第172話 やめると書く場所がない
夜のうちに積もったのは指の一関節ぶんだった。
当番が朝のあいだに広場をかいたので板の下だけ黒い土が出ている。板の縁は雪をかぶって白い。
ソウは右の端の前に立っていた。筆は持っている。硯は雪をどけた石の上に置いたままで、まだ一度も浸けていない。
板の脇に黒銀が伏せていた。首は上げない。
エルクは横に並んだ。
「昨日と同じところ見てるね」
「同じところよ」
「日は決めた?」
「決めてないわ」
筆の柄が指のあいだで一度回った。
「休みの欄を数えてたの」
休みの欄には十いくつの字が並んでいる。ほとんどは冬に入ってから入ったものだ。いちばん上の一行だけが動かない。
「レオルのとこ、ずっとそこだね」
「ずっとよ」
「戻る場所があるって意味でしょ。その欄」
「そういう欄よ。だから上まで詰まらないの」
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井戸のほうから足音が来た。
ドレクは桶を提げていなかった。手ぶらのまま板の前まで来て止まった。
「消してくれ」
「なにを」
「おれの名だ。右の端のやつ」
ソウは板のほうを向いたまま動かなかった。
「理由は」
「言わなきゃ消せねえのか」
「言わなくても消せるわ」
エルクが口を開いた。
「じゃあ消して——」
筆が横に出た。エルクの胸の前で止まった。
「まだよ」
「まだって?」
「消し方が決まってないの」
「決まってるじゃん。線を引いて下に書くやつでしょ」
「あれは書き直しの引き方よ」
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写し帳を抱えたクラウが庇の下から出てきた。
板の前へ来て、三つ目の欄を指した。
欄の途中に線の入った字がある。その下に新しい字が入っていた。獅子の刻を書き直したところだった。
「刻を直すときの引き方だ」
「下に入るものがあるから、ああ引く」
「名前の下には何も入らないもんね」
「入らん。……何も入っておらん線を、後から来たやつはどう読む」
「書き間違い?」
「書き間違いだ。でなければ最初から居らんかった者だ」
ドレクは襟を下ろした。
「おれは居たぞ」
「居た。俺も見ておる」
クラウは帳を脇へ挟み直した。
「だが板は俺の頭ではない」
ドレクは板の右の端から目を離さなかった。
「今まで消したやつは居ねえのか」
「居らん」
即答だった。
「板を掛けてから一度も無い。減らしたやつは居る。休んだやつも居る。抜けたやつは居らん」
「じゃあおれが最初か」
「最初だ」
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エルクは休みの欄へ目を戻した。
「じゃあさ。休みのとこに入れとくのは?」
「入るわ」
ソウは首を振らなかった。振らずに続けた。
「入るけど嘘になるの」
「嘘?」
「休みは戻る欄よ。戻らない人を入れたら、ずっと戻ってこない人になるでしょう」
束を抱えたメルが当番小屋から出てきて、板の前でそれを開いた。
「数えました」
「回る?」
「回ります。一人抜けても冬のあいだは回ります」
頁を押さえる指がひとつ下へ動いた。
「回りますが、抜けた形が残りません」
「形」
「抜けた日から後ろは、はじめからその人が居ない表になります。……去年の表を見ても、誰が抜けたのかは分かりません」
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水を汲みに来た女が桶を置いた。秋の終わりに移ってきたほうだった。
「消させてあげたらいいじゃない」
誰もすぐには答えなかった。
「無理に書かせたわけじゃないんでしょう。書いたのを消すのも、その人のものよ」
薪の束を抱えたケインが遅れて足を止めた。
「消したら、なんも無かったことになるっす」
抱え直してから続けた。
「次に書くやつが、また一から知らねえまま書くっすよ。……おれ去年それやったっす」
「それは書かせる側の話でしょう」
女の言い方は強くなかった。ケインも言い返さなかった。
どちらの言い分にも穴が無かった。
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板の正面へ長が回ってきた。
レオルは休みの欄のいちばん上へ爪の先を当てた。
「我は休みと書いた」
「うん」
「やめるとは書いておらん」
爪が字の上をなぞった。
「半年だ。半年ぶん、我は戻ると言い続けておることになる」
「戻るんでしょ」
「戻る」
尾が雪を一度打った。
「戻らぬと決めた日は、この欄を出ねばならん。……出た先が無い」
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小屋の陰でたてがみが持ち上がった。
『我は減らした』
「減らしたね」
