第167話 起きた者
朝の光は階段の口から三段目までしか届かない。
ライは器を壁の三つの高さへ順に当てていた。紙はもう四枚目に入っている。
『濃いです』
「戻ったんだ」
『戻りました。……戻りすぎています』
「戻りすぎ?」
『去年の秋に測った数より上です。この数は私の紙にありません』
黒いところの縁は灯りの手前まで押し返されていた。昨夜いちばん先に薄くなった口のあたりが、今はいちばん濃い。
エルクは腰かけの上から動いていない。
「よかったね。ちょっと元気になったね」
『……元気という言い方でよいと思います』
---
通路では片づけが始まっていた。
ダクトが毛皮を背の板へ積んでいる。
「湿ったぶんは上で干しますぞ。石に置いたままだと明日には凍りますからな」
「灯りは」
「油だけ抜いておきますな。器は据えたままにしますぞ」
腰かけの列の端でウーゴが止まっていた。手を掛けたまま数え直している。
「運ばないの」
「オク」
「置いとくんだ」
「マタ、ツカウ」
ウーゴは壁にいちばん近い一つだけを少し奥へ寄せた。夜のあいだエルクが座っていたぶんだった。
「それも置いとくの」
「ソレモ、オク」
---
ライは紙をそろえてから、いちばん下の一枚を引き抜いた。
『あの短いのは、あれきり打っていません』
「今朝も?」
『今朝もです。私の分けた四つに、入る場所がありません』
「欄だけ作っといたら」
『引きました。中身がありません』
エルクは壁を見上げた。黒は静かだった。塗る音は聞こえない。塗る音というものを、この国の誰も聞いたことがない。
しばらくしてから膝の上で指を組んだ。
「……でもこれ、ずっとやるんだよね」
『やります』
「あの人が」
『あの人がです』
---
天井の際で糸が緩められていた。
アラーネが結び目を端から外している。下でラネが束を巻き取る役だった。
「ぜんぶ外すんだ」
「外すわ~。張ったままにすると持ち主の来ない糸になるのよ~」
「また張るのに」
「張り直すほうが早いのよ~。緩んだ糸は鳴り方が嘘になるわ~」
ラネは束を胸の前で押さえていた。
「順番まちがえないでよ!」
「合わせてあるわ~」
「合ってても言うのよ!」
階段の下で丸いのが伸び上がった。
『上の小さいの、寝てるッス』
「ノノ?」
『小屋の柱にもたれて寝てるッス。糸まだ握ってるッス』
「起こさないであげてね」
『起こさないッス。……ずっと起きてる係やってた子を起こす度胸はないッス』
---
庇の下に卓が出た。空はやたらに高い。
ライの紙が三枚まわって、最後にクラウの前で止まった。
「延び方は変わっておらんのか」
『変わっていません。毎晩ひと刻ぶんずつです』
「昨夜のぶんでどこまで戻った」
『測りはじめたころの数まで届いています』
「そこから毎晩ひと刻ずつ延びるのだな」
『延びます』
クラウは紙の端に数を二つ書いて線でつないだ。
「ふた月だ」
「ふた月?」
「ふた月経てば昨夜の前へ戻る。それより早いか遅いかは分からん」
メルは膝の上の束をもう繰り終えていた。
「数えました」
「言える?」
「言えます。冬のあいだに二回。無理をして三回です」
「三回は無理なんだ」
「三回目は昼を削ります。雪の日は薪と水だけで半日消えますから」
ソウは板を立てかけたまま腕を組んでいた。
「無理はしないわ。三回目で地上が空いたら、意味がないもの」
---
卓の外側で声が上がった。秋の終わりに移ってきた男だった。
「二回でどうにかなるのか」
「ならないよ」
答えたのはエルクだった。
「二回じゃ足りないよ。ふた月ずつでしょ。冬は長いもんね」
「足りねえならやる意味あるのか。十二人を一晩潰してだぞ」
誰も答えなかった。
答えたのは卓の端に立っていたほうだった。
「足りぬ」
鱗の長は腕を組んだままだった。
「だが零ではない」
「同じだろ」
「同じではない。……零と一の差は、一と二の差より大きい」
男は口を開けてから閉じた。
レオルの尾が雪を一度打った。
「我は三日黙って立った。三日ぶんは誰の数にも入っておらん。零とはそういうものだ」
卓の後ろでケインが手を挙げた。
「二回目、おれ入るっす」
「まだ日も決まってないよ」
「決まってからだと遅いんすよ。先に名前だけ置いとくっす」
ソウは紙の端へ名を書いた。板のほうへは書かなかった。
---
写し帳が開かれたのは卓が片づいてからだった。
「昨夜のは書いたの」
「書いた」
クラウは頁を戻して、指で行を押さえた。
「名は出ていない、と書く」
「出てないことを書くんだ」
「書く。出ていないと書いておかんと、次のときに『あの夜に出たかもしれん』が残る」
「残ると困る?」
