第164話 まだ誰も来ない
夜の三つ目の刻を過ぎても誰も上へ戻らなかった。
台には紙が六枚並んでいる。今夜の返しを写したものだ。ライは器の脇で七枚目を仕上げていた。エネは柱のところで刻を読む役のまま動かない。ケインは壁の前から離れていなかった。手はもう置いていない。
エルクは台の脇で紙の並びを眺めていた。
『六度あります』
「六回言ったってこと?」
『六度打ちました。並びは六度とも同じです』
ライは一枚目と六枚目を灯りの下で重ねた。点の位置がずれなかった。
『長さは四つに分けました。いちばん長いものは今夜が初めてです』
クラウは筆の尻で紙の縁を押さえていた。
「四つのうち二つは打っておらんな」
『打っていません。幅だけあります』
「幅か」
『間の長さがそろっているものは書けると前に書きました。……そろっています』
クラウはそれきり黙った。灯りの芯が一度鳴った。
「欄だ」
「らん?」
「打っていないところは空けてある欄だ。字を入れずに幅だけ取ってある」
エルクは腰かけの上から紙を覗きこんだ。点と点のあいだの何も無いところを、この男は今しがた欄と呼んだ。
「空けてあるのと、何も無いのって違うんだ」
「違う。俺の帳面にも空けた行がある」
「書けなかったとこだよね」
「書けなかったところだ。書かなかったところではない」
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クラウは写し帳を繰って、板と同じ縦線を引いた頁を出した。
「うちの板でいえば、ここが渡した先の名を書くところだ」
「うん」
「ここが受け取った者の名だ」
筆の先が二つの欄をなぞって止まった。
「どちらも打っておらん」
「空いてるんだ」
「空いておる」
ライは紙を一枚ずつ数え直した。
『初めの晩から空いています』
「初めの晩って、僕らが叩く前だよね」
『叩く前です。あの晩のぶんも同じ並びでした』
ライは器を膝の上へ下ろした。
『読みます。……これは私の読みです。書くなら、私が読んだと書いてください』
「書く」
クラウの筆は動かなかった。
『まだ だれも こない』
エルクはそのまま声に出した。
「まだ だれも こない」
誰も何も言わなかった。
エネの指が止まっていた。ケインはエルクのほうを見てから壁へ顔を戻した。口は開いたままだった。ラネは低いほうの糸の端を両手で押さえている。震えているのが手のほうなのか糸のほうなのかは分からなかった。いつもなら触るなと怒鳴る子が、今夜は声を出さなかった。
エルクは膝の上で手を組んだままでいた。何か言おうとして息を吸って、そのまま吐いた。二度そうした。
クラウは写し帳を閉じずに置いた。
「もう一度言え」
『まだ だれも こない』
「……返しではないな」
『返しではありません。今夜が長かっただけです。中身は初めの晩と同じです』
ライは紙の束を胸の前でそろえた。
『私たちが数えはじめる前から、毎晩これを打っています』
「僕らが数えはじめる前から毎晩打ってたって」
ケインが掌を見た。糸の結び目がまだ手首に残っている。
「……じゃあ、おれが名乗ったのは何だったんすか」
「三百年で初めて欄が埋まった夜だ」
「一拍っすよ」
「一拍だ」
クラウは写し帳の角を親指で押さえた。
「埋まらん欄を三百年ぶん並べた者に、一拍ぶんの字が入った」
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階段のほうで爪が石を掻く音がした。
黒銀が下りてきた。灯りの届く手前で足を止めて、それからエルクの横まで来る。
『名は書いてもらった』
「うん」
『外周は回り終えた。ここからは板に無い時間だ』
膝の上に頭が置かれた。重かった。
『……唸らぬ』
「うん」
『今日は言うことがない』
スラは腰かけの脚のところで丸くなっていた。降りてきてから一言も喋っていない。
『……おいら、なんも言えないッス』
「いいよ」
『いつもなら何か言うッスけど』
「今日はいいよ」
丸い体が少しだけ縮んで、それきり動かなくなった。
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エルクが口を開いたのは刻がもう一つ回ってからだった。
「……ずっと、呼んでたんだ」
声は小さかった。
「毎晩だよ。誰か来ないかなって打ってたんだよ。……僕らそれを真似っこだと思ってたんだよね」
クラウは筆を持たなかった。
「去年うちの板でも同じことが起きておった」
「レオルだよね」
「あれもだ。狼もだ。……黙って立った者は、立ったことすら数に入らん」
エルクは膝の上の重みを掌で押さえた。
「あの人は書ける板を持ってなかったんだ」
「持っておらん」
「だから壁に書いてたんだね。三百年ぶん」
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朝の霜は薄かった。
入口ではミナが板を抱えて名を書き入れていた。上がってくる者の名を順に書いて、それから顔を上げた。
「顔がひどいよ」
