第168話 四つ目の欄
板は下りたままだった。
いつもは日の落ちる前に掛け直す。昨日は掛けずに丸太の上へ寝かせたまま夜を越した。薄く霜が降りて、朝のうちに拭いた跡が縦に残っている。
ソウは板の前にしゃがんでいた。
「まだ持ってるの」
「昨日から持ってるわ」
筆の先はとうに乾いていた。
エルクは横に立って板を見下ろした。ウルは少し離れたところで伏せている。広場を横切る者はみな板の脇をよけて通っていった。
水を運ぶ途中のケインが足を止めた。
「うちの当番表っすよね、それ」
「そうよ」
「じゃあ、うちの者を書く板っす」
悪気はなかった。桶を持ち直しながら言っただけだった。
ソウはすぐに返さなかった。
「……去年の私の言い方だわ、それ」
「え」
「うちの者じゃないから書かない。それで半月ぶん余分に回ってた子がいたでしょう」
伏せていた黒銀が耳だけ動かした。顔は上げなかった。
ケインは桶を下ろした。
「……おれが言うと重いっすね」
「重いのよ」
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クラウが写し帳を抱えて来た。
エルクは板に引かれた三本の線を上からなぞった。
「名前がない人の欄って、書けるの?」
「書ける」
即答だった。
「名前の欄じゃない。持ち場の欄だからだ」
「持ち場は分かるもんね」
「分かる。毎晩塗っておる。休みは無い。それだけ分かれば書ける」
クラウは膝を折って板の右端に指を当てた。
「ここへ引け」
筆が動いたのは三行だった。
「うちの者でない者の持ち場も、同じ板に書く。知りたくないことは、知りたくないと言ってよい。書かないと決めたことは、書かないと決めたと書く」
読み上げてから帳を閉じた。
「三行だ。増やさん」
「増やさないんだ」
「四行目が要るようになった時は、たいてい三行目が守れておらん時だ。足すより先に、守れておらんと言え」
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輪の外の岩から声が来た。雪をどけた上に長が座っている。
「ひとつ聞く」
レオルは板のほうを見ていた。
「では、我らが先に絶えたらどうする」
誰も口を挟まなかった。
「交代の約束をした側が消えれば、あれはまた一人で立つ。……そのときあれは、また三百年待つのか」
クラウの手が止まった。すぐには答えなかった。
先に口を開いたのはミナだった。
「だから、話す人を増やすんだよ」
「増やせば絶えぬのか」
「絶えないとは言えないよ。でも一人が忘れても、まだ誰か覚えてるでしょ」
長は鼻から息を抜いた。
「……足りるか」
「足りん」
クラウだった。
「足りんが、今日はそこまでだ。足りんと書いておく」
レオルはそれ以上言わなかった。腕を組み直しただけだった。
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ソウが線を引いた。三本の右へもう一本だけ。板の幅はぎりぎりだった。
「上になんて書くの」
「書けないわ。名前がないもの」
筆が一度止まった。
「……持ち場だけ書く」
ぬる、と三文字入った。その下に、まいばん、と続いた。子らでも読める字だった。かわりなし、まではソウの手が書いて、そこから先の行が空いた。空いた行に入るのは冬に二回ぶんの名前だった。
読み上げは短く済ませることにした。持ち場は秋のうちにひと通り書いてある。今日決めるのは下へ入る者だけだった。
先に言ったのはウルだった。
『我は下へ入らぬ』
「入らないんだ」
『皆が下におる夜は上が空く。空いたところに立つ者が要る』
「じゃあ上ね」
『二回目は回らぬ。書いてある通りにする』
門の内側からは低い念話だけが届いた。
『我の刻を書き直したか』
「まだだよ」
『書け。中夜の手前で下がると言った』
ソウは古いほうの刻に線を引いて、その下へ新しい刻を書いた。上から塗り潰しはしなかった。消したものが読めるように消すのは、去年から続いている書き方だった。
頭の上で翼が鳴った。
『一羽ぶんの枠はどこだ』
「当番の欄のいちばん下」
『俺の名を入れておけ。最初の一枠だ』
空の一族の枠に入った最初の名は、この国の従魔の名になった。
柱の陰から糸が一本下りてきた。
「下の糸は私たちが張るわ~。夕方に張って、朝にほどくのよ~」
「張りっぱなしにしないの」
「しないわ~。夜通し張っておくと朝には結び目が伸びるのよ~。伸びた糸で数えたら、こっちが間違えるわ~」
「私も入るわよ!」
ラネが板の下から顔を出した。
「姉さん一人だと結び目が足りないの。……ちゃんと二人ぶん書いて」
丸太を一本抱えた大きいのが庇の下まで来た。
「イタ、モウイチマイ」
「なにに使うの」
「シタニ、カケル」
紙の束を抱えたダクトが卓へのぼった。
「写しが一枚増えますな。板と会議と記録の間の入口、あとひとつは下ですぞ」
「読めるのかな。あの人に」
「読めるかどうかは分かりませんな」
ダクトは束を揃え直した。
「ですが見えぬところに掛けるよりは、見えるところに掛けたほうがようございましょう」
卓の脚のところで丸いのが跳ねた。
『おいらは夜行かないッス』
「入りたそうな顔してるけど」
『昼が空くッスからね。夜に立った人を昼に寝かせる係ッスから、おいらまで夜起きてたら回らないッス』
ライが横から足した。
『昼の休みの日は消さないでください。減らしたぶんは戻さない決まりです』
