第166話 名前で埋める夜
壁の拍が止まったのは夜が二つ目の刻に入ってすぐだった。
ライは器の針から目を離さなかった。
『止まりました』
「休んでるってことでいいの」
『いいと思います。数も落ちはじめています』
黒いところの縁が灯りの届く手前まで下がっていた。
灯りは通路の奥まで同じ間で置いてある。腰かけは壁沿いに並び、番でない者は毛皮にくるまって石の上で目を閉じていた。四半刻ごとにひとりずつ起きて名を言う側へ回る。
壁の前の腰かけにエルクが座っていた。膝を抱えて何もしていなかった。
この腰かけは十二に数えられていない。ウーゴが余分に一つ置いたぶんだった。
床が短く鳴った。
入口の外で丸くなっている竜の尾が同じ間で地面を打っている音だった。頼んではいない。寝ているとしか聞いていない。
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ケインは灯りの手前まで出て壁のほうを向いた。
「ケインっす」
声は震えなかった。
ミナは結び目のついた紐を持っている。名がひとつ鳴るたびに指を結び目ひとつぶん送る役だった。
「ミナだよ」
そのあとに立った男は名を言ってから鼻の下を手の甲でこすった。
「ドレクだ」
鱗の長は座ったまま名を言った。
「レオル」
エネは刻を読む役のまま番も持っていた。紙を膝から下ろしてから言った。
「エネです」
ケインが下がりぎわに天井を見上げた。
「獣の番ってどうやって分かるんすか」
高いほうの糸が短く鳴った。
「いま獣の番よ!」
端を持ったラネが引いている。
「人は黙っててよね! 順番わかんなくなるでしょ!」
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門の内側から声が下りてきた。エルクの中でだけ鳴る声だった。
『ライオ』
持ち場からは動いていない。先に立とうと言ったのはこの獅子だった。
エルクは口を開けなかった。
前にそう決めてある。従魔の名を主が声に出したら、渡したことになるのは主のほうだ。だから今夜は誰の名も他人が言わない。糸が代わりに順を教える。
階段の口からも来た。
『ウル』
それだけだった。外周をひと回りも、数えた頭数もついていない。二番でよいと言った通りの位置だった。
頭上の段のほうで翼の音がした。灯りが一度だけ横へ流れて、それから元の向きに戻った。
『グリフ』
『名乗った。上へ戻る』
「上どう?」
『変わりない。地上の当番はいつもの数で回っている。あの二人は降りてこん』
「うん」
『王が空を一度横切った。降りてはこん』
エルクは腰かけのほうへ顔を戻した。
「ゼルガが上を通ったってさ。降りてはこないって」
クラウが小さくうなずいた。
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腰かけの脚のところで丸いのが伸び上がった。
『スラッス!』
「今のは名前じゃないでしょ」
『……スラ』
『言い直したッス。ちゃんと一個ッス』
器の脇でライが針から手を離した。
『ライ』
『名乗りました。測りながらで構いませんか』
「いいんじゃない」
『では続けます。いまの一つは、昨日の同じ刻より下です』
天井の際から糸を伝って下りてきたものが壁の高いところで止まった。
「アラーネよ~」
「ラネ!」
灯りをひとつずつ見て回っていた背の高い影が油の壺を抱えたまま足を止めた。
「ダクトですぞ」
それから芯を切って次の灯りへ移った。
腰かけの端に座っていた大きいのが顔だけ上げた。
「ウーゴ」
言ってからまた黙った。板を割る音も今夜はしない。
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低いほうの糸が鳴ったのは刻の変わり目だった。
「上の小さいのよ~」
アラーネは糸の端を指の腹で押さえている。
「刻ごとに叩くって約束したの~。眠らないんですって~」
「寝ればいいのに」
「言ったわ~。当番だからって言い返されたわ~」
エルクは階段の口のほうを見上げた。上は暗い。子らの小屋の柱に結んだ端が、決まった刻に一度だけ震える。
紐の結び目がまた送られた。
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三巡目で間が空きかけた。
毛皮を揺すられた男が目を開けてから、自分の番だと分かるまでに息ふたつぶんかかった。
先に言ったのはメアだった。
「次はあなたです」
「……ドレクだ」
空きは埋まった。メアは膝の上で指を折り直している。
「数えるのはできます」
「読むのは」
「読みません。今夜は読まないって決めました」
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四巡目に声の小さい者がいた。
耳長族の女で、名を言うたびに語尾のほうが消える。ミナは横へ立って、二度目からは同じ間で一緒に言った。
「言わせてるように見えるっすけど」
「言わせてないよ」
ミナは紐を持ち替えた。
「ミナも言ってるもん。ふたりで言うのは言わせるのとちがうよ」
ケインは口を閉じてから壁のほうへ顔を戻した。
「……名乗るのって渡すためっすよね」
「そうだね」
「今夜のは渡してないっすね。誰にも渡してないのに名前だけ言ってるっす」
「そうだよ」
エルクは膝を抱えたままでいた。
「渡さないで名前だけ言う夜って、たぶん初めてだね」
