第169話 知らないと決めた名
雪は夜のうちにやんでいた。
広場の板は掛かったままだった。留め金がひとつ増えたぶん傾いていない。縦線は四本ある。
当番の欄はいつもの数で埋まっていた。休みの欄のいちばん上に鱗の字がある。半年、同じ場所に同じ字が入っている。
いちばん右の欄には短い言葉だけが並んでいた。ぬる。まいばん。かわりなし。その下の空きに名前が二つ書いてある。ひとつはドレクの字だった。もうひとつはソウが紙の端から移した字で、日も決まらないうちに置いていけと言った男の名だった。
エルクは板の前で息を吐いた。白いのが上へ流れて消えた。
黒銀が雪を踏んで横に来た。
『上は変わらぬ』
「みんな寝れた?」
『寝た。夜に立った二人はまだ寝ておる』
エルクは背の毛のところへ手を置いた。指のあいだで雪の粒が溶けた。
「……知らないでおくって、けっこう難しいね」
『難しいか』
「知らないほうがいいって分かっててもさ。聞きたくなるもん。昨日から三回くらい聞きそうになったよ」
『三回で済んだのならば上出来よ』
ウルは首を回して板のほうを見た。
『知らぬままにしておくのも一つの仕事よ。主は仕事が下手ゆえ、向いておるとも言えぬがな』
「ひどいなあ」
『褒めておる』
頭の上で羽音がした。
降りてきたのは若いほうだった。翼の先に霜が白く残っている。
『上がった。書いてくれ』
「なんて書くの」
『鳴かなかった、だ』
「何もなかったんだね」
『何もなかった。それを書くのが枠の仕事だ』
グリフは嘴を板の下のほうへ向けた。当番の欄のいちばん下が空の一族の枠になっている。
『王は今日飛ばぬ。飛ばぬと言うてきた』
「飛ばない日も書くの?」
『書く。一羽ぶんしか無い枠だ。……飛ばぬ日を書かねば、いつ飛んだのかが分からなくなる』
ソウが筆を出して短く二行入れた。鳴かなかった、と、飛ばぬ、と読めた。
小屋の裏では雪かきが始まっていた。
ウーゴが板を横に持って雪を寄せている。一度に押す幅が広い。後ろからダクトが桶を運んで、溶かす用の水を分けていた。
「屋根のぶんは午前に落としますぞ。日が回ってからだと緩んで滑りますからな」
「柱は」
「昨日見ましたぞ。冬のあいだは半月に一度で足りますな」
ウーゴが手を止めて庇の下を指した。
「アシ、イッポン、ヒクイ」
「直すの」
「ハル、ニ、ナオス」
「今じゃなくていいんだ」
「イマ、ハ、コオル」
門のところにライオは座っていなかった。小屋の陰で丸くなって耳だけ広場へ向けている。中夜の手前で下がると板に書かせたのはこの獅子だった。
『我は下がっておる』
「うん」
『下がっておるが聞こえる』
「聞こえてたら休んだことにならなくない?」
『座っておるのとはちがう』
たてがみが雪を落とした。
『座っておると、下がる刻を忘れる』
卓の下でスラが丸いまま伸び上がった。
『昼の割り振り書いたッス』
「もう?」
『夜に立った二人は昼まで寝かせるッス。かわりに薪はおいらが割るッス』
「分身出すの」
『出すッス。薪割りは名乗らなくていいッスからね』
庇の上からアラーネの糸が一本下りてきた。
「下の糸はほどいてきたわ~」
「朝にほどくんだよね」
「ほどいたわ~。今夜は張る場所を一段下げるのよ~。雪が乗ると、上の糸だけ先に鳴るわ~」
「私が数えたのよ!」
ラネが束を抱えて下りてきた。
「ぜんぶ足りてたわよ!」
「合ってたわね~」
「合ってたら、合ってたって書くのよ!」
子らは小屋の前に並んでいた。前に立ったノノが指を三本立てている。
「となりの子の手をにぎる」
子らが繰り返した。
「つかれたっていっていい」
繰り返した。
「となりの子がだまってたら、みにいく」
三つ揃ったところでノノは指をもう一本立てた。
「よっつめ、きまったよ」
「決まったんだ」
「へんじがなくても、たたきつづける」
子らの声は揃わなかった。長いからだった。ノノはもう一度言った。二度目で揃った。
柱のところでエネが紙に印を入れていた。
「数えてるの」
「数えてます。何人言えたか書いておかないと、あたしの気のせいになるので」
エネはそれ以上口を出さなかった。四つ目を決めたのがノノだということも、誰にも言わなかった。
当番小屋の前ではミナが板きれを膝に載せていた。
聞き手は二人になっている。ドレクと、その隣に秋の終わりに移ってきた女が座っていた。
「壁の向こうに毎晩立ってる人がいるの」
「人なのか」
「人じゃないよ。でも立ってるの」
「名前は」
「名前は言わないよ」
女が首をかしげた。ミナは板きれを持ち替えた。
「知らないんじゃないの」
「どっちなんだよ」
「決めたほうだよ」
ドレクは膝の雪を払ってから黙った。
「名前がない人の話は、名前がないままするの」
女はしばらく考えてからうなずいた。分かったという顔ではなかった。ミナはそれで先へ進んだ。
