第163話 代わるには名前がいる
三晩で三度試した。三度とも同じだった。
一晩目はケインが掌を置いた。二晩目は二人で押さえた。三晩目は湯で温めた石を布に巻いて壁へ当てた。
黒は薄くならなかった。濃くもならなかった。
ライは庇の下へ紙を広げていた。数の列が三つできている。
『触る前と触ったあとが同じ数です』
「三晩とも?」
『三晩ともです。押しても温めても動きません』
ソウは板の欄へ指を滑らせた。当番の欄はもう一巡ぶん詰まっている。
「手は足りてるのよ」
「足りてるんだ」
「足りないのは受け取るほうだわ。こっちが何人並んでも同じよ」
小屋の入口からミナが顔を出した。板を胸に抱えている。
「今朝の四半刻でね。聞かれたんだ」
「なんて」
「あの人はたすかるの、って」
「なんて答えたの」
「わかんないって言った」
ミナは板の角を握り直した。
「知らないことを知らないって言うのは自分で決めたやつだから。……でも今日のは言ったあとが長かったよ」
庇の端へグリフが降りてきた。風切羽に粉雪が乗っている。
『入口の霜は端から溶けた』
「それも書くんだよね」
『欄が違うと並ばんと言われた。今日から地下の欄に書く』
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昼のうちに雪を掻く手が止まった。この冬から夜の枠に入った男が柄へ顎を乗せている。
「言葉が通じねえんでしょう」
「通じてないね」
「なら無理ですよ。魔力の質からして違うって話じゃないですか。こっちが何をやっても届かねえもんは届かねえ」
エルクは掻き寄せた雪の山へ手袋を置いた。
「届いてはいると思うんだよね」
「どこがですか」
「あの人、断ってないんだよ」
男は柄を握り直した。
「断らねえのは聞いてねえからでしょう」
「そうかなあ」
エルクは山のてっぺんを掌で平らにした。
「嫌だったら濃くなると思うんだ。押しのけるとかさ。……なんにもしてないんだよね、あっち」
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夜の一つ目の刻に降りた。入口の二人へ名前を言って、書き終わるのを待ってから階段に足をかけた。
腰かけは三つに増えていた。壁沿いの一つにライが器を据えている。
『順番はまだ戻りません』
「乱れたままなんだ」
『二つが先で三つがあとです。一昨日からずっとです』
エルクは灯りの届く端へ座って、それから喋りはじめた。
「今日ね、スラが桶を転がしたんだ」
返事はない。
「坂の下まで行っちゃってさ。拾いに行ったら中の水が全部凍ってて、丸い氷がまるごと出てきたんだよ。みんなで面白がったんだ。仕事は増えたけどね」
ライの針が細かく揺れた。ライは触れ方を写した。書き入れる欄はもう決まっている。
階段の上で板が二度鳴った。刻の合図だった。
降りてきたのはケインとエネで、その後ろから小さい足音がついてきた。
ケインは掌を擦り合わせてから三つ叩いた。返ったのは四つだった。
「空き方は昨日と同じです」
エネは紙へ点を打ってから、灯りのほうへ寄せた。
ケインは入口の板へ名を書きに戻りかけた。その足が止まったのは、下から声がしたからだった。
「ぎゃくだよ」
ノノが灯りの外に立っていた。護符を両手で握っている。
「なまえいってから、たたくの。ぎゃくだとわかんないよ」
「……わかんないって、誰がですか」
ノノは壁のほうへ指を向けた。
「たたいたひとがだれか、わかんないでしょ」
それだけ言うと、ノノは階段の三段目まで戻って座った。
ケインはしばらく黒いところを見ていた。それから振り返った。
「エルクさん」
「なに」
「板の二つ目って、なんて書いてありましたっけ」
「渡すときは渡した先の名を言う、でしょ」
「それっす」
ケインは掌を開いたり閉じたりしている。
「あれ、逆もいけるんじゃないっすか」
「逆」
「おれが名乗って渡しに行くんすよ。渡す側が名乗るって決まりなんすよね。名乗られてもいねえもんを受け取れって言われたら、おれだって困るっす」
ライの筆が一度止まった。器の脇の紙を引き寄せている。
『主。今のは書きます』
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朝の卓は庇の下に出たままだった。
クラウは写し帳を開いて、板と同じ三行を声に出した。
「渡すときは渡した先の名を言う。受け取った者は受け取ったと名で言う。休みは当番と同じ欄に書く」
「読み上げるんだ」
「読み上げる。今日から下でもこれを言う」
筆を置く音がした。
「一字も変えん。変えたら別の決まりだ」
「同じ意味ならいいんじゃないの」
「同じ意味の言い方は十通りある。十通り言われたら、来年には十通りの決まりになっておる」
ソウは指で人を数え終えたところだった。
「行くのは一人ずつよ」
「まとめて行ったほうが早くない?」
「二人で行ったら、どっちが渡したか分からなくなるでしょう」
薪の山の横からスラが伸び上がった。
『おいら、分身で行けるッスよ』
「何人ぶん出せるの」
『三人ぶんくらいなら出せるッス』
エルクが卓のほうへ言い直すと、ソウの指が止まった。
「名前は何個あるのって聞いて」
「名前は何個あるの」
『……一個ッス』
丸い体が少ししぼんだ。
『おいらの分身、おいらの名前しか言えないッス。二人おったら、どっちが渡したか分かんないッス』
