第175話 拍には名乗りがない
庇の下へ卓が出してあった。
朝のうちに雪をよけたので足元の土は乾いている。日は当たるが風は通る。
卓の上には紙が四枚並べてあった。去年の冬に書いたものが三枚と、昨夜の器の紙が一枚。
ライが端をそろえてから並びを直した。
『左から古い順です』
「読みやすい順にしないの」
『古い順のほうが後で足せます。あいだへ入れると前の順が崩れます』
写しの束を抱えたダクトが庇の下を通った。
「今日は運びますぞ」
「変わったんだ」
「変わりましたな。変わった日は運びます」
束は四つに分けてある。板と会議と記録の間の入口と、下のぶん。
「下のも運ぶんだね」
「運びますぞ。下にいる者がいちばん遅く知るのは、よろしくありませんからな」
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桶を提げたケインが卓の脇で足を止めた。
昨夜のことをまだ引きずっている顔だった。桶は下ろさずに持ったままでいる。
「ひとつ言っていいっすか」
「いいよ」
「名前って名乗れねえんすよね。去年そう決まったっす」
クラウの返事は短かった。
「決まった」
「声は真似られても名は名乗れねえ。名乗ったら本人が違うって言えるからっす」
「そうだ」
「じゃあ拍も同じじゃねえんすか。偽れねえはずっすよ」
ケインの言い方に迷いはなかった。去年その一言で夜を一つ止めた男の言い方だった。
クラウは筆を置いた。
「同じではない」
「なんでっすか」
「名は誰かのものだ。拍は誰のものでもない」
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『続けてよろしいですか』
ライが紙の一枚を前へ押し出した。長短の並びが四種類書いてある紙だった。
『これが分類です。長いのと短いのと、間の空いたのと詰まったの。四つです』
「それ、去年ライが作ったやつだよね」
『作りました』
細い指が四つの並びを順になぞった。なぞり終えてから止まった。
『私の分類には打った者の欄がありません』
「無いの」
『ありません。四つに分けたのは音の長さだけです』
エルクは紙のほうへ顔を近づけた。長さと間しか書いていない。字はどこにも無い。
『長さは誰が打っても同じ長さになります。間も同じです』
「まねできちゃうんだ」
『まねという言い方も合いません。同じものを打てば同じものです』
「長さと間しか書いてないんだって。誰が打ったかは、どこにも入ってないんだよ」
ケインが桶をようやく下ろした。
「……違うって言うやつが要らねえってことっすか」
エルクはライの手元をもう一度見てから、ケインのほうを向いた。
「そう。要らないんだって」
「名前は違うって言うやつが居るから偽れねえ。拍は居ねえから偽れる」
「そうなるって、ライが」
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クラウは三枚のうち真ん中の一枚を引き寄せた。
去年の冬に書いた三行だった。声に出して上から読んだ。
「渡すときは渡した先の名を言う。受け取った者は受け取ったと名で言う。休みは当番と同じ欄に書く」
読み終えて指を止めた。
「うちの決まりは名でできておる」
「ぜんぶ名前だね」
「ぜんぶだ。渡すのも受け取るのも名だ」
庇の外の雪が屋根から少し落ちた。
「……あれには名が無い」
誰も次を言わなかった。
クラウは三行の紙を元の位置へ戻した。戻してから位置を少し直した。
「三行は間違っておらん。うちの者どうしなら回る」
「回ってるもんね」
「回っておる。壁の向こうだけ回らん」
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薪割り場のほうで音が続いていた。
丸いのが台の上で伸び上がって、また縮んで割っている。分身は三つとも別の束にかかっていた。
『聞こえてたッス』
「聞こえてたんだ」
『卓が近いッスからね』
スラは割ったぶんを脇へ寄せてから伸び上がった。
『薪割りは名乗らなくていいッス』
「そうだね」