『だが、やめたのではない』
獅子は前脚をそろえ直した。
『減らすは同じ欄で足りる。刻を書き直せばよい』
「やめるのは?」
『やめるは、別の欄が要る』
エルクはそのまま伝えた。
ソウは板を見上げた。クラウの筆はまだ動いていなかった。
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エルクは右の端の欄を見た。ぬる。まいばん。かわりなし。三つとも短い。
「こっちにも無いね」
「無いわ」
「やめるって書くとこ」
ソウは答えなかった。右の端は名前の入った空きを残したままそこで終わっている。
板の脇で黒銀が一度だけ姿勢を変えた。何も言わなかった。
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ソウは板の前を離れた。
ドレクの正面まで回ってから、筆を石の上の硯へ戻した。
「休むのと、もうやらないのは、違うわよ」
「同じだろ。どっちも立たねえんだ」
「明日立つ人と、もう立たない人よ。板は明日のために掛けてあるの」
ドレクは板のほうを見なかった。
「じゃあおれはどうすりゃいい」
「今日は消さないわ」
「置いとけってことか」
「置いといてとは言ってない。……消せないって言ってるの」
男は口の端を曲げた。笑ったのではなかった。
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エルクは雪をひとつ踏んで前へ出た。理由は聞かなかった。
「僕さ。どうしたらいいか分かんないよ」
「分かんねえのかよ」
「うん。分かんない」
その名を板へ入れたのはこの男自身だ。何の当番かを知らないまま入れた。
「でも消したらさ。あんたが書いた日まで無かったことになるじゃん。……それは違う気がするんだよね」
「気がするだけか」
「気がするだけだよ」
ドレクは襟を上げた。上げてから一歩だけ下がった。
「夜に思い出すんだよ」
声は低かった。
「知らねえもんの当番に、おれの名前だけ入ってんのがな」
それだけ言って薪小屋のほうへ歩いていった。
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脚立を担いだ大きいのが庇の下から出てきた。
「カネ、ミル」
「ゆるんでた?」
「カタホウ、カタイ。モウカタホウ、フツウ」
「じゃあ大丈夫だね」
「オモサ、カワッテナイ」
ウーゴは脚立を畳んでから板を一度見上げた。それ以上は何もしなかった。
紙を抱えたダクトが卓のほうから来た。
「二枚だけ運びますぞ」
「四枚じゃないの」
「入口と下のぶんは夕方ですな。今日はまだ何も変わっておりませんからな」
「変わらないと運ばないんだ」
「変わらぬものを運ぶと、受け取った側が変わったと思いますぞ」
小屋のほうから丸いのが転がってきた。
『夜の二人は寝たッス』
「起こしてないよね」
『起こさないッス。……起きてる人を減らすと昼が重くなるッスからね』
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クラウが切り株へ帳を開いたのは昼に近い時分だった。
「今日は消さなかった、と書く」
「消さなかったことも書くんだ」
「書く。消さなかったのか頼まれなかったのか、後で分からんようになる」
筆が一度止まった。
「……頼まれた、とも書いておく」
「名前は?」
筆は動かなかった。
「今日のは頼みだ。頼みに名を付けると、次のやつが頼めんようになる」
ソウが横から覗きこんだ。
「消し方が要るのよ」
「要るな」
「作れる?」
「作れる」
筆の尻で頁を押さえた。
「だが今日は作らん」
エルクは頁の白いところを覗きこんだ。
「今日作れば、今日の一人に合う形になる。……形は一人に合わせた時がいちばん早く駄目になる」
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板は掛かったままで日を越した。
四本の線はどれも埋まっている。空いている欄はひとつも無い。空いている欄がひとつも無いことで困ったのは、この国では今朝がはじめてだった。
板の脇の黒銀は朝から一度も口をきかなかった。エルクが離れるときに耳だけがこちらを向いた。
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小屋の前を通ったとき子らの声が揃って聞こえた。
ノノが四つの文句を順に言わせている。三つまでは早い。四つ目だけ声がばらける。
「へんじがなくても、たたきつづける」
三度目でようやく揃った。ノノは前に立ったまま指を四本立てている。
いちばん前に座っていた子が手を挙げた。
「なんでたたくの」
声はよく通った。広場のこちらまで届いた。
エルクは足を止めた。板のほうを振り返ってから、もう一度小屋のほうを見た。




