第165話 一晩だけ寝かせる
塗りが戻ったのは夜明けの前だった。
ライは器を庇の下まで運んで紙を三枚並べた。一昨日の数と昨日の数と今朝の数だ。
『戻りました』
「よかったじゃん」
『遅れています』
紙の右端が指の先でなぞられた。
『一昨日は日が変わる前に戻っていました。今朝は空が白んでからです』
クラウは三枚を順に見てから、いちばん端の数に印をつけた。
「間が延びておるのか」
『延びています。縮んだ晩はありません』
「どこまで延びる」
『分かりません。ただ延び方はそろっています。毎晩ひと刻ぶんずつ遅くなっています』
クラウは筆を置いた。置いてからしばらく紙を見ていた。
「次の薄い夜は勝手に来るな」
「勝手にってなに」
「こちらが選ばん日に来るということだ」
エルクは椀を両手で挟んだまま庇の外を見た。雪はもう積もっていない。
「選べるの」
「選べるほうがましだ。選んだ夜なら人を置ける」
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卓は昨日と同じ場所に出されていた。ソウが座面の雪を払ってから、板を立てかける位置だけ変えた。
メルは膝の上で束を広げた。
「数え終わりました」
「言えるの」
「言えます。出せるのは一晩です」
「一晩」
「四半刻ずつで十二人です。それ以上出すと地上の当番が空きます」
鱗の長は座らずに卓の端へ立っていた。腕を組んだまま尾の先だけを動かしている。
「十二は多い。半分にせよ」
「半分だと間が空きます」
メルは頁から指を離さなかった。
「間が空いた夜に何が起きるかは去年見ました。あの夜も欄は埋まっていました」
レオルはしばらく黙っていた。
「……一晩だな」
「一晩です。二晩目は組めません。組むと昼が回りません」
ソウが指で人を数えはじめた。数え終わってから筆の尻で卓を叩く。
「地上は薄くしないで組むわ。薄くしたら去年と同じことになるもの」
「うん」
「並べ方も私が決めるわ」
「順番って大事なの」
「大事よ。仲のいい者を続けて並べると喋りだすもの。喋ってる時間は数えられないわ」
ソウは板のほうへ顎を向けた。
「子らは入れないわ。四半刻は小さい子には長いのよ」
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エルクが顔を上げたのは、十二という数がもう一度読み上げられたあとだった。
「じゃあさ。十二人ぶん僕がやるよ」
卓が静かになった。
「四半刻を十二回でしょ。それなら地上の当番も減らなくない?」
雪を踏む音が卓の後ろで止まった。
『三度目だ』
「言ってくれるって言ったもんね」
『言う』
黒銀は腰を落としたまま動かなかった。
『一人で十二回立つのを、我らは去年なんと呼んだ』
エルクは口を開けて、そのまま閉じた。
「……黙って足したやつだ」
『あれの当番に代わりがおらぬのが今の話だ。主が同じものをもう一つ作ってどうする』
卓の者は待っていた。エルクは息を吐いてから顔を戻した。
「ウルがだめだって」
「なんて」
「一人で十二回立つのは交代じゃないって。同じ当番がもう一個増えるだけだって」
クラウはすでに筆を持ち直していた。
「板にも書けん」
「なんで」
「一人しか書けん欄は去年潰した。お前の名で同じ欄を作り直す気か」
レオルの尾がひとつ雪を打った。
「……その並びは我が知っておる」
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エルクは椀をしばらく回していた。それから思いついた顔で身を起こした。
「じゃあ、こういうのは」
「言うてみよ」
「僕が名前を聞くんだよ。あの声から」
誰も止めなかったので、エルクは続けた。
「聞いて、僕だけが覚えとくの。誰にも言わないよ。書かないし、寝言でも言わないようにするし」
最初に口を開いたのはミナだった。板を胸に抱えたままだった。
「だめだよ」
「なんで」
「エルクが一人で持つのは、去年やめたやつでしょ」
レオルが卓の端から見下ろした。
「去年、ぜんぶ知ると申したのはお前だ」
「うん。言った」
「忘れたか」
「忘れてないよ」
エルクは手袋の指を一本ずつ引いてから、また嵌め直した。
「誰と立ってたかは知ったよ。あれは知ってよかったと思ってる。……もう半分は、知らないでおくほうを選ぶ」
「変えたのか」
「変えたっていうか」
エルクは頭の後ろを掻いた。
「知るのと、聞くのって、ちがうんだね。あいつから聞くのは知るじゃないよ。もらうんだよ」
ミナは息を吸ってから顔を上げた。
「もらったら返せないよ」
「返せないね」
クラウの筆が動いた。行はひとつだった。
「今のを書く」
「僕のは書かなくていいよ」
「書く。案が二つ出て二つとも潰れた、と書く。……潰し方まで書いておかんと、来年また同じ案が出る」
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決まりを作ると言い出したのもクラウだった。
「また三行?」
「二行だ」
筆が止まったのは短いあいだだけだった。