『誰が割っても薪は薪ッス。割った量だけ残るんで、名前は要らねえッス』
伸びたぶんが少し下がった。
『……でも拍は名乗らなきゃ駄目ッスよね』
「駄目だね」
『同じ音を鳴らすだけの仕事なのに、名前が要るんスか』
「要るみたいだよ」
スラは丸いところに戻って、また割りはじめた。
『変な仕事ッス』
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頭の上で板屋根が一度きしんだ。
グリフは翼をたたんでから首を下ろした。風切羽の先が濡れている。
『下の話か』
「うん」
『空でもそうだ。鳴き声は真似られる』
「真似できるんだ」
『できる。若いのが練習してよく怒られておった』
嘴が坂のほうを向いた。
『だが誰が鳴いたかは分かる』
「なんで分かるの」
『どこにおったかで分かる。空は場所が広いぶん、居場所が名の代わりになる』
エルクは段の口のほうへ目を動かした。
「ウルがやってるのと似てるね」
「似ておる」
クラウが横から答えた。
「入った者と出た者を数える。数えた者がそこに居るから数が名の代わりになる」
「じゃあ下でも——」
「下には数える者がおらん。壁の向こう側に立てる者がおらんからだ」
グリフは翼を開いてから、いったん閉じ直した。
『俺が言えるのはここまでだ。下は飛べん』
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板の前には人が集まっていた。
昼のあいだに話が回ったらしく、当番でない者も混じっている。ソウは板の右の端の前で腕を組んでいた。
綱を肩に掛けた若い男が先に口を開いた。
「しばらくやめたらどうだ。打つのを」
誰も笑わなかった。
「こっちが打たなきゃ、あっちに届くのは全部よそのやつだろ。混ざらねえ」
「混ざらないわね」
「なら分かるようになるじゃねえか。今は混ざってるから分かんねえんだろ」
男の言い分に穴は無かった。ソウも穴を探さなかった。
輪の端でミナが板きれを抱え直した。
「でもあの人、やめられないんだよ」
「あの人って誰だ」
「……いえないの」
男は言い返さなかった。前に同じところで止められた男だった。
「こっちがやめたらね。あの人だけつづけることになるよ」
「一晩くらい休めばいいだろ」
「三百年やってたんだよ」
ミナの声はそこで一度切れた。
「去年やっとひとつうまったの。やめたら、またこないひとになるよ」
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ソウが腕をほどいてエルクのほうを向いた。
「去年あんたが言ったやつよ」
「なんだっけ」
「覚えてないの」
「覚えてないよ」
クラウが写し帳を繰った。冬の初めの頁で手が止まる。そこにある一行を、書いたときのまま声にした。
「知りたいって言ってる人が上にいるあいだは、やめようって思えないんじゃないかな」
読み終えてから、筆の先でその行の頭を指した。
「お前の言葉だ。俺が書いた」
「……僕そんなこと言ったんだ」
「言うた」
輪の中は静かだった。綱の男は肩の綱を掛け直しただけで何も言わなかった。
人の足のあいだから小さいのが前へ出てきた。護符の紐を握っている。
ノノは板を見上げてから言った。
「へんじがなくても、たたきつづける」
それだけ言って、また下がった。
誰もその先を訊かなかった。訊いても続きは無いと皆が知っていた。
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人が散りかけてから、エルクは卓のほうへ戻った。
紙は昼のときと同じ並びのままだった。
「ライ」
『はい』
「あのさ。あの人からしたらさ」
『はい』
「ずっと僕らだと思ってるんだよね」
ライの指が紙の上で止まった。
『昨夜のぶんは、そうなります』
「昨夜だけじゃないよ」
『……といいますと』
「三つ目みたいなのが前にもあったかもしれないじゃん。数えはじめる前のやつ」
『あります。数えはじめる前のことは、私の紙にはありません』
「じゃあ全部だ」
エルクは卓の縁に手を置いた。置いてから、そこを見ていた。
「あの人さ。間違えたことにもならないんだ」
