第171話 低いところの跡
その晩のうちに下りた。
灯りを二つ点けて当番の二人が先に段へ足をかけた。エルクとクラウがその後ろに続いた。
ウルは段の口に残った。
『我はここだ』
「下りないの?」
『入った者と出た者を数える。合わぬ日が出ると後で困る』
「合わなかったことあったっけ」
『無い。無いから続けておる』
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記録の間の空気は前の晩と同じだった。
壁の黒は灯りの手前でぴたりと止まっている。柱の札は掛かったままだ。腰かけは片づけていない。壁にいちばん近い一つだけが奥へ寄せてある。
ウーゴが据え直したのは壁沿いの三つだった。もとは平たい石の上に載っていた。その石は今は隅へ積んである。
エルクは灯りを下ろした。腕をいっぱいに伸ばしても足りなくて、そのまま膝をついた。
石が載っていたあたりの壁が黒い。
上の黒とはつながっていない。あいだに指二本ぶんの隙間があって、そこだけ素の石が出ていた。
「……ずっとここにあったんだ」
「あったな」
クラウは灯りの縄のほうを見上げた。金具は立った者の目の高さに打ってある。
「掛けた高さより下は見ておらん。石と腰かけで塞いでもおった」
「気づかないよねえ」
「気づかん。誰も屈まん」
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ライが下りてきたのは灯りをもう一つ足してからだった。器と紙の束を胸で押さえている。
『台が要ります。据える位置が低すぎます』
後ろからダクトが板を担いで入ってきた。
「持ってきましたぞ。低いのと水平を見る糸を一本」
「低いのでいいの?」
「膝より下へ据えますからな。いつもの台では逆に届きませんぞ」
ダクトは板を三枚並べて脚を短く切った。器はその上へ載った。糸を渡して傾きを見てから、脚の一本の下へ木の薄片を差し込んだ。
「これで平らですぞ。傾いた台で測った数は、後で誰も信じませんからな」
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ライはまず器の口を壁へ向けて、それから離れた。
『今夜の濃さは先に取ってあります。これから見るのは厚みです』
「濃さと厚みってちがうの」
『濃さは今夜のぶんです。厚みは積んだぶんです』
ライは紙を壁の低いところへ当てて、爪の先ほどの幅で線を引いていった。
『別のものです。……混ぜて数えると年が合わなくなります』
クラウは膝に手を置いて屈んだまま動かなかった。
「同じ者が屈んで塗った跡かもしれん。三百年もおれば下も塗る」
「そう思うの?」
「思わん。だが先にそっちを潰しておかんと、後で誰かが持ち出す」
器の針が細かく振れた。ライは目を近づけた。
『厚みが二種類あります』
「二種類」
『上は薄いものが数えきれないほど積んであります。下は一度に乗せる量が多いです』
紙へ落としてから、もう一度壁へ当てた。
『重ね方が違います。……同じ者が三百年やった厚みではありません』
当番の若いほうが灯りの外から覗き込んだ。鱗の下の顎が動いた。
「手が二つあるということか」
「そうなるね」
「では今はなぜ一つなのだ」
答える者はいなかった。
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束を数えるのに刻が要った。ライは同じところを三度数え直した。
『上は三百と少しです。前に出した数と変わりません』
「下は」
『……二百四十ほどから始まっています。終わりは百二十ほど前です』
「二百四十」
『年です』
クラウの筆が止まった。
「二人おった年月は」
『百二十ほどです。その前も後も一つの手です』
エルクは数を追いきれなかった。頭のうしろを掻いてから、いちばん端だけを掴んだ。
「下のほう、途中でやめてるんだ」
「やめておる」
クラウは写し帳を膝へ置いた。頁のいちばん上へ年の数を三つ並べて書いた。
「旧い国が終わったのは三百年前だ」
「うん」
「下の手が始まったのは二百四十年前だ。六十年遅れておる」
「六十年って長いよね」
「長い。頼んだ者が誰も残っておらん長さだ」
書いた三つの数のうち、真ん中を丸で囲った。
「頼まれて来たのではない。途中から勝手に来た者だ」
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当番の若いほうが息を吐いた。
「勝手に来て途中で放り出したのだな」
器の針が止まった。
『違います』
ライはエルクのほうへ向き直った。
『途切れ方が急ではありません。そう伝えてください』
「急じゃないんだって」
「どういうことだ」
『最後の二十年ぶん高さが下がっています』