「聞こえても、繰り返さない。聞いたら、聞いたと言う」
「短いね」
「長いと夜に思い出せん」
「繰り返しちゃだめなのはなんで」
クラウは紙の縁を指で押さえた。
「一人が聞いたのは聞き間違いで済む。二人目が繰り返したら、それは記録になる」
「記録になると困るんだ」
「困る。あれが欲しいのは、たぶんそこだ」
小さい足音が雪を踏んで卓の脇まで来た。護符が揺れている。
「ノノたちのもきめた」
「決めたんだ」
「きこえても、いわない」
ノノは指を二本立てた。
「いったらだめ、じゃなくてね。いわなくていいの」
エネが紙へ写して、書いた行を灯りのほうではなく卓のほうへ向けた。
「言い方はこのままにしときます。……あたしが直すと、あたしの言い方になるので」
ミナは立ち上がって、板を腕の内側へ回した。
「今日の四半刻、十二人ぜんぶに話すね」
「一回で足りるの」
「四回に分けるよ。先に聞いてないと、夜に思い出せないもん」
ケインは椀を置いてから掌を擦り合わせた。
「おれ、去年やらかしてるんで」
「まだ言ってる」
「言いますよ。……最初に立つっす」
それから壁のほうを一度見た。
「名乗るのって、渡すためっすよね」
「渡すためだね」
「十二人が順番に名乗り続けたら、夜のあいだじゅう誰かの名前が鳴ってるってことになりませんか」
クラウの筆が止まった。止まってから、また動いた。
「……それも書く」
卓の外側で雪掻きの柄が立てられた。
「おれも入るぞ」
ドレクは名を書きに板のほうへ歩いていった。
「夜に入るって言ったのはおれだからな」
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支度は昼から始まった。
通路ではウーゴが板を割っていた。腰かけの脚が壁沿いに並べてある。
「スワル、トコロ、ジュウニ」
「十二個いるんだ」
「ト、ヒトツ」
「一個多いよ」
ウーゴは通路の奥の暗いところを指した。
「カベノマエ、ヒトツ」
ダクトは背の板に毛皮を積んで上と下を往復していた。
「敷くぶんを先に降ろしますぞ。石は下から冷えますからな」
「水は」
「一人にひとつずつですな。回し飲みは順番が狂いますぞ」
天井の際でアラーネが糸束を肩へ掛け直していた。
「今日は張らないわ~」
「張らないんだ」
「前の日に張ると当日には緩んでるのよ~。張るのは日が落ちる前でいいわ~」
その下でラネが糸の端を数えていた。
「十二本も結ぶわけ!?」
「結べる?」
「結ぶけど! 順番まちがえたら知らないからね!」
ライは腰かけのひとつに器を据えて、紙を膝に載せていた。
『備えの話をします』
「して」
『結界は張りません。あの声に効いた例がありませんので』
「張ってもいいけどね」
『張ると、張ったぶんだけ誰かが安心します』
ライは器の針を灯りへ寄せた。
『代わりに測ります。四半刻ごとに薄さを書きます。……書いておけば、次に誰かが同じ夜を組むとき、数から始められます』
階段の口ではウルが座って外を見ていた。
『我は入口におる。降りた数と上がった数を数える』
「合わなかったら」
『我が呼びに行く。鳴きはせぬ』
鳴くほうは空から降りてきた。グリフは板の前で足を止めてから翼を畳んだ。
『上と下をつなぐ。鳴いたら降りてこい』
「鳴かなかったら」
『何も無かったということだ。……それも書く』
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板に竜の欄が引かれたのは日暮れ前だった。ソウは筆を持ち替えてから書いた。
「入口の外で寝るのよ」
エルクは広場の隅へ伝えに行った。
竜は片目だけを開けた。
『寝るのが役目か』
「そうだって」
『……それは何もせぬのと同じではないか』
「同じかなあ」
『同じであろう』
エルクは丸くなっている背のところへ手を置いた。
「入口の前に竜が寝てる夜と、寝てない夜って、たぶん違うよ」
『どう違う』
「分かんない」
『分からぬのか』
「分かんないけど、違うと思う」
片目はしばらく開いたままだった。それから閉じた。
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日取りは三日後になった。月が細くなって夜がいちばん長くなる晩だ。
その夜は雪がやんでいた。
灯りが階段の口から通路の奥まで等間隔に据えられた。腰かけが十二並んで、いちばん奥の暗いところにもうひとつ置いてある。糸は日の落ちる前に張り直された。
入口の板に名が書かれていく。ケインが先頭だった。ミナとドレクが続いて、そのあとに鱗の長の大きい字が入った。
ウルは階段の口で数えはじめた。ドラゴは入口の外で丸くなって、通る者を一度も見なかった。
最後に降りたエルクは、いちばん奥の腰かけの前で立ち止まってから座った。
壁の中で拍が鳴った。
ライの筆が数を落とす。
『……ゆっくりになっています』
「止まるのかな」
『分かりません』
器の針が触れたまま揺れた。
『今夜は、止まってもらわないと困ります』
誰も塗らない夜が、これから始まろうとしていた。




