第173話 教えていない側
ノノは指を四本立てたままだった。
子らは座ったまま前を見ている。手を挙げた子は挙げたままでいた。
庇の雪がひとかたまり落ちた。誰も振り向かなかった。
「なんでたたくの」
二度目のほうが小さかった。
ノノの指が一本ずつ下りた。四本とも下りてから、手は膝の横についた。
口は開かなかった。
隣に座っていた子が顔を覗きこんだ。ノノはそちらも見なかった。
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エルクは輪のうしろから入って、子らの頭と頭のあいだを抜けた。
しゃがんだのはノノの隣ではなかった。聞いた子の正面へ回ってから膝を折った。
「僕が答えていい?」
子はうなずいた。
「……今は言えないんだ。ごめんね」
子はうなずかなかった。
「いつ言えるの」
「わかんない」
「わかんないの」
「うん。わかんない」
子は膝の上で手を握り直した。目はそらさなかった。
エルクもそらさなかった。そのまま少しのあいだ二人とも黙っていた。
子が先に立ち上がった。納得した顔ではなかった。
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子らがほどけたあとも、エネは膝をついたままだった。
いちばん後ろにいた子の襟巻きを結び直している。結びながら、指を二本折った。
「ふたり」
結び目から目を離さない。
「なにが」
「きょう、答えられなかった人です」
エルクは自分の口のあたりへ手をやった。
「……ひとりは僕だね」
「はい」
折った指はそのまま袖のなかへ入った。紙は出さなかった。
「小屋に置いてあります。忘れないうちに、あとで移します」
それから、まだ手を挙げたままの子のところへ行った。手は下ろさせなかった。かじかんだ指のあいだへ、自分の手袋を押しこんだだけだった。
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子らが立って散りはじめた。
途中で一人が振り返った。
「ノノもしらないの」
ノノは答えなかった。
別の子が代わりに言った。
「しってるよ。ノノはしってる」
「じゃあなんでいわないの」
ノノは護符の紐を握った。指の先が白くなるほど握った。
それでも何も言わなかった。
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物置の裏から糸が一本下りてきた。先に小さいのがぶら下がっている。
「見ててよ!」
ラネは糸の途中をひと結びした。
子らが屈んで覗きこむ。ラネは糸の端を引いてみせた。指を滑らせると結び目のところで止まる。
「ここでとまるの!」
二人が笑った。手を挙げていた子は笑わなかった。結び目のところをじっと見ていた。
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薪割り場の脇で丸いのが伸び上がっていた。
『へんじがなくても、たたきつづけるッス!』
「最後にひとつ増えてるよ」
『増えてたッスか』
「増えてたね」
スラは伸びたぶんだけ縮んで、もとの丸さに戻った。
『四つ目だけ長いんスよ。……息が途中で切れるッス』
紙の束を抱えたライが薪の山の陰から出てきた。
『兄さん。子らの前でそれをやると、明日には全員っスになります』
『それは困るッス』
『困ります』
ライは束を抱え直してエルクのほうを向いた。
『さっきの問いですが』
「うん」
『私も答えられません』
「そうだよね」
『読めているのは打っているということだけです。なぜ打つのかは、まだどこにもありません』
「どこにも無いんだ」
『ありません。無いものは無いと書きます』
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屋根の棟に爪がかかる音がした。見上げるとグリフだった。日陰のほうの風切羽に、まだ朝の霜が残っている。
『今朝は鳴かなかった』
「なんもなかった?」
『無かった。書いておく』
嘴が子らの散っていったほうへ向いた。
『あれは毎朝同じことを言うておる。今朝は途中で止まった』
「止まったね」
『止まった理由は上からは見えん』
「うん。上からは見えないよ」
『では書かぬ。見えぬものを書くと、次に見えた者が困る』
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ノノがエルクのところへ来たのは、子が一人もいなくなってからだった。
「こたえられなかった」
「うん」
「ノノがおしえたのに」
「教えたね」
ノノは足元の雪を靴の先でならした。
「あしたも、きくとおもう」
「聞くだろうね」
「なんていえばいい」
エルクは手袋のなかで指を握った。言葉のほうは出てこなかった。
「……考えとく」
「きょうは?」
「今日はない。ごめん」
ノノはうなずいた。うなずいたきり、しばらく動かなかった。
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ミナは井戸のそばに立っていた。板きれは抱えたままで開いていない。
濡れた綱を肩に掛けた若い男が、井戸の縁を回ってきた。秋の終わりに移ってきた女の隣に、座るようになったほうだ。
「子供に叩けって教えてるんだってな」
「おしえてるよ」
「なんで叩くかは」
ミナは板きれの角を握った。
「……いってない」
「おれが埋めたやつは間違ってたんだよな」
「……ちがうとも、あってるとも、いわないよ」
「なんでだよ」
「ミナがちがうっていったら、ほかのふたりがまちがえたことになるでしょ」
「そうか」
「じゃあ本当のは何なんだ」
「いえないの」
「そこだよな」
男は怒っていなかった。肩の綱を掛け直そうとして、掛けかけたまま止まった。
