第179話 急いでいるのは誰か
昼前からまた雪が降りはじめた。
粒は細かい。板の面に当たっても溶けずに乗る。ソウが袖で二度払って、三度目は払わなかった。
板の前には人が七人ほど立っていた。半分は昼の割り振りを見に来た者で、あとは見終わっても離れなかった者だ。
「いつやるんだよ」
声は輪のうしろから来た。
「決めてないわ」
「決めねえのか」
「決めてないの」
ソウは振り返らずに筆を持ち替えた。
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メルが庇の下で足を止めた。今朝ぶんの綴りを両手で提げている。
頁をめくる前に手袋を外して、外した手へ息をかけた。
「数だけ言います」
「言えよ」
「早めても戻りはふた月です。早めたぶんだけ次が遠くなります」
輪の前のほうで誰かが息を吐いた。
「早くやりゃ早く楽になんだろうが」
「その晩は楽になります」
メルは綴りの角を親指で押さえ直した。
「そのあとが遠くなります。遠くなったぶんは春まで戻りません」
「春まで空くのかよ」
「空きます。数はそう出ています」
男は口をつぐんだ。つぐみはしたが、引き下がってはいない。
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板の右の端で、エルクの目が止まった。
三行の下の名は二つのままだ。脇には今日もまだ何も入っていない。
「でもさ」
「なによ」
「今しんどいなら、先にやっちゃえばいいのに」
ソウの筆が止まった。
「しんどいって誰が言ったの」
「言ってないけど」
「言ってないわね」
「でも毎晩やってるじゃん」
「やってるわ。三百年やってるわね」
ソウは筆の先を紙のほうへ戻した。
「三百年やってる人に、今日が特別しんどいかどうかは訊けないのよ」
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坂の途中からダクトの声が先に来た。写しの束は脇に挟んである。
「四枚とも取り替えますぞ」
「ぜんぶ?」
「ぜんぶですな。打ち手の並びが一つ入れ替わりましたからな」
「ミナのだね」
「そちらですぞ」
ダクトは古いほうを回収して縄でひとまとめにした。捨てはしなかった。
「古いのが一枚でも残っておると、下の者は去年の並びで打ちますからな」
「持って帰るんだ」
「持ちますぞ。いつ替えたかが後で辿れませんからな」
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薪の脇から丸いのが跳ねてきた。
分身が二つ、別々の紙を抱えて後ろから跳ねてきた。
『昼の割り振り持ってきたッス』
「ありがと」
『夜に下りた人は二人ッス。二人とも昼に寝かせるッス』
「今日は三人じゃないの」
『三人ッスね。箱の前が一人増えたんで』
跳ねる勢いが少し落ちた。
『おいら勘定は向いてねえッスけど、目の下が黒いのは見りゃ分かるッス』
「早めたら足りる?」
『足りねえッス』
スラは紙を卓の上へ置いた。
『早めるなら前の日から寝かせなきゃ駄目ッスよ。当日から寝ろって言われても寝られねえッスからね』
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小屋の戸は開けたままだった。敷居の内側に前足が二本だけ出ている。
箱は布の上でまだ光っている。ウルは頭を上げずに、黒銀の耳だけをエルクのほうへ倒した。
『急いでおるな』
「急いでないよ」
『去年は代わると言うた。今年は早めろと言うておる。同じ顔だ』
エルクは敷居の手前で足を止めた。
「早いほうがいいかなって言っただけだもん」
『言うた時の声が同じだ』
「声は関係ないでしょ」
『我は声しか聞いておらん』
前足の上へ顎が下りた。
『声のほうが、主の言葉よりよく当たる』
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入口の外は今日も雪が乗っていない。黒い背がその地面の上へせり出している。
ドラゴは首から先をこちらへ回した。胴は動かさない。
『次はいつだ』
「まだ決めてないんだ」
『……決めておらぬのか』
「決めてない」
『では、決めておらぬと書いておけ』
「書くの」
『我の欄には打つとしか書いておらん。いつ打つかは書いておらん』
喉の奥で低い音が鳴った。
『聞いておらねば、我は今日打つところであった』
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門の内側の石はもう日陰に入っていた。ライオはそこから離れて、雪の薄い土の上に立っている。
『日は決まったか』
「決まってないよ」
『そうか』
前足の指が土を掻いた。
『我は下がる刻を決めた。決めた日は楽であった』
「楽だったんだ」
『楽であった。……楽であったゆえ、今は疑うておる』
「なにを疑うのさ」
『決めて楽になったのが、あの者のためであったかどうかだ』
エルクは石の縁の雪を指で払った。払ったところがすぐまた白くなった。
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薪積みの上にグリフが下りていた。翼はたたんでいない。
下から風が来るたび、片翼の先だけが浮いた。
『空のぶんを言う』
「うん」
『向こうへ知らせて戻るのに三日だ。決めた日の朝に言われても俺は間に合わん』
「じゃあ早めに決めたほうがいいってこと?」
『言っておらん』