『なりません』
「間違えたって思うこともできないんだ。誰が来たか訊く形が無いんだから」
『ありません』
ライは膝の上で手を重ねた。
『こちらが打ったものも、こちらのだと言えていません』
「そっちもか」
『そうです。私たちは名乗ったつもりで三百年ぶんの返事を受け取っています』
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段の口の脇で黒銀が伏せていた。
昼のあいだ一度も立っていない。耳だけがずっと卓のほうへ向いていた。
「聞いてた?」
『聞いておった』
「なんか言うことある?」
『ある』
尾の先が一度だけ雪を払った。
『我は数を数えておる。数は誰が数えても同じ数だ』
「うん」
『だが、我が数えたと言えるのは我が口におったからだ。数のほうに我の名は入っておらぬ』
「……そうだね」
『名は打つ者が付けるものではない。居る者が付けるものだ』
エルクはしゃがんで黒銀の前脚の横に手をついた。
『主。今日は決めるな』
「決めないよ」
『決めたくなっておるだろう』
「……なってるかも」
『なっておる』
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日が傾いてからメルが束を持って出てきた。
板の前で開いて、指で二か所を押さえる。
「下は二人のままです。増やしません」
「増やしたら足りなくなる?」
「足りなくはなりません。冬は外の仕事が減りますので、枠のほうには余りがあります」
「じゃあ、なんで増やさないの」
「増やす理由が数のほうに無いからです」
もう一枚めくった。
「二人のうち一人は器の前に残ります。残ったほうが打った刻をその場で書きます」
「上がってから書いてたやつだね」
「上がってからだと、覚えている刻を書くことになります」
ソウが板の左の欄へ筆を入れた。当番の名前の脇に細い字が並ぶ。
「器の前と壁の前。二人で分けるわ」
「一人で下りるのは?」
「無しよ。前から無しだけど、今日から書いておくわ」
ダクトが器の話を聞きつけて庇の下から顔を出した。
「器のほうは動かしておりませんぞ。人が居る刻と居らん刻が、これで分かれますな」
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クラウは写し帳を開いたまま卓の上へ戻した。
冬の頁に三行ほど足して筆を止めた。
「これで分かるのは、こちらが打った刻だけだ」
「ほかには分からないんだ」
「分からん。器の前に誰も居らん刻は残る。夜は長い」
「じゃあ意味ないの」
「ある。こちらのぶんが減れば、残るぶんが浮く」
筆の腹を紙の端で拭った。
「今までは打てるようにする話だった。……今日から、打ったのが誰か分かるようにする話だ」
「同じじゃないんだ」
「ちがう。まるでちがう」
エルクは板のほうを見上げた。欄の名は四つとも去年つけたものだ。
「その欄って、どこに作るの」
「紙には足した」
クラウは書きかけの行へ目を戻した。
「板には欄を足す場所が無い。……無いから困っておる」
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夕方になって坂の下から荷が上がってきた。
冬のあいだ動かしていなかった荷を物置へ移す日だった。ドレクが背負子を下ろして息をついている。板の右の端に名が残ったままの男だった。
エルクは通りかかって足を止めた。
「重い?」
「重いに決まってんだろ」
ドレクは縄をほどきながら、卓のほうへ顎をしゃくった。
「昼の話、聞こえてたぞ」
「うるさかった?」
「うるさかねえよ。板の前でやってりゃ耳に入る」
結び目がひとつほどけて、荷の口が開いた。
「名前が無えと誰が渡したか分かんねえって話だろ」
「そうだよ」
「あれ、そんなに難しい話か」
エルクはうまく返せなかった。
ドレクは荷の口に垂れている小さな木の札を指で弾いた。字は書いていない。縁が二か所ほど欠いてあるだけだった。
「荷札って名前じゃねえけどよ」
弾いた札が縄の上で二度揺れた。
「間違えねえぞ」