ライは紙を壁へ当てたまま指を滑らせた。層の上の端が細かい段になっている。段は一年ぶんずつ下へ寄っていた。
『一年に指の幅ほどです。二十年でここまで下がって、そこで終わっています』
エルクは目で追った。段は最後のところでいちばん低くなり、その先には何もなかった。
「……届かなくなってったんだ」
「届く高さが下がったのだ」
クラウの声は低かった。
「投げ出した者の跡はこうならん。投げ出すなら途中で切れる。……これは細っておる」
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ウーゴが階段の口から板を抱えて入ってきた。
「ヒクイノ、ツクル」
「腰かけ?」
「ヒザ、ツクト、ツメタイ」
大きいのは板を二枚重ねて脚を短く落とした。座るというより屈む者の尻を支えるだけの高さだった。
「イタ、ミジカク、シタ」
「ありがとう。助かるよ」
「マタ、ツカウ」
梁から糸が一本下りてきた。アラーネが低いところへ張り直している。
「下は張ったことがなかったわ~」
「今まで上だけだったんだ」
「誰も下を見てなかったのよ~。糸は見てるところにしか張らないわ~」
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エルクは低い黒のほうへ手を伸ばした。
指が届く前に自分で止めた。
「触らない」
「触らんな」
「うん。上のは触っちゃだめだって決めたじゃん。……だったらこっちも同じだよ」
「同じだ」
エルクは手を膝の上へ戻した。
「これも誰かが塗ったんだもんね」
クラウは灯りを近づけて、二つの黒のあいだの隙間を見た。指二本ぶんの素の石は上まで続いている。上の黒はそこで止まり、下の黒もそこで止まっていた。
「重なっておらん」
「重なってないね」
「どちらも相手のところへ手を入れておらん。三百年ぶんの上と、百二十年ぶんの下だ。境の石には両方とも乗っておらん」
「……わけてたんだね」
クラウは答えずに写し帳へ線を引いた。
ライがもう一枚を灯りへかざした。
『下の層の上に、上の手のものは乗っていません』
「乗せなかったの?」
『乗っていません。下の手が終わってから百二十年ぶん、そこは空いたままです』
エルクは黙った。
灯りの芯が一度鳴った。
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『高さを一年ぶんずつ書きます』
「ぜんぶ?」
『ぜんぶです。触らずに書けるのは高さだけです』
ライは紙を三枚に分けた。一枚目に上の層を入れた。二枚目に下の層。三枚目に段の下がり方を入れた。
「読めなかったところは」
『読めません。読めないと書きます』
クラウは写し帳を繰った。三つを並べた頁の先に、まだ何も入っていない頁がある。
「そこに書くの?」
「書かん」
「なんで」
「あの頁は中身を置く場所だ。……高さは中身ではない」
「高さじゃだめなんだ」
「だめではない。まだ足りん」
筆を持ち替えた。
「足りんものを入れると、入れた者は入れた覚えを無くす」
「じゃあどこに書くの」
「ライの紙だ。あれは高さの紙になる」
ダクトが板の下から顔を出した。
「写しは四枚のままでよろしいですかな」
「四枚だよ」
「では四枚ですぞ」
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据え置きの器の針が動いたのはそれからしばらくしてからだった。
毎晩の長いものだった。切れずに続いて、切れたと思うとまた始まる。
『来ました。昨夜より、ひと刻ぶん長いです』
「今日も来てるんだね」
『来ています』
エルクは低いところの黒をもう一度見た。段は最後のところで止まったままだった。
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上がる段の途中でエルクが言った。
「その人さ」
「どの人だ」
「下の人。……やめたくてやめたのかな」
誰も答えなかった。
当番の若いほうも黙っていた。クラウは写し帳を抱え直しただけだった。
段の口で黒銀が首を上げた。
『二人で下りて二人で上がった。合うておる』
「うん」
『主。数は合うておるぞ』
「合ってるね」
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外は雪がまた降りはじめていた。
広場の板は朝と同じ場所に掛かっている。留め金は二つとも締め直してあった。
休みの欄のいちばん上に鱗の字がある。長の字だ。半年ぶん、同じ場所に同じ字が入っていた。
休みの欄はあった。
エルクは四本の縦線を左から読んでいった。右の端まで行ってから、また左へ戻った。
二度読んだ。それでも足りない気がして、もう一度読んだ。
見つからないものが何なのかは、まだ言葉になっていなかった。