『器はダクトが据えたままにしてくれています。私が下にいない刻も、数だけは残ります』
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いちばん下の広い空きの前でソウの筆が止まった。
「ここはどうするの」
エルクは入口の外へ目をやった。竜は丸くなったまま動かない。まわりの地面だけが黒いままだった。
「何もしない日の欄でしょ」
「その何もしない日に、一晩ぶん何かした日があるのよ」
ソウは空きの中ほどへ短く書いた。拍を打つ、と読めた。
板を起こすと入口の外からも見える向きになる。竜が首だけもたげた。
『……我の欄に、字があるのだが』
「入ったね」
『我は何もしておらぬ日の欄だと聞いた』
「そうだよ。何もしない日の欄に、何もしない役が書いてあるの」
返事はなかった。
尾が地面を打った。それきり動かなかった。
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筆を取ったのは卓の脇に立っていた男だった。誰も頼んでいない。
「二回目のぶんだろ、これ」
「そうよ」
ドレクは四つ目の欄の空いた行へ自分の名を書いた。書いてから頭を掻いた。
「おれ、こっちの枠のほうが書きやすいんだよ」
「なんで」
「よそ者の枠だからだよ。おれもよそから来た口だ」
ソウは紙の端を開いて、そこに控えてあった名を板へ移した。日も決まらないうちに置いていけと言った男の名だった。
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庇の下でミナが板きれを膝に載せていた。
「決めたよ」
「話すこと?」
「話さないことを、話すって決めたの」
板きれの角を握り直した。
「言わないって決めた話がある、ってところまでは話す。それより先は言わない。……黙ってると、聞いた人が自分で埋めちゃうもん」
「埋める?」
「ないところに、あったことにしちゃうの。ミナもやったことあるよ」
クラウが写し帳から顔を上げた。
「それでいい。言わんと決めた線を、自分で引けたということだ」
物置の裏から小さいのが走ってきた。首の護符が跳ねている。
「ミナ! あのね、ふえるの?」
「なにが」
「じゅぎょうの」
ノノは指を三本立てた。三つの文句はもう子らが覚えている。
「よっつめ、いれたいの」
「なんて?」
「まだきまってない」
指が下りた。
「たたいても、へんじがないの。……そういうときのが、まだないの」
大人のほうが先に黙った。
エルクはしゃがんで目の高さを合わせた。
「今日は決めなくていいよ」
「きめなくていいの?」
「決まってないことは、決まってないままでいいと思う」
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人が引けてからもクラウは切り株の前に残っていた。
頁を戻すと、去年から空いたままの一行があった。名前を書く場所だった。
筆が下りた。書かれたのは名前ではない。
書かないと決めた、とだけあった。
エルクが横から覗きこんだ。
「名前は書かないんだ」
「知らんからな」
クラウは頁を乾かした。
「だが知らんまま空けておくと、いつか誰かが埋める。埋めたやつは悪気なく埋める。だから、空けてあるんじゃないと書く」
「消したことを、消さない。あれの続きだね」
「そうだ。……知らんと決めたことも、決めたと書く」
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板を掛け直したのは日の落ちるすこし前だった。
線が一本増えたぶん重さが変わって、留め金がひとつでは傾いた。ウーゴがもうひとつ打ち足して水平にした。
欄は四つになった。当番と、休みと、従魔の持ち場と、うちの者でない者の持ち場。
増えたのは中身ではない。欄のほうだった。
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エルクが階段の口へ行ったのは日が落ちてからだった。
当番は二人立っていた。名を言って下り、名を言って戻る。それだけの決まりが身についてもう半年以上になる。
「エルク。下りるよ」
「ケインっす。聞いたっす」
「ミナだよ。聞いたよ」
四枚目の写しを抱えていたのはウーゴだった。板きれは小屋の板より薄く削ってある。ノノはエネの手を握って三段目まで下りた。それより下へは行かせないと決めてある。
壁の黒は朝より濃い。灯りの手前でぴたりと止まっている。
ウーゴは壁のいちばん近くの柱へ札を掛けた。掛けてから一歩下がって傾きを直した。
「ヨメルカ」
「読めるかは分かんないね」
エルクは掛かった札を見上げた。
「でも掛かってるのは見えると思うよ」
拍が来たのはその時だった。
短かった。
据え置きの器の針が一度だけ跳ねて、すぐ止まった。
『……あれです』
「分類にないやつ?」
『それです。長さも間も同じです。……今度は、札を掛けたあとに来ました』
「たまたまかな」
『たまたまかもしれません。書いておきます』
階段のほうから声が下りてきた。
「いまの、へんじだよ」
ノノだった。縄を握ったまま身を乗り出している。
「たたいたら、かえってくるやつ。ノノ、しってる」
「なんて言ってるか分かる?」
「わかんない」
首が横に振られた。それからノノは壁のほうへ耳を向けた。
「でも、みじかいのはね。……いちばん、いいたいときのだよ」