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鱗の長は壁の前に座っていた。
休みの欄にこの男の名がある。走れる者をひとり残しておくための欄だ。だが階段のほうへは顔を向けなかった。尾は床へ伸ばしたままだった。
「走らないの」
「座っておる」
それだけだった。
クラウは腰かけに座っているだけだった。膝の上に何も載っていない。
「書かないんだ」
「今夜は書かん」
「なんで」
「書いたら俺が持つことになる」
筆は上の小屋へ置いてきたという。
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黒が薄れはじめたのは三つ目の刻だった。
肩の線が先に出た。それから顎が出た。いちばん先に薄くなったのは口のあたりだった。
メアは半歩だけ前へ出てから顔を床へ向けた。
「見ないの」
「見たら読んじゃうので」
ライの針が細かく動いた。
『去年の夏より下です。ここまで薄いのは初めてです』
「朝までに戻る?」
『戻ると思います。思いますとしか言えません』
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名が三十いくつ鳴ったころだった。
声は後ろから来た。
「よく来た」
急いでいなかった。誰かの声によく似ていた。誰の声かは分からなかった。
毛皮の中で寝返りの音がした。ミナの指が結び目をひとつ送る。次の番が名を言った。
「……ではもう一つ、本当のことを教えてやろう」
エルクは膝を抱えたままでいた。
隣で耳長族の子が眠っている。四半刻ぶん立って戻ってきてすぐ寝た子だった。息が浅くて速い。
声は続けた。
誰も持っていないものを、この声だけが持っている。三百年ぶん誰の口にも上らなかった一つを、今ここで言おうとしていた。
エルクは口を開けた。
開けてそのまま閉じた。
「……うるさくしたら起きちゃうでしょ」
眠っている子のほうへ言った。
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名が鳴った。
「ケインっす」
番ではなかった。番でない者が言った。
「ミナだよ」
「ドレクだ」
「エネです」
『ウル』
「ウーゴ」
「アラーネよ~」
「ラネ!」
間が空かなかった。
名は短い。短いものが続けて鳴ると、あいだに何も入らない。声が言いかけたものはそのたびに次の名の下へ潜った。
床が鳴った。同じ間だった。
入口の外の竜が起きていたのかどうかは分からない。尾だけが同じ間で地面を打ち続けている。名を言う者はその音に口を合わせた。
炎は一度も出なかった。出す場面がなかったのではない。出さない夜として組んである。
エルクも言った。番はもらっていない。
「エルク」
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「……ずいぶん埋めるな」
誰も答えなかった。答えればそこが空く。
ミナが紐を握り直した。
「聞こえても、繰り返さない。聞いたら、聞いたと言う」
決まりの言い方をそのまま声にしただけだった。
声はそれきり何も足さなかった。名は鳴り続けている。
低いほうの糸が鳴った。刻が変わったという合図だった。上の小さいのはまだ起きている。
ドレクが毛皮の下から片手を出した。
「これ意味あんのか」
「分かんない」
「分かんねえのかよ」
「でも今、あいつ喋れてないよ」
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夜明けの前に声が引いた。
「……一晩はな」
怒ってはいなかった。慌ててもいなかった。負けたとも言わなかった。
それきり来なかった。
しばらくしてケインが壁から下がった。
「聞きました」
「おれも聞いたぞ」
「……あたしも聞きました」
順に言った。決まりの後ろ半分のほうだった。何を聞いたかは誰も言わなかった。
名を聞いた者はいなかった。あの声が言いかけたものが何だったのかは誰にも分からない。
クラウは膝の上で手を組んだままだった。
「書かんぞ」
「うん」
「書くことがない。今夜はそれでいい」
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灯りが弱くなったころライが針を見た。
『上がりました』
「塗ってるの」
『塗っています。縁から戻っています』
黒が広がり直していく。顎の線が沈んで口のあたりが最後に見えなくなった。
眠っていた者が起きはじめた。毛皮が畳まれて腰かけが端へ寄せられる。ウーゴは十二の腰かけを数え直していた。
ダクトは灯りの油を継ぎ足して回っている。
「朝までは要りますからな」
「もう朝だよ」
「明るくなるまでが夜ですぞ」
階段のほうから足音が下りてきた。上の当番が刻を告げに来たのだった。
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そのあとだった。
壁の内側で拍がひとつ鳴った。
短かった。今までのどれよりも短い。
ライは紙を三枚めくってから手を止めた。
『……これは、まだ分類にありません』
「新しいの?」
『新しいです。長さも間も今夜のどれとも合いません』
エルクは膝を抱えたまま壁を見た。
「もう一回打ってくれないかな」
壁は静かだった。ドラゴの尾の音だけが同じ間で床を鳴らしていた。




