどっちで読むか決めるでしょう」
男は袋を持ち替えた。
「じゃあどこに書くんだよ」
「脇に書くわ。日を入れてね」
輪の外にいたライが、紙を抱えたまま口を挟んだ。
『今朝は戻っています。夜のあいだの一度だけです』
「戻ったのかよ」
『戻りました。戻ったことも書きます』
男はしばらく黙っていた。それから、板ではなく雪のほうを見て口を開いた。
「教えなけりゃ返しもしなかったろ」
誰もすぐには言い返さなかった。
「そうね」
「そうねかよ」
「そうよ。教えなきゃ返さなかったわ」
クラウは筆を止めずに一行だけ入れた。
「その通りだ」
「じゃあ——」
「言い分は残す。答えは今日出さん」
「おれは戻せって言ってんじゃねえぞ」
「分かっておる」
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ミナが板の下から上がってきたのは、人が半分ほど散ってからだった。
板きれを胸に当てている。今日の聞き手の三人はまだ坂の途中にいた。
「きのうのはなし、していい?」
「していいわ」
「あたらしいの、ふえたんでしょ」
「増えたわ。頭の無い拍には返さない」
ミナは口の中で二度なぞってから、顔を上げた。
「これ、ノノのとぎゃくだよ」
「逆?」
「へんじがなくても、たたきつづける、っておしえてるもん」
クラウの筆が止まった。
板の前の声が一つずつ落ちて、雪を踏む音だけになった。
「……逆だ」
「なおすの」
「直さん。今日は直せん」
「どっちがただしいの」
「どっちも正しい。だから困っておる」
ミナは板きれを抱え直した。抱え直してから、もう一つだけ訊いた。
「あのひとが、あたまをつけるのわすれたら」
「うん」
「こっちが、へんじしないんだよね」
答えは出てこなかった。
「そうなる」
それきり、クラウは何も足さなかった。
「それ、いやだよ」
「俺もだ」
筆が写し帳の上を短く走った。
「逆になっておる、と書く」
「書くの」
「書く。書いておかんと、気づかんかったことになる」
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人が散ったあとも、ケインは板の左の端に残っていた。
自分の名の脇の欠きを指の腹でなぞっている。二つと一つ。指で数えられる深さだった。
「クラウさん」
「なんだ」
「三行の下って、まだ空いてるっすよね」
クラウは顔を上げた。
「空いておる」
ケインは板から指を離した。離した手で首のうしろを掻いた。
「足りねえなら足せばいいっすよね」
筆は動かなかった。




