第170話 知らないまま書いた名
朝のうちに雪をどけたので、広場の真ん中だけ地面が見えていた。
板の前は誰も踏まない。留め金は二つ、縦線は四本。左から当番、休み、従魔の持ち場と続いて、いちばん右がうちの者でない者の持ち場だった。
ソウは板の下にしゃがんで名簿を膝に載せていた。冬にもう一回ぶんの名前を合わせている。前の晩から字は一つも動いていない。
エルクは雪を踏んで横に立った。
「まだ決めないんだね」
「決めないわ」
「メルがそう言ったから?」
「言ったわ。それに私も決めたくないの」
---
坂の上から黒銀が下りてきた。毛の先に雪が乗っている。
『交代した』
「誰と?」
『鱗の若いのだ。名を言うて上がっていった』
ウルは板のほうへ首を回した。
『合うたのは十三日だ』
「十三日ぶん合ってるんだ」
『渡した先の名と、受け取った者の名がそろっておる。ずれた日は無い』
「すごいじゃん」
『すごくはない。書いてある通りにしただけよ』
---
ライが下から上がってきた。束は落とさないように胸の前で抱えている。
『器の紙です。昨夜のぶんを持ってきました』
「濃さは」
『変わりません。毎晩ひと刻ずつ延びています。数の通りです』
「あの短いのは」
『来ていません』
ライは束を卓の上でそろえた。
『あれきり一度もです。……欄が空いたままです』
「空でも書いとくんだよね」
『書きます。来なかったと書ける欄は、去年のうちに引いてあります』
「急がないって言ってた声も、いまは何も言わないね」
『言いません』
---
ダクトが紙を抱えて卓へのぼった。
「写しですぞ。板と会議と記録の間の入口と、下の四枚目」
「ぜんぶ同じこと書いてあるんだよね」
「同じですぞ。違っていたらどれかが古いということですな」
庇の下では大きいのが脚立に乗っていた。留め金のひとつを指で押している。
「カネ、ユルイ」
「打ち直すの」
「シメルダケ」
ウーゴは脚立を下りて道具の袋を担ぎ直した。
「シタ、イク。コシカケ、ガタガタ」
「据え直すんだ」
「ナオス」
---
空のほうで羽音がした。
グリフは庇の端へ下りて翼をたたんだ。
『今朝は一度鳴いた』
「なんかいたの?」
『いなかった。庇の雪が落ちただけだ』
嘴が板のほうを向いた。
『鳴いてしまったのだから書け』
「間違いでも書くんだ」
『書く。数が合っておらんと、後から読む者が数えた者を疑う』
---
アラーネの糸が柱を伝って下りてきた。
「結び目がひとつ多いのよ~」
「多いのはまずくない?」
ラネが束を抱えて庇の下から出てきた。
「一段下げたぶん、昨日私が足したの!ちゃんと書いたわよ!」
「書いてあれば多くないのよ~」
---
卓の脚を回り込んでスラが出てきた。
『今朝は聞かれる前に決めといたッス』
「割り振り?」
『はいッス。……ゆうべのうちに二人とも決まってたッスからね』
---
板の前でドレクが足を止めたのは、日が高くなってからだった。
右の欄には名前が二つ並んでいる。上のひとつは自分で書いた字だ。
「これ、なんの当番なんだ」
筆が止まった。
「二回目のぶんよ」
「それは聞いた。なんの当番かって聞いてる」
ソウは板のほうを見ていた。
エルクが口を開きかけて、そのまま閉じた。
ドレクは毛皮の襟を下ろした。
「壁がどうとか言ってただろ。壁の何なんだ」
「……言えないの」
「名前をか」
「名前じゃないわ。ぜんぶよ」
薪を抱えたケインが通りかかって足を止めた。しばらく聞いてから、抱え直して口を開いた。
「なんの当番か言えねえんすよ、おれ」
「あんた去年から下りてるんだろ」
「下りてるっす。ぜんぶ見たっす」
薪の端で雪が落ちた。
「見たけど言えねえっす」
「なんでだ」
「言わねえって決めたからっす」
ドレクは黙った。怒った顔ではなかった。
ケインのほうが先に耐えかねてソウを見た。
「……言わねえって決めたのは、こっちっすよね」
「決めたわ」
それで止まった。誰も間違ったことを言っていないので、誰も押し切れなかった。
ドレクは襟を上げ直した。
「おれの名が書いてあるんだよな」
「書いてあるわ」
「なんの名かは知らねえまま書いたんだな」
