第174話 誰も打っていない拍
灯りは卓の端へ寄せてあった。
二枚は並べ終わっている。左が器の紙で右が当番の名簿だった。どちらにも刻の線が横に入っている。
クラウは指の腹で左のほうを追った。追いながら訊いた。
「内訳を言え」
『昨夜下りたのは二人です。宵にひとりと中夜にひとり』
「名簿もそう書いてある」
『打った刻も二つ入っています。当番の紙とそろいます』
指が止まった。
『器の紙には三つあります』
クラウは紙から目を上げなかった。
「打って、書かずに戻った者がおるだけだ」
『それでしたら、朝に名乗ります』
「名乗らん者もおる」
『名乗らなくても、下りた者の数が一つ増えます』
腕を組んでから、しばらく口をきかなかった。
「……階段の口には誰がおった」
『ウルです』
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戸が開いて雪の粉が床へ散った。
エルクは肩を払いながら卓のところへ来た。灯りの脇へ手をかざしてから紙を覗きこむ。
「どれが拍なの」
『長く続いているほうが塗りです』
「ずっと線になってるやつだね」
『はい。拍はこちらです。束になって跳ねます』
紙の上に跳ねの塊が三つあった。
一つ目と二つ目のあいだは長い。二つ目と三つ目のあいだも長い。三つとも同じくらいの大きさに見えた。
「どれも同じに見えるよ」
『間の空き方が違います。宵のと中夜のは当番の形です』
「三つ目は」
『三つ目も当番の形です』
エルクは顔を上げた。
「じゃあ誰か下りたんじゃん」
『下りていれば名簿に入ります』
「書かないで戻ったのかも。寒いとさ、手がかじかんで——」
「合わんことを合うように読むな」
クラウは灯りを卓の真ん中へ戻した。
「合うように読めば書き落としが一つ増えて終わる。それで終わらせたら、次に同じことが起きた時も書き落としだ」
「うん」
「二度目からは誰も数えん」
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段の口の脇はいちばん風の通るところで、黒銀はそこに背を丸めていた。灯りを近づけると耳だけが動いた。
『昨夜か』
「うん。数、聞いていい?」
『下りたのが二で上がったのが二だ。宵にひとり、中夜にひとり』
「それだけ?」
『それだけだ』
「あいだに誰か通らなかった?」
『通っておらぬ』
ウルは前脚を組み直した。
『我は口におった。夜のあいだ一度も離れておらん』
「眠くならなかった?」
『なった。なったが数は口で言うておった。……眠りかけた者は数を言えぬ』
エルクはうなずいた。
『主。我が数え落としたかと聞け』
「聞いてないよ」
『聞いてよい。我も数えるだけの者だ』
「ウルが数え落とすとこ、見たことないよ」
『見たことが無いのと、無いのは違うぞ』
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卓へ戻ると、ライは紙を送って待っていた。
『続きがあります』
束の上のほうへ細い指が伸びた。
『三つ目のあとに返しがあります』
「返してるの」
『返しています。いつもと同じ返し方です』
エルクは卓の縁を掴んだ。
「……いつもと同じなんだ」
『同じです。宵のときも中夜のときも三つ目のときも、返しの形は変わっていません』
灯りの芯がひとつ跳ねた。
「じゃあ、あの人……返事しちゃったの?」
『返事です』
「僕らだと思って?」
『そこまでは読めません』
ライは束の端をそろえた。
『あちらから見て何が違うのかは、私には言えません』
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段は途中から冷たくなる。
記録の間の入口には低い腰かけが一つ増えていた。その脇に器が据えてある。針は細かく振れていた。
壁の向こうで塗る音がしている。途切れそうになっては同じ調子で戻った。
梁の下からアラーネの糸が下りてきた。
「昨夜のことよね~」
「乗った?」
「乗ったものは覚えてるのよ~。……昨夜は何も乗ってないわ~」
「上のほうも?」
「上も下も何も乗ってないわ~。虫も落ちてないのよ~」
低いほうの糸をラネが伝ってきた。糸の途中を指で押さえてみせる。
「結び目、ぜんぶあったわよ!十六よ!」
「増えても減ってもないんだ」
「数えたもの!」
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器の脚のところでダクトが薄片を差し直していた。
「据えたままにしてありますぞ。誰も居らん刻の数も残りますからな」
「昨夜のも残ってたね」
「残りましたな。……残ったせいで困っておるようですが」
「困ってるよ」
「朝には紙を運びますぞ。昨夜のぶんは変わっておりましたからな」
