第177話 ぬると打つ
夜のうちに雪が締まっていた。
板の前の土は踏み固められて、足跡の縁だけが白く残っている。留め金は二つとも凍っていた。ソウが筆の柄の尻で叩いて霜を落とした。
左の欄では名のひとつひとつに短い欠きが添っていた。昨日ウーゴが削ったぶんだ。
炭の袋を提げた男が右の端を見上げた。
「そっちは空いてんだろ」
「空いてるわ」
「名前つけりゃいいじゃねえか。仮でいいんだよ」
ソウは筆を持ち替えただけで返さなかった。
「呼び名がありゃ脇に彫れる。彫れりゃ通るんだろ」
「通るわね」
「じゃあいいだろ」
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クラウは写し帳を閉じて脇へ挟んだ。
「二つある」
「なんだよ」
「ひとつ。去年、名を知らんと決めた。付けんとも決めた。写しにも板にも残っておる」
「決めたのはこっちだろ。こっちで直せるはずだろうが」
「直せる。直すなら直したと書けば済む話だ」
「じゃあ二つ目を言えよ」
クラウは右の端の三行のほうへ顎を向けた。
「仮でも名は名だ」
「仮だぞ」
「付けた日から、違うと言える者のおらん名が一つ増える」
男の口が止まった。吐いた息が白いまま流れて消えた。
「……去年のあれか」
「あれだ」
「着られるってやつだろ」
「そうだ」
男は袋を提げ直した。
「じゃあ打つ手が無えじゃねえか」
「無い。今のところは無い」
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エルクは板の左の端まで寄って上から読みはじめた。
当番の名。休みの名。従魔の持ち場。字を追う速さは他の誰よりも遅くて、途中で二度戻った。右の端まで来て、いちばん上で止まった。
指の先が三文字に当たった。
「これでいいんじゃないの」
「どれだ」
「これ」
ぬる。まいばん。かわりなし。上の一つを指したままだった。
「名前じゃないよ、これ」
クラウが板の前へ来た。指の先を見て、それから三行を見た。
「……持ち場だ」
「持ち場だよね」
「持ち場は去年から板に書いてある。俺が書いた」
「書いてあるね」
ソウが筆の先を右の端へ向けた。
「脇は空いてるわ。彫れるわよ」
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卓は庇の下へ出したままになっていた。
ライが紙を広げて、短いのと長いのの並びを十だけ書き写した。九つには名が添えてある。
『声に出してください』
板きれを抱えたミナが卓の横に立った。
「ぬる」
『もう一度』
「ぬる」
紙の上に短いのが一つ、長いのが一つ並んだ。それだけで筆が止まった。
『二つです』
「短いのと長いのだね」
『はい。……ですが、この並びは配ったぶんに入っています』
「ぶつかるんだ」
『ぶつかります』
「三つにしたら?」
『声は二つです。三つにすると声と合いません』
ライは紙の端を押さえた。
『合わないものを覚えるのは、字を読める者だけです』
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エルクは十の並びを目で追った。九つの脇の名を一つずつ確かめて、最後にひとつ手前で止まった。
「これ誰の」
ライの筆が同じところへ下りた。
『ミナのです』
ミナはうつむいただけだった。しばらく誰も何も言わなかった。
「ミナのをかえる」
「え」
「かえていいよ」
「ミナも音で覚えてるんだよね」
「おぼえてる」
「覚え直すの大変じゃない」
「おぼえなおす」
ミナは少しだけ顎を引いた。
「ミナは、まちがえたらきけるもん」
「聞けるね」
「あのひとはきけないでしょ」
ソウが名簿から目を上げた。
「替えるのはいいわ。新しい形を作るのは駄目よ」
「作ってないよね」
「作ってないわ。ある形の中で入れ替えるだけよ」
ソウは名簿の端を指で押さえた。
「そのかわり余りが無くなるわ。次に要る者が出たら、人を減らすところから始めるのよ」
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余っている並びは一つだった。