返す者はいなかった。ドレクはそのまま井戸のほうへ歩いていった。
---
エルクが小屋の脇を通ると、陰で耳がひとつ動いた。
ライオは丸くなったままだった。
『あの者は怒っておらぬ』
「怒ってなかったね」
『分からぬまま立つ者は、まず怒らぬ。怒るのは後だ』
「後っていつ?」
『続かなくなってからだ』
---
ミナが板きれを抱えて広場を横切ってきた。
膝に載せてから、しばらく開かなかった。
「みっつあったの」
「なにが」
「ミナの話」
聞き手は三人いる。ドレクと、秋の終わりに移ってきた女と、その隣に座るようになった若い男だった。
「きのう話したこと、三人にもういっぺん言ってもらったの」
「言ってもらったんだ」
「ちがったの。ぜんぶ」
ミナは指を折った。
「ひとりは、地下に病気のモンスターがいるって言ったの」
「うん」
「ひとりは、壁が崩れかけてて押さえてるって」
「うん」
「ひとりは、昔の国の亡霊を鎮めてるって」
指が三本のまま止まった。
「ミナ、うそはひとつも言ってないよ」
「うん。言ってないと思うよ」
「言わないって決めた話がある、ってところまでは話す。……そこまでしか言ってないもん」
板きれを膝の上で回した。
「そこから先を、みんな自分で埋めてた」
---
そのすこし後にクラウが来た。写し帳は小脇に挟んだままだった。
エルクは三つを順に話した。話してから頭のうしろを掻いた。
「みんな、ちゃんと考えて埋めてくれてるんだよね」
「考えておるな」
「病気なら医者を呼ぶでしょ。崩れかけてるなら普請だし、鎮めるなら手を合わせるじゃん。……どれもちゃんとしてるよ」
しばらく黙った。
「……それで三つとも違うんだ」
クラウは切り株へ帳を置いた。
「直すか」
「直せるの」
「直せる。三つとも違うと言えば済む」
筆の尻で頁を叩いた。
「そのあと何を言う」
エルクは答えなかった。
「言えんのだ。正しい話をこっちが持っておらんのではない。持っておるが、渡さんと決めた。……渡さんと決めた側が間違いだけ指すのは、いちばん行儀が悪い」
「じゃあどうするの」
「並べる」
クラウは新しい頁を開いて、縦に線を三本引いた。
「直さん。三つとも書く」
「書いてどうするの」
「三つあると分かる。それだけだ」
「それだけでいいんだ」
「よくはない。……だが直すより先だ」
筆が動いた。病気の話と、崩れる壁の話と、鎮める話が、順に頁へ入っていった。誰が言ったかは書かなかった。
「誰が言ったかは書かないんだ」
「書けば、そいつが間違えたことになる」
---
エルクは板のほうを見た。
「ねえ。二回目の日、決めちゃったほうがよくない?」
「なぜだ」
「日が決まってたら、なんの当番かも言いやすくなるかなって」
クラウは筆を止めなかった。
「日はメルとソウのものだ。お前のものではない」
「そうだけどさ」
「そうだ」
---
外の地面はそこだけ雪が寄りつかない。ドラゴは板の字が見える側へ首を置いていた。
『我の欄を見ておる』
「見てるね」
『拍を打つ、と書いてある』
「書いてあるよ」
『いつ打つかは書いておらぬ』
「まだ決まってないからね」
喉の奥で低い音が鳴った。
『なぜ打つかも書いておらぬな』
「……書いてないね」
『我は聞いた。ゆえに知っておる』
竜は板の右端のほうへ目を移した。名前が二つ並んでいる。
『あの二つは、聞いておらぬのか』
「聞いてないね」
『……では、字しか持っておらぬな』
---
日が落ちる前に、階段の口から灯りがひとつ上がってきた。
ウーゴだった。道具の袋も丸太も持っていない。手だけが白い粉で汚れている。
「コシカケ、ナオシタ」
「ありがとう。がたついてたんだよね」
「イシ、ドケタ」
大きいのは階段の口のほうを指した。
「カベ、シタ」
「壁の下?」
「ヒクイ、トコロ」
ウーゴは膝を折って、地面に近いところへ手をやった。立っている者の膝より下だった。灯りを掛ける高さよりずっと低い。
エルクは灯りを持ち直した。
「なんかあったの」
「ヌッテアル」
「上と同じやつ?」
大きいのは首を振らなかった。うなずきもしなかった。
しばらく手を下げたままでいてから、低いところをもう一度指した。
「モウヒトツ、アル」




