↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
辺境の村のモンスターテイマー  作者: スルメイカ
第五部・守るために隠す者/交代のない当番編
168/248

第164話 まだ誰も来ない

 夜の三つ目の刻を過ぎても誰も上へ戻らなかった。


 台には紙が六枚並んでいる。今夜の返しを写したものだ。ライは器の脇で七枚目を仕上げていた。エネは柱のところで刻を読む役のまま動かない。ケインは壁の前から離れていなかった。手はもう置いていない。


 エルクは台の脇で紙の並びを眺めていた。


『六度あります』


「六回言ったってこと?」


『六度打ちました。並びは六度とも同じです』


 ライは一枚目と六枚目を灯りの下で重ねた。点の位置がずれなかった。


『長さは四つに分けました。いちばん長いものは今夜が初めてです』


 クラウは筆の尻で紙の縁を押さえていた。


「四つのうち二つは打っておらんな」


『打っていません。幅だけあります』


「幅か」


『間の長さがそろっているものは書けると前に書きました。……そろっています』


 クラウはそれきり黙った。灯りの芯が一度鳴った。


「欄だ」


「らん?」


「打っていないところは空けてある欄だ。字を入れずに幅だけ取ってある」


 エルクは腰かけの上から紙を覗きこんだ。点と点のあいだの何も無いところを、この男は今しがた欄と呼んだ。


「空けてあるのと、何も無いのって違うんだ」


「違う。俺の帳面にも空けた行がある」


「書けなかったとこだよね」


「書けなかったところだ。書かなかったところではない」


---


 クラウは写し帳を繰って、板と同じ縦線を引いた頁を出した。


「うちの板でいえば、ここが渡した先の名を書くところだ」


「うん」


「ここが受け取った者の名だ」


 筆の先が二つの欄をなぞって止まった。


「どちらも打っておらん」


「空いてるんだ」


「空いておる」


 ライは紙を一枚ずつ数え直した。


『初めの晩から空いています』


「初めの晩って、僕らが叩く前だよね」


『叩く前です。あの晩のぶんも同じ並びでした』


 ライは器を膝の上へ下ろした。


『読みます。……これは私の読みです。書くなら、私が読んだと書いてください』


「書く」


 クラウの筆は動かなかった。


『まだ だれも こない』


 エルクはそのまま声に出した。


「まだ だれも こない」


 誰も何も言わなかった。


 エネの指が止まっていた。ケインはエルクのほうを見てから壁へ顔を戻した。口は開いたままだった。ラネは低いほうの糸の端を両手で押さえている。震えているのが手のほうなのか糸のほうなのかは分からなかった。いつもなら触るなと怒鳴る子が、今夜は声を出さなかった。