ライがその行を指した。紙にも板の下にも同じ形が書いてある。脇にはクラウの字で、使い道が無い、と入っていた。
「昨日書いたやつだね」
「書いた」
「消すの」
「消さん」
クラウは筆を取ってその字の下へ短く足した。
「ここへ入るのはミナだ。ミナが今日まで使うておった行は、あれに渡す。……二つとも書く」
「片方じゃ駄目なの」
「駄目だ。ここだけ書けば、余っておったから当てたと読まれる。譲った者がおったことが落ちる」
書き終えてから、クラウは筆を硯の縁へ置いた。
「余りを当てるなと言うたのは昨日の俺だ。言うた側が先に破るなら、破った筋を書いておく。書かんと、決まりは一日でぬるくなる」
ライが新しい行へミナの名を移した。ミナは口の中で二度繰り返してから、うなずいた。
「ながい、みじかい、ながい」
『そうです』
「ながいのがおしまい」
『おしまいです』
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紙を抱えたエネが卓の端に来たのは、そのあとだった。
数え終えた紙を伏せてから、指を膝の上でそろえた。
「ひとつ、いいですか」
「いいよ」
「持ち場を名前のかわりにすると、あの人は持ち場になりませんか」
エルクは口を開いて、そのまま閉じた。
「なるかも」
「なったら、やめるって言うところが、いまより無くなります」
「……そうだね」
「あたしは反対ではないです。ほかに何も無いのは分かってます」
エネは伏せた紙を裏返して、いちばん下へ一行だけ書いた。
「言った人がいたことだけ、残しておきます」
「書くんだ」
「あとで読む人が、誰も気づかなかったと思うので」
クラウは自分の写し帳にも同じ一行を入れた。
「今はこれしかない。……これしかないと書く」
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ウーゴが板の前へ来た。右の端の脇へ刃を当てて、上の一行のぶんだけ欠きを入れる。右の端のほかの脇は空けたままにした。
「ホカ、ドウスル」
「今日はそれだけだ」
昼を過ぎてから、ウーゴは板きれを担いで坂を下りていった。エルクとクラウもあとから下りた。
記録の間の入口には柱の札が掛かっている。ウーゴはその前で膝をついて、灯りを近づけた。
「ホル、ミジカク」
「板と同じにしろ」
「オナジ」
「同じだ。二つあるものが違う形をしておると、どちらが本物かで揉める」
刃は札の面ではなく縁へ当たった。短いのが一つ、長いのが一つ。二度さらっただけで止めた。
「フカク、ホラナイ」
「深くしないの」
「フカイト、ヨコガ、カケル」
ウーゴは削り屑を手のひらへ集めて袋へ入れた。壁の下に落とさなかった。
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入口の外では黒い胴が半分だけ雪の外に出ていた。
ドラゴは尾の先を石へ当てて一度打った。
『これでよいか』
「ちょっと遅いかも」
『遅いか』
「ライが数えてる」
段の途中から丸いのが伸び上がった。スラは分身を二つ、段の上と下に置いて、自分は真ん中にいる。
『上のと下のがずれてるッス』
「どれくらい」
『半分くらいッス。上が先に鳴って、下が追っかけてくるッスね』
ドラゴは尾を戻して、雪を少しだけ払った。
『我は遅い』
「みんなが合わせるよ」
『……合わせるのか』
「合わせるよ。速いほうが合わせると、遅いほうが遅れたことになるでしょ」
尾の先が止まった。
『そうか』
「そうだよ」
『では我はこのままでよいのだな』
「そのままでいいよ」
二度目からは人のほうが遅くなった。三度打って三度とも上と下がそろった。
『そろったッス』
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段の口ではウルが伏せていた。
下りる者を数えるあいだ、耳は下へ向いたままだった。
『下りるのは六か』
「六。ミナと今日の当番の二人とライ。それにクラウとメア」
『我はここだ』
「わかってる」
『主も下りるのなら七だ』
「下りるよ」
『では七と書く』
ウルは首を戻してまた段の下を見た。
『主。今日は当てるだけだな』