「おれは止まったところまでちゃんと聞いたぞ。止まったって言われたのも聞いた」
「うん」
「聞いてから家まで歩いた。そのあいだに埋めたんだ」
「……あるいてるあいだに」
「悪気はねえよ。歩いてりゃ勝手に続きができる」
綱の端が雪へ垂れた。男はそれを拾わなかった。
「あんたは決めた通りに話した。おれは聞いた通りに話した。どっちも間違ってねえよな」
「うん」
「なのに違うのが三つできたんだよな」
答えは聞かずに行った。綱を引きずった跡が、井戸のほうへ細く残った。
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当番小屋の前まで来たとき、エルクは板の下にいた。
「あのね」
「うん」
「言わないって決めたって言うだけじゃ、足りなかったんだよ」
ミナは板きれをようやく開いた。中は昨日と同じところで止まっている。
「ミナ、線をひいたつもりだったの」
「引いてたね」
「線のむこうを、みんなが勝手に歩いてた」
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クラウは切り株に写し帳を開いていた。今の言葉をエルクが伝えると、筆がしばらく止まった。
「あの娘が去年言うたことだ」
「去年?」
「知らん者が悪いのではない。教えておらん者が悪い。……あれが言うて、俺が書いた」
「書いてあるんだ」
「書いてある」
クラウは書いてある行を上から指でなぞった。なぞり終えて、指を離した。
「書いてあるだけだ」
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クラウは頁を繰った。縦線が三本引いてある頁で手が止まった。
三本目の下は白いままだった。
「そこ、まだ空だったよね」
「空だ」
筆が下りた。字は短かった。
跡がある。
それだけ入れて筆を上げた。
「それだけ?」
「それだけだ」
「高さは中身じゃないって言ってたじゃん」
「言うた。高さは数だ。数はライの紙にある」
「じゃあこれは何なの」
「あの欄が空ではないという一行だ」
息が白くなって、頁の上で消えた。
「空のままにしておくと、いつか誰かが中身を作る。……跡があると書いておけば、跡までしか書けん」
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筆を置いてから、頁を冬の初めまで戻した。
指が一行の上で止まった。そこだけ声に出して読んだ。
「では、我らが先に絶えたらどうする」
読み上げただけだった。
「それ、レオルのだよね」
「長のだ」
「答えは?」
「書いておらん。足りんと書いてある」
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岩の上の雪はどけてあった。長は腹側を日に向けている。
写し帳の話をすると、鱗の顎が一度下がった。
「答えを急かしたのは我——」
そこで切れた。
爪が岩の縁を一度だけ掻いた。掻いた跡に雪の粉が残った。
「……何でもない」
「途中じゃん」
「途中だ。続きを持っておらん」
それきりレオルは目を閉じた。
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日が傾いてからエルクは切り株のところへ戻った。
「ねえ。もう言っちゃおうよ」
「誰にだ」
「みんな」
「みんなとは誰だ。板に名のある者か。子らもか。冬に来た者もか」
「……ぜんぶ」
「どこまで言う」
エルクは言う順番を頭のなかで並べてみた。
壁の裏の話をどこで切ればいいのかが出てこなかった。名のところは言えない。名を言わないと決めた理由も言えない。言えないところを抜いていくと、残るのはミナが今話しているのと同じところまでだった。
「……わかんない」
「わからんまま言えば、聞いた者がまた自分で埋める。今度は俺たちが埋めさせたことになる」
エルクの目が板のほうへ動いた。すぐに戻して、また動いた。
クラウは筆を置いて、それ以上は何も言わなかった。
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入口の外の地面はそこだけ雪が寄りつかない。
ドラゴは首を横へ倒したまま目だけを動かした。
『声がしておった』
「聞こえてた?」
『子らだ。同じことを四度言うておった』
「授業だよ」
『途中で一つ増えた。あれは同じことではなかった』
「……聞いてたんだ」
『聞いた。返らなんだな』
「返せなかったんだ」
竜は首を雪の上へ下ろした。
『我なら待つ』
「うん」
『子は待たぬぞ』
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板の下の土は昼のうちに乾いていた。
線は四本とも下まで字が入っている。右の端の名前も朝のままだった。
「ソウ」
「なに」
「板と、ミナの話と、ノノのやつ」
「うん」
「ぜんぶ同じところで止まってるね」
「止まってるわ」
ソウは筆を持っていなかった。硯も片づけてある。
「言わないって決めたところで止まってるの。決めたのは間違ってないわ」
「うん。間違ってないね」
「間違ってないのに三つとも止まるのよ」
板の縁の雪をひとすくい払った。
「今日は板に足すものが無いわ。……写しのほうへ、無いって書いておく」
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夜になった。
当番小屋の卓に灯りがひとつ。クラウは写し帳を閉じたところだった。
階段の口で紙のこすれる音がした。上がってきたのは束を抱えたライだった。
ライは紙を二枚置いた。並べてから位置を直した。
『昨夜の拍が、名簿と合いません』
「書き落とし?」
『そう思って三度数えました』
束の端をそろえてから、もう一枚を上に重ねた。
『三度とも合いませんでした』