「寝てないからね」
「なんかあったの」
エルクは階段の口の縁へ座った。ミナは横に板を抱えたまましゃがんだ。
「読めたんだ」
「壁の?」
「うん」
エルクは指で膝を三つ叩いた。
「まだ誰も来ない、って打ってた」
ミナはしばらく板の角を握っていた。
「……それ、ミナも言ったことある」
「そう?」
「前の国から歩いてたときだよ。……ずっとそう思ってた」
角の先が外套の襟に触れて、少しだけ下がった。
「誰か来るよって、誰も言ってくれなかったから。それでも歩くんだけどね。頭の中でずっと言ってた」
「言ってたんだ」
「言ってたよ。……声には出さないよ。出したら止まっちゃうもん」
ミナは板を抱え直して立った。
「あの人、止まらなかったんだね」
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庇の下で写し帳が開かれた。人はまだ集まっていない。
「書くの」
「書く」
筆が動いた。行は一つだった。
「返事があった、と書く」
「それだけ?」
「それだけだ」
クラウは筆を紙から離した。
「三百年ぶんの何とかは書かん。……書けん」
「書けないんだ」
「書けん。俺が今それを書くと、来年の誰かが数えたつもりになる」
書かれた行の下は空けたままにしてあった。ライが読んだと書いた行が、その一つ前に入っている。
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昼前に鱗の長が入口の板の前に立った。
筆を取って名を書く。当番の欄でも休みの欄でもない。地下へ降りる者の行だった。字は相変わらず大きい。
入口の脇の黒いところで竜が首をもたげた。
『……通るのだな』
「通るんだって。どく?」
『どかぬ』
ドラゴは首をもたげたまま動かなかった。レオルはその前を横切って階段へ入っていった。竜はそれを見ていた。見ていただけだった。
記録の間の灯りは二つだけついていた。
レオルは壁の三歩手前で止まって、それから半歩出た。尾を体の横へ回して畳む。
鱗の掌が黒いところへ置かれた。
何も言わなかった。ライは数を測らなかった。測ってくれと誰も言わなかったからだ。
しばらくして手が離れた。
「……我は三日だ」
それだけだった。レオルは階段のほうへ歩いていって、上がる前に一度だけ振り返った。
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叩きの刻に降りてきたのは二人と、後ろについてきた小さいのだった。
叩く役はケインで、数えるのはエネだった。ノノは護符を両手で握って階段の三段目に座っている。いつもの場所だ。
ケインは名を言ってから三つ叩いた。
返ってきたのは四つだった。空き方は昨日と同じだった。
「変わってません」
エネが紙へ点を打った。
「……変わってないっすね」
ケインは掌を見てから下がった。
小さい足音が階段を下りてきた。
「ノノもやる」
「叩く?」
ノノは返事をしなかった。壁の前まで歩いていって、灯りの外で足を止める。それから護符を握り直した。
「ノノだよ」
名を言ってから叩くのだと、この子が先に決めた。
小さい手が壁を打った。一つだった。
「きたよ」
誰も止めなかった。
ノノはもう一度打った。同じ強さで一つだけだった。
「きたよ」
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糸が鳴った。
高いほうと低いほうが同時だった。天井の際からアラーネが下りてきて、指の腹を上の糸へ当てる。
「あらら~」
「なに」
「両方鳴ったわ~。……本物ってことよ~」
壁の中で音がした。
一つ目が来て、二つ目が来なかった。三つ目が来て、そのあとが長く空いた。空いたところへ四つ目が落ちて、それも途中で切れた。
ライの筆が止まった。
『並びが崩れています』
「崩れるって」
『四つのどれも位置に来ていません。……初めてです』
エネは指を折るのをやめて紙を見ていた。ケインは壁のほうへ半歩出て、そこで止まった。
ノノは手を下ろしたまま壁を見上げている。
「おこってる?」
「怒ってないよ」
エルクはノノの横へしゃがんだ。
「たぶん、びっくりしたんだと思う」
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拍は戻らなかった。
刻が一つ回っても崩れたままだった。ライは器を壁の三つの高さへ順に当てて、そのたびに紙へ数を落としている。二度目からは書く手が早くなった。
『薄いです』
「薄いって、黒が?」
『黒がです』
ライは針を持ち替えた。
『触ったからではありません。今夜は誰も触っていません』
「じゃあなんで」
『……止まってます』
器を抱え直す動きが短かった。
『塗るのを、止めてます』
エルクは壁を見た。黒いところの縁が、いつもより先まで見えていた。
三百年ぶんの一人当番が、返事をもらった夜に手を止めた。休んだのだと言えればよかった。だが蓋が薄れる夜がどういう夜になるかを、この国はもう知っている。