 エルクは膝の上で手を組んだままでいた。何か言おうとして息を吸って、そのまま吐いた。二度そうした。


 クラウは写し帳を閉じずに置いた。


「もう一度言え」


『まだ だれも こない』


「……返しではないな」


『返しではありません。今夜が長かっただけです。中身は初めの晩と同じです』


 ライは紙の束を胸の前でそろえた。


『私たちが数えはじめる前から、毎晩これを打っています』


「僕らが数えはじめる前から毎晩打ってたって」


 ケインが掌を見た。糸の結び目がまだ手首に残っている。


「……じゃあ、おれが名乗ったのは何だったんすか」


「三百年で初めて欄が埋まった夜だ」


「一拍っすよ」


「一拍だ」


 クラウは写し帳の角を親指で押さえた。


「埋まらん欄を三百年ぶん並べた者に、一拍ぶんの字が入った」


---


 階段のほうで爪が石を掻く音がした。


 黒銀が下りてきた。灯りの届く手前で足を止めて、それからエルクの横まで来る。


『名は書いてもらった』


「うん」


『外周は回り終えた。ここからは板に無い時間だ』


 膝の上に頭が置かれた。重かった。


『……唸らぬ』


「うん」


『今日は言うことがない』


 スラは腰かけの脚のところで丸くなっていた。降りてきてから一言も喋っていない。


『……おいら、なんも言えないッス』


「いいよ」


『いつもなら何か言うッスけど』


「今日はいいよ」


 丸い体が少しだけ縮んで、それきり動かなくなった。


---


 エルクが口を開いたのは刻がもう一つ回ってからだった。


「……ずっと、呼んでたんだ」


 声は小さかった。


「毎晩だよ。誰か来ないかなって打ってたんだよ。……僕らそれを真似っこだと思ってたんだよね」


 クラウは筆を持たなかった。


「去年うちの板でも同じことが起きておった」


「レオルだよね」


「あれもだ。狼もだ。……黙って立った者は、立ったことすら数に入らん」


 エルクは膝の上の重みを掌で押さえた。


「あの人は書ける板を持ってなかったんだ」


「持っておらん」


「だから壁に書いてたんだね。三百年ぶん」


---


 朝の霜は薄かった。


 入口ではミナが板を抱えて名を書き入れていた。上がってくる者の名を順に書いて、それから顔を上げた。


「顔がひどいよ」


「寝てないからね」


「なんかあったの」


 エルクは階段の口の縁へ座った。ミナは横に板を抱えたまましゃがんだ。


「読めたんだ」


「壁の?」


「うん」


 エルクは指で膝を三つ叩いた。


「まだ誰も来ない、って打ってた」


 ミナはしばらく板の角を握っていた。


「……それ、ミナも言ったことある」


「そう?」


「前の国から歩いてたときだよ。……ずっとそう思ってた」


 角の先が外套の襟に触れて、少しだけ下がった。


「誰か来るよって、誰も言ってくれなかったから。それでも歩くんだけどね。頭の中でずっと言ってた」


「言ってたんだ」


「言ってたよ。……声には出さないよ。出したら止まっちゃうもん」


 ミナは板を抱え直して立った。


「あの人、止まらなかったんだね」


---


 庇の下で写し帳が開かれた。人はまだ集まっていない。


「書くの」


「書く」


 筆が動いた。行は一つだった。


「返事があった、と書く」


「それだけ?」


「それだけだ」


 クラウは筆を紙から離した。


「三百年ぶんの何とかは書かん。……書けん」


「書けないんだ」


「書けん。俺が今それを書くと、来年の誰かが数えたつもりになる」


 書かれた行の下は空けたままにしてあった。ライが読んだと書いた行が、その一つ前に入っている。


---


 昼前に鱗の長が入口の板の前に立った。


 筆を取って名を書く。当番の欄でも休みの欄でもない。地下へ降りる者の行だった。字は相変わらず大きい。


 入口の脇の黒いところで竜が首をもたげた。


『……通るのだな』


「通るんだって。どく?」


『どかぬ』


 ドラゴは首をもたげたまま動かなかった。レオルはその前を横切って階段へ入っていった。竜はそれを見ていた。見ていただけだった。


 記録の間の灯りは二つだけついていた。


 レオルは壁の三歩手前で止まって、それから半歩出た。尾を体の横へ回して畳む。


 鱗の掌が黒いところへ置かれた。


 何も言わなかった。ライは数を測らなかった。測ってくれと誰も言わなかったからだ。


 しばらくして手が離れた。


「……我は三日だ」


 それだけだった。レオルは階段のほうへ歩いていって、上がる前に一度だけ振り返った。


---


 叩きの刻に降りてきたのは二人と、後ろについてきた小さいのだった。


 叩く役はケインで、数えるのはエネだった。ノノは護符を両手で握って階段の三段目に座っている。いつもの場所だ。


 ケインは名を言ってから三つ叩いた。


 返ってきたのは四つだった。空き方は昨日と同じだった。


「変わってません」


 エネが紙へ点を打った。


「……変わってないっすね」


 ケインは掌を見てから下がった。


 小さい足音が階段を下りてきた。


「ノノもやる」


「叩く?」


 ノノは返事をしなかった。壁の前まで歩いていって、灯りの外で足を止める。それから護符を握り直した。


「ノノだよ」


 名を言ってから叩くのだと、この子が先に決めた。


 小さい手が壁を打った。一つだった。


「きたよ」


 誰も止めなかった。


 ノノはもう一度打った。同じ強さで一つだけだった。


「きたよ」


---


 糸が鳴った。


 高いほうと低いほうが同時だった。天井の際からアラーネが下りてきて、指の腹を上の糸へ当てる。


「あらら~」


「なに」


「両方鳴ったわ~。……本物ってことよ~」


 壁の中で音がした。


 一つ目が来て、二つ目が来なかった。三つ目が来て、そのあとが長く空いた。空いたところへ四つ目が落ちて、それも途中で切れた。


 ライの筆が止まった。


『並びが崩れています』


「崩れるって」


『四つのどれも位置に来ていません。……初めてです』


 エネは指を折るのをやめて紙を見ていた。ケインは壁のほうへ半歩出て、そこで止まった。


 ノノは手を下ろしたまま壁を見上げている。


「おこってる?」


「怒ってないよ」


 エルクはノノの横へしゃがんだ。


「たぶん、びっくりしたんだと思う」


---


 拍は戻らなかった。


 刻が一つ回っても崩れたままだった。ライは器を壁の三つの高さへ順に当てて、そのたびに紙へ数を落としている。二度目からは書く手が早くなった。


『薄いです』


「薄いって、黒が?」


『黒がです』


 ライは針を持ち替えた。


『触ったからではありません。今夜は誰も触っていません』


「じゃあなんで」


『……止まってます』


 器を抱え直す動きが短かった。


『塗るのを、止めてます』


 エルクは壁を見た。黒いところの縁が、いつもより先まで見えていた。


 三百年ぶんの一人当番が、返事をもらった夜に手を止めた。休んだのだと言えればよかった。だが蓋が薄れる夜がどういう夜になるかを、この国はもう知っている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。