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エルクは器の横へしゃがんだ。
壁は目の高さより上まで黒い。腰かけをどけたままにしてあるので、低いところの黒も見えている。膝は引いた。手は膝の上に置いたままにした。
「ライ」
『はい』
「昨夜のは僕らじゃないよって、どうやって打つの」
ライの指が止まった。
『打ち方がありません』
「無いんだ」
『違うと打つことはできます。ですが、そう打っているのが誰かは、あちらには分かりません』
「僕らかもしれないんだ」
『そうなります』
壁の音は変わらなかった。塗る手は昨夜と同じ調子で動いている。
こちらが誰なのかを、あちらは一度も訊いていない。訊かれていないのに、返事のほうだけが続いている。
エルクは壁のほうを見たまま、しばらく手を上げなかった。
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朝の板の前は人がいつもより多かった。
ソウは名簿を抱えて立っている。
「増やすのかよ」
「増やさないわ」
「二人じゃ足りねえから起きたんだろ」
「増やしても、打ったのが誰かは分からないままだわ」
エルクは板の右の端を見上げてから口を開いた。
「ねえ。冬のやつの日さ」
「決めないわ」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に出てるわよ」
ソウは名簿を抱え直した。
「早めても遅らせても、決めるのはメルと私よ。あんたは今日それを考えなくていいの」
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炭の袋を提げた男が板の脇から言った。
「気のせいってことはねえのか」
「器が跳ねただけかもしれねえだろ。冷えるとさ、木も鳴るぞ」
紙を抱えたライが輪の外で顔を上げた。エルクはそちらを見てから、男のほうへ向き直った。
『鳴ります。誤りかもしれません。誤りかもしれないと書きます』
「鳴るって。まちがいかもしれないって、そう書くんだって」
「書くのかよ」
『誤りだったと後で分かったときに、いつ誤ったかが要ります』
「あとでちがってたって分かったときにさ、いつまちがえたかが要るんだよ」
男は袋を提げ直した。それ以上は言わなかった。
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ケインは輪の外にいた。人が散りかけてから近づいてきた。
「宵のは、おれっす」
「打ったんだ」
「打ったっす。下りて、最初のやつを打って、しばらく待って上がったっす」
「どれくらい待ったの」
「数えてねえっす。……いつもより長かったのは確かっす」
「なんで長くなったの」
「返るまで動きたくねえんすよ。動くと濁るって聞いてるんで」
「返ってきた?」
「返ってきたっす。いつもの」
ケインは足元へ目を落とした。
「三つ目はおれじゃねえっすよ」
「うん」
「……でも、おれじゃねえって、どうやったら分かるんすかね」
答えられる者はそこにいなかった。
ケインは当番小屋のほうへ行った。
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卓へ紙を戻してから、ライが新しい線を一本引いた。
紙の端が細く割れて、縦長の欄が一つできた。
『打った者を書く欄です』
「名前を書くの」
『名前です。刻の隣に、打った者の名を書きます』
ケインが自分の刻のところへ字を入れた。中夜のほうは当番の若いのが書いた。
三つ目の行の前で筆が止まった。
「そこは?」
『書けません』
「空けとくの」
「空にするな」
クラウが横から言った。
「空は後から埋まる。書けんときは書けんと書け」
ライは三つ目の行へ短く入れた。
書けません。
『これで、書けない行が一つある紙になります』
「増えたら?」
『増えたぶんだけ並びます。並べば数えられます』
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クラウは膝の上へ写し帳を移した。
冬の頁の下に空きがあった。筆の先を硯の縁で二度こすってから、書き出しの一字を置いた。
「なんて書くの」
「昨夜の拍を打った者は分からん、と書く」
「それだけでいいの」
「それだけだ。分かったふりを書くと、次に読むやつが探すのをやめる」
半分ほど書いたところで手が止まった。
クラウはライの引いたばかりの欄のほうを見ていた。
「……名を書く欄を足したな」
「足したね」
「当番の紙に名が入る。板にも入っておる。名簿にも入っておる」
筆の先から墨が一滴落ちて、頁の端が黒く滲んだ。
「拍には、名乗りが無い」