「困る。残ったものはそのうち聞いたことにされる」
筆はもう一行だけ足していた。聞いたと言った者の数が並んでいる。何を聞いたかはどこにも無い。
ミナが板を抱えて庇の下へ入ってきた。
「今日の四半刻でつまっちゃった」
「話せなかったのか」
「話せたよ。途中までは話せたの」
板が膝の上へ置かれた。
「昨夜のこと話したの。十二人で名前を言い続けたよって。そしたら聞かれたの。何のために言い続けたのって」
「言えんな」
「言えないよね。……言ったら、名前があるって話になっちゃうもん」
ミナは板の角を握った。
「黙ったらね、知らない人が悪いことになるんだよ。教えてない人が悪いのに」
「今日は決めんでいい」
「決めないと明日も四半刻くるよ」
クラウは筆を置いた。
「明日も同じところで止まれ。止まったと言え。言えるのはそこまでだ」
---
昼を過ぎて空が鳴った。
広場の端に降りたのは大きいほうだった。翼を畳むのに時間をかけてから首を低くする。
「聞いた」
「昨日の夜のこと?」
「鷲が伝えた。……名を通さなんだそうだな」
「通さなかったよ。誰も聞いてないよ」
ゼルガはしばらく黙っていた。
「我らも出す」
「出すって」
「一羽ぶんだ」
老いた鳥は首をもたげた。
「それ以上は出さぬ」
「一羽でいいの?」
「よくはない」
声は低いままだった。
「出せぬ数を並べれば、また我らが背負う。背負えば隠す。……我らは一度それをやった」
「一羽ぶんだね」
「一羽ぶんだ。板に書け。書いたぶんは必ず出す」
ソウが板を横にして、下の空きへ筆を当てた。
「名前は」
「順に出す。まだ決めておらぬ」
庇の上で羽音がした。降りてきたのは若いほうだった。
『俺が入る』
「グリフが入るって」
ゼルガは首を回した。
「お前は主を持つ身だ」
『持っている。空の一族でもある』
グリフは翼を畳んでから嘴を板のほうへ向けた。
『夜明け前の空はもう書いてある。そこへ一枠足せ』
「無理してない?」
『枠が増えるだけだ。鳴かない日を書くのは前からやっておる』
それから若い鷲はいちばん高いところを一度だけ見た。
『……あの一羽のぶんは、俺が鳴く』
エルクはそのまま伝えた。伝えてから、伝えなくてよかったかもしれないと思った。
ゼルガは何も言わなかった。首を下ろして、そのまま長いあいだ動かなかった。
---
日が傾いてから門の内側へ寄った。
獅子は定位置についていた。
『我も、減らす』
「減らすの」
『日暮れから中夜まで。中夜の手前で下がる』
「いいの?」
『よい』
たてがみが一度だけ揺れた。
『雪の日に我は座っておった。背に積もるまで座っておった。……誰も減らせと言わなんだ』
「言えばよかった?」
『言われてからでは遅い。……あの者も、誰にも言われなんだ。三百年だ』
エルクは門の柱に背を預けた。
「僕、あの日ライオに何も言わなかったね」
『言わなんだ。だから我が言う』
獅子は前脚をそろえ直した。
『書け。中夜の手前と書け』
---
入口の外の黒いところが動いた。
竜は昨夜からそこにいる。雪はやはり積もっていない。
『我は昨夜、何かしたのか』
「したよ」
『何もしておらぬ』
「したよ。すごく大事なことしたよ」
エルクは丸くなっている背のところへ寄った。
『尾を動かしただけだ』
「うん」
『あれが仕事か』
「仕事だったよ。あれがないと順番がぐちゃぐちゃになってたもん」
片目が開いた。
『順番は人が数えればよかろう』
「数えてたよ。数えてた人も、あの音に合わせてたよ」
尾の先が雪を一度だけ払った。
『誰も我に頼まなんだ』
「頼んでないね」
『焼いてもおらぬ』
「焼いてないね。焼かなかった夜のことも書くと思うよ」
竜はそれきり黙った。片目は閉じなかった。
---
板を掛け直すのは日の落ちる前と決まっている。
ソウは筆を持ったまま板の前で止まっていた。階段の口から上がってきた黒銀が、数え終わった頭数を伝えてそのまま横に座っている。
『地下から上がった数は合うておる』
「合ってるって」
『昨夜のぶんもだ』
ソウは動かなかった。
「どうしたの」
「書く場所がないわ」
板には縦線が三本引いてある。当番と休みと従魔の持ち場だ。
「一羽ぶんは当番の欄でいいのよ。空の者は代表を出してるもの」
「うん」
「獅子も鷲も三つ目でいいわ」
筆の先は板から離れたままだった。
「あの人はどこなの」
エルクは板を上から下まで見た。
当番ではない。うちの者ではないから休みでもない。従魔でもない。三百年ぶん一人で立ち続けている者の持ち場を書く欄は、この板のどこにも無かった。
「……無いね」
「無いのよ」
ソウは筆を持ち直した。持ち直しただけで、板には何も入らなかった。