卓のところではメルが束を繰っていた。ソウが横で写しに数を入れている。
「二回目の日は」
「雪の間の空いた日にします。まだ決めません」
「決めないの」
「決めると、その日に合わせて無理をする人が出ますから」
ケインが桶を置いて口を挟んだ。
「おれ先に名前置いといたっすよ」
「置いてあるわ。右の欄のいちばん下」
「待つの長いっすね」
「長いのよ」
ライが階段の口から上がってきたのは日の高いうちだった。紙の束を胸で押さえている。
『打ちました』
「あの短いの?」
『あの短いのです。昨夜のうちに七度です』
「七回」
『七度とも同じでした。今朝もう一度打っています』
卓の上へ紙が並んだ。クラウは端から順に目で追っていった。
「幅は取ってあるな」
『取ってあります。空けてある欄が二つです』
「埋まっておらん」
『埋まっていません。……ですが、前の並びと違うところが一つあります』
ライは二枚を重ねて日のほうへ持ち上げた。
『毎晩の長いものの前に、これと同じものが付いていた晩があります。前に一度だけです』
「読めるのか」
『読みます。私の読みです。書くなら私が読んだと書いてください』
「書く」
筆はまだ動かなかった。
『もうひとり いた』
誰も言い返さなかった。
ケインが桶の縁を握ったまま止まっていた。メルは束を膝へ下ろした。
「もうひとり」
『もうひとり、です。それ以上は読めません』
「いつのことか分かる?」
『分かりません』
「どうして来なくなったかは」
『分かりません』
ライは紙を胸の前でそろえた。
『分からないことは分からないまま書きます。……去年からずっと、それをやっています』
岩のところで長が身じろぎした。
「では、あれは待たされたのだな」
「待ってたね」
「来ぬ者を待った。……それも当番のうちだ。板には書けぬがな」
クラウが写し帳を開いたのは卓が片づいてからだった。
頁の上に縦線が二本引いてある。消した者と、隠している者。片方は埋まっていて、片方には名前ではないものが入っている。
筆が右の余白へ下りた。三本目が引かれた。
「見出しは」
「来なくなった者だ」
「その人のこと何も知らないよ」
「知らん。だから欄だけ引く」
「中身なくても引くんだ」
「引く。中身が来た時に置き場が無いと、近いところへ押し込む。押し込んだやつは並べ直した覚えがない」
クラウは頁の端を親指で押さえた。
「また増えた。……俺は欄を増やす係だな」
「増やすの嫌?」
「嫌ではない。減らせんのが厄介なだけだ」
入口の外の地面はそこだけ黒い。
板は外からも読める向きに立ててある。ドラゴが首をもたげて字のほうを見ていた。
『二つある』
「うん。二つ書いてあるよ」
『何もせぬ日と、拍を打つ日だ』
「そうだよ」
『同じ欄に並んでおる』
「並んでるね」
尾が一度だけ雪を払った。
『……何もせぬ日にも、することがあるのだな』
「あったね」
『次はいつだ』
「冬にもう一回だよ。日はまだ決めないんだって」
『では待つ』
竜は首を下ろした。まわりの雪はやはり寄りつかなかった。
エルクが階段の口へ行ったのは日が傾いてからだった。
当番は二人立っていた。名を言って下り、名を言って戻る。
黒銀が先に段へ足をかけた。
『我も下りる』
「上いいの?」
『交代した。……一人で下りる者は無しと書いてある』
壁の黒は昨日と同じ濃さだった。灯りの手前でぴたりと止まっている。柱の札はそのまま掛かっていた。
腰かけは片づけていない。奥へ寄せたひとつだけが壁にいちばん近い。エルクはそこへ座った。
しばらく何も言わなかった。
「ねえ。君の名前ってあるの?」
返ってこなかった。
拍もなかった。据え置きの器の針も動かない。
「そっか」
エルクは膝を抱えた。
「……じゃあ、いつかほしくなったら言ってよ。こっちから勝手につけるのは、なんかちがう気がするんだよね」
壁は静かだった。
それからもう少し座っていた。
この壁の前で黙っていると、たいていは後ろから来た。急がない声だった。落ち着いていて、笑いも怒りもしなかった。名を言おうとした夜のあとも、まだ何か言うものだと思っていた。
来なかった。
灯りの芯が一度鳴った。それだけだった。
エルクは首を後ろへ回してから戻した。
「……なんにも言わないんだ、今日は」
『来ぬな』
「うん」
『よいことか』
「わかんない」
エルクは灯りをひとつ拾って階段のほうへ歩き出した。上では二人が待っている。
名はまだ知らない。知らないままにすると決めた。決めたと書いた頁はもう乾いている。
壁の向こうには今夜も誰かが立っていて、その誰かはもう一人ではない。冬に出せるのはあと一回で、足りないことは全員が知っていた。
ただ、その者にもかつて交代の相手がいた。相手は途中から来なくなった。来なくなった者のことを、この国はまだ何ひとつ知らない。
そして急がぬと言い続けていた声が、その日から何も言わなくなった。