「当てるだけだよ」
『それでよい。増やす日と当てる日を同じ日にするな』
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記録の間の空気は冷えていた。
器の針は細かく振れている。壁の向こうでは塗る音が続いていた。途切れそうになっては同じ調子で戻る。
メアは壁のいちばん低いところの前で膝をついていた。
手はつかなかった。灯りも近づけなかった。しばらくそのままでいて、それから立った。
「どうだった」
メアは首を横に振った。
「読めない?」
もう一度、今度は少しだけ横に振った。それきり何も言わなかった。
エルクもそれ以上は訊かなかった。
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ライが器の前に座った。
紙を膝に載せた。打つ順はもう決めてある。
『先に私の印を打ちます。それから間を空けて、こちらの用件です』
「いつもの用件でいいの」
『いつものです。今日は中身を変えません』
「うん」
『そのあとで、あちらのぶんを三度打ちます』
「三度もやるんだ」
『一度だと、こちらの用件の続きだと思われます』
ライは壁の前へ寄って、指の背で打った。短いのが二つ、長いのが一つ。間。それから、いつもの短いの。
塗る音は変わらなかった。
間を置いてから、ライは三度打った。短いのが一つ、長いのが一つ。同じ形を、三度。
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待つあいだ、誰も動かなかった。
ミナは板きれを胸に当てたまま壁を見ていた。当番の二人のうち一人は器の前に残って、打った刻をその場で書いている。
塗る音が一度だけ薄くなった。薄くなったところで止まった。
器の針が跳ねた。
『来ました』
「返ってきた?」
『返っています』
ライの目が並びを下へ辿った。辿り終わる前に、目が上へ戻った。
『頭が付いています』
「頭って」
『用件の前です。……短いのと長いのが一つずつ入っています』
エルクは器のほうへ屈んだ。跳ねの塊が二つあった。前の小さいほうは、たしかに二つしかない。
「僕らが打ったのと同じやつ?」
『同じです』
「まねしただけかも」
『まねかもしれません。……ですが、こちらは三度打って、あちらは一度しか返していません』
「一度だけなんだ」
『一度です。数を合わせずに、頭にだけ置いています』
クラウが灯りを紙のほうへ寄せた。
「覚えて、使ったということだ」
「そうなるね」
「一日で覚えおった」
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ミナが壁のほうへ半歩だけ出た。
「じゃあ、いま」
「うん」
「あのひと、じぶんのことをいったんだよね」
誰もすぐには答えなかった。器の針は元の細かい振れに戻っている。
「名ではない」
クラウの声は低かった。
「うん。名前じゃないよ」
「持ち場だ。板に書いてあるものを、あれが頭に付けただけだ」
「わかってるよ」
エルクは壁を見上げた。灯りは目の高さまでしか届かない。低いところの黒は影の中にある。
「でもさ」
「なんだ」
「三百年ぶんの当番でしょ。今日はじめて、こっちが誰に言ってるか書けるようになったんだよね」
「なった」
「あっちも、書けるようになったんだよね」
クラウは返事をしなかった。写し帳の頁を繰って、そこへ短く入れただけだった。
塗る音は、上がるまでずっと同じ調子で続いていた。
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段を上がると外は暗かった。
ウルが数を言った。七と七で合っている。ドラゴの尾は雪の上で止まったままだった。
器の紙を抱えたライが、そのまま小屋のほうへ歩いていった。棚には箱が三つ並んでいる。二つには入っていて、三つ目は空のまま札だけが掛かっている。
ライは棚の前で足を止めた。
紙を抱えた腕が下りなかった。
「ライ」
『……はい』
「どうかした」
灯りを持って追いついたエルクの手が、途中で止まった。
いちばん古い箱の隙間から、薄い光が漏れていた。