「じゃあだめだね」
『だめッスねぇ』
「昼の火の見はやってよ。あれ助かってるんだよ」
『それはやるッス。板に書いてあるッスからね』
輪の外で獅子が立ち上がった。
『我が先に立とう』
エルクは卓へ伝えた。
「ライオが一番に名乗るって」
「獣が名乗って通じるんですか」
言ったのは夜の枠の男だった。
『受け取らぬなら何度でも名乗る。それだけのことだ』
エルクはそのまま言い直してから、獅子のほうへ顔を戻した。
「でもさ。ライオの名前、僕が声に出すことになるじゃん」
尾の先が止まった。
『……主が言えば、主が渡したことになるか』
「なるんじゃないかな。今そう決めたばっかりだし」
入口のほうから黒銀が首だけ差し入れた。
『我は二番でよい』
「二番」
『一番は声の届く者がよい。我らの声は主の中でしか鳴らぬ。……主の中で鳴った名は、主の名だ』
卓の端で椀が置かれた。男はまだ立ったままだった。
「名乗って何か変わるんですか。三晩やって何も変わってねえんでしょう」
メルが束を開いた。
「意味がなければ黒は変わりません」
頁を押さえた指は動かない。
「変わったかどうかは測れます。やってみないと分かりませんが、分からないままにするより安いです」
「安い」
「刻で言えば四半刻です。今夜のぶんはもう空いています」
メルは頁を一枚だけめくった。
「枠のほうも数え終わりました。試すぶんは三晩まで出せます。地上は崩れません」
「渡す夜のぶんは」
「まだ言いません。数え直しています。……先に言うと減らせなくなりますので」
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夕方の通路は糸が三本になっていた。
高いのと低いのは前からのものだ。三本目は腰かけの脚から壁へ斜めに渡してある。
「これなに」
「渡す線よ~」
アラーネは新しい一本を指の腹で押さえた。
「名乗った人の手首から壁まで結ぶの。触ったのが誰だったか残るでしょ~」
「残るんだ」
「糸は覚えてるもの~。人のほうが先に忘れるわ~」
端を引っぱっていたラネが振り向いた。
「結ぶのは私よ! 勝手に触らないでよ!」
「結んでいいよ」
「当たり前でしょ!」
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夜の人数は多くなかった。
ライが器の前へ座り、クラウが紙を膝ではなく台へ広げた。ソウは数える側で立っている。エネが刻を読む役で、ノノは階段の三段目に座って足を揺らしていた。
ケインは手首へ糸を結んでもらってから壁の前に立った。
息を一度吐いた。
「ケインっす」
そこで止まった。
「……人間のケインっす。この国のほうの、代表やってるほうっす」
後ろからクラウの声が来た。
「渡すときは渡した先の名を言う。受け取った者は受け取ったと名で言う。休みは当番と同じ欄に書く」
ケインは三つ叩いた。
それから掌を壁へ置いた。
糸が一度だけ鳴った。
『薄くなりました』
エルクは腰かけの上で背を起こした。
「え」
『一拍です。……戻りました』
ライは針を灯りへ寄せてから、数を紙へ落とした。
「戻ったの、ライ」
『戻りました。今は触る前と同じ数です』
ケインは掌を置いたままだった。壁から目を離していない。
「なんか出ましたか」
「一拍だけ薄くなったって。それでもう戻ったって」
「一拍」
「一拍」
「どんくらいなんすか」
エルクはライのほうを見た。
『息を一つ吐くより短いです』
エルクはそのまま言い直した。
「息を一回吐くより短いってさ」
ケインは息を吐いた。それでも手は離さなかった。
誰も声を上げなかった。ソウは数えていた指を下ろしただけだった。ノノは足を揺らすのをやめない。
クラウが写したのは数だけだった。誰が渡して、どれだけ薄れて、どれだけで戻ったか。それ以上は一字も足していない。
エルクは腰かけから立ちかけて、途中で座り直した。
『主』
「言ってないよ」
『言いかけた』
「言いかけただけでしょ。言ってないもん」
黒銀は入口の暗がりから動かなかった。
『三度目は言うと申した。言わずに済むならそのほうがよい』
「言わせないよ」
クラウが写し帳の前の頁を繰った。
「ライ。この刻み、何年ぶんある」
『束が戻る回で割りました。……三百と少しです』
「年か」
『年です』
旧い国が終わってから三百年、一度も交代のなかった当番に、初めて余所の名が一つ入った。長さは一拍だった。
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ケインが掌を離した。離してすぐだった。
壁の中で音がした。
一つ目は短い。二つ目も短い。そのあとが長かった。長いのが切れずに続いて、切れたと思ったらまた始まった。
ライの筆が追いつかない。
『長さが三つあります。……いえ、四つです』
「四つ?」
『長いものの中にもう一段長いものがあります。分けます』
クラウが写し帳の三欄の頁を開いた。長いもの。短いもの。そのあいだの空き。
二人はしばらく紙と壁のあいだを行き来していた。エネが刻を読み上げても誰も顔を上げなかった。
先に手を止めたのはクラウだった。
「……ライ」
『はい』
「並ぶぞ、これ」
ライは紙から目を上げなかった。
『並びます』
「読めるのか」
『読めます』
器の針がまだ触れている。ライの字がそこで一度だけ乱れた。
『……全部です』