首が回って坂の下を向いた。
『俺のぶんは俺が都合する。決めるほうを俺に合わせるな』
「合わせないよ」
『合わせる者が出る。数を先に聞くと、人は数に合わせる』
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人が減ったのは日の落ちる少し前だった。
人はもう三人しか残っていない。ソウは名簿の紐を掛け終えていた。
「ねえ。今日決めちゃ駄目なの」
「今日決めたら、あんたが決めたことになるわよ」
「僕は決めないよ」
「決めるわ。あんたが二回言えば、誰も反対しなくなるもの」
「そんなことないでしょ」
「あるわよ」
ソウは筆を持った手を下ろした。
「……あんた、今それをやりたがってるでしょう」
返事はなかった。
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写し帳は卓の端で開いたままになっている。クラウはその前にいた。
「ひとつ足しておく」
「なに」
「あれが何も言わん」
「あれって」
「去年、下で喋っておったやつだ」
エルクは卓の脇へ寄った。
「去年は言うた。今年は言わん。一度もだ」
「数えてるの」
「数えておる」
クラウは頁を一枚めくって、また戻した。
「言わないほうがよくない?」
「よくない」
「なんで」
「黙っておるところは、こっちが埋める」
筆が動いた。四行ぶん入れてから止まった。
「埋めたものを本当のことにせんために書く」
「書けば埋めなくなるの」
「埋める。人は埋める」
クラウは写し帳を自分のほうへ引き寄せた。
「埋めた日と埋めた中身が残る。残っておれば、後で捨てられる」
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レオルが板の下の雪を踏んで来た。
「我は待つ側だ」
「レオルが待つんだ」
「待つ」
「なんで」
「情ではない」
レオルの目が三行の下へ動いた。
「急いだ側が、次に急がぬ理由を持てるか」
「どういうこと」
「今日早めた者は、次も早めると言う。早めて何も起きなんだ日を自分の手柄にするからだ」
「起きなかったらいいじゃん」
「よい」
尾の先が雪を割って、下の土を出した。
「よいがな、二度目に間に合わなんだ時、そやつは早めなかった者を責める」
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当番小屋の裏では子らが板きれを膝に置いて座っていた。
ノノは輪の真ん中にいる。エネはうしろの樽に腰かけている。膝の紙を見たままだ。
「エルク」
「なに」
「きょう、いつやるの」
「まだ決めてない」
エルクはしゃがんで目の高さを合わせた。
「早くしたほうがいいかなとは思ってるんだけどね」
ノノは板きれの縁を指でなぞった。
「はやくしたら、おきちゃうよ」
「起きちゃう?」
「うるさくしたらおきちゃうでしょって、エルクがいったもん」
「僕が」
「いった。ゆきのばんにいった」
エルクの口は開いたまま止まった。
ノノはそれきり板きれのほうへ戻って、いちばん上の文句を子らに読ませはじめた。説明はしなかった。
エネの手も止まらなかった。紙の隅を折って印にしてから、次の一枚を膝へ載せた。
エルクは樽の脇に立ったままだった。袖の縁を指で握って、離すのを忘れている。
「……僕、なんで早くしたかったんだろ」
誰も答えなかった。
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板の前へ戻ったのは日が落ちてからだった。
「決めないよ」
「決めないの」
「決めない。今日は決めない」
ソウは名簿を開き直した。
「決めないって決めたのね」
「決めた」
「じゃあ書くわ」
クラウが灯りを板の脇へ寄せた。
「決めなかった、とだけ書くな」
「なんで」
「決めなかったと書くと、忘れておったと読まれる」
筆の柄が板の縁の空きを指した。
「決めなかった理由を書け。理由の無い空きは、次のやつが埋める」
ソウは字を大きくして入れた。読める者が少ないからだ。
ミナが板の下から見上げた。
「これ、なんてかいてあるの」
「きめていない、って書いてあるわ。早めても戻りはふた月だから、って」
ミナは唇だけ動かして、同じところを二度なぞった。
「はなしていい?」
「話せ」
クラウは筆を持ったまま、空いた手を頁の上へ置いた。
「決めなんだ日の話をせん国には、決めた日の話しか残らん」
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夜になって雪は止んだ。
板の前の灯りは一つだけ残してある。小屋の箱は夕方と同じ明るさのままだ。ライは同じ刻に針を見て、同じところへ一行書いた。
当番の二人は下にいる。
中夜を過ぎたころ、段の口のほうから足音が上がってきた。走ってはいない。走らないように歩いている足音だった。
当番の若いのが紙を差し出した。手袋は外していない。
「来たっす」
「返ってきたの?」
「返りじゃねえっす。こっちはまだ打ってねえっす」
エルクは紙を灯りへ寄せた。跳ねの塊が一つきり並んでいる。
「頭は」
ライが横から覗いて、指を上へ滑らせた。
『……ありません』
「誰も打ってないんだ」
『打っていません。下には二人いました。二人とも打っていません』
灯りは段の下までは届いていない。エルクはそこへ一歩だけ寄った。
小屋のほうで敷居の板が鳴った。ウルが立ち上がって、鼻先を段へ向けている。




