第162話 本当のことしか言わない
朝の集まりは板の前ではなかった。
ソウが小屋から卓を引き出して庇の下へ据えている。雪を払う手つきが早い。
「立ったままだと話が短くなるのよ」
「短いほうが楽じゃない?」
「早く終わらせたい人の意見だけ残るわ」
クラウは卓の真ん中へ紙を一枚置いた。ゆうべ階段の下で書いた行だった。
「二人で聞いた」
読み上げる声は低かった。
「そろそろ、あれも限界だ。手を貸してやれ。……私は本当のことしか言わぬ」
誰もすぐには喋らなかった。遠くで桶の鳴る音だけがしている。
最初に口を開いたのは、この冬から夜の枠に入った男だった。
「悪魔が言ったんですよね」
「言った」
「なら逆をやりゃいいでしょう。手を貸せと言うんなら、貸さねえのが正しい」
ケインが椀を卓へ置いた。
「おれも夜明けまでそう考えてたんすよ」
「じゃあ同じでしょう」
「逆をやると、あの人が倒れるんす」
男の口が止まった。
「倒れたら蓋が外れるっす。外れたら名前が出るっす。……向こうにしてみりゃ、そっちのほうが早いんじゃないっすかね」
クラウが紙から目を上げた。
「……どっちも向こうの得か」
「得っぽく見えるんすよ。悪魔が正しいこと言うときが、いちばんめんどくさいっすね」
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卓の脚のそばでライが器を下ろした。
『決める前に一つ言っておきます』
「うん」
『どちらに決めても、私の備えは間に合いません』
「間に合わないの」
『あの声に結界が効いた例がありません。箱も一度も光っていません』
ライは器の口を布でくるんだ。
『備えがある前提で決めないでください。無いものを勘定に入れると、数が合っているように見えます』
クラウは紙の隅へ短い印をつけた。
「あれが本当のことしか言わんのは去年から変わらん」
「変わってないね」
「変わったのはこっちだ。……本当だと確かめる材料を、こっちが持ってしまった」
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岩のほうから鱗の長が降りてきた。座らずに卓の端へ立つ。
「我らの冬をよそへ回すのか」
ミナが向かいから手を上げた。
「ミナたちもよそから来たよ」
「お前たちは板に載っておる」
「あの人は載ってないもんね」
「載っておらん者の刻を、載っておる者から削る話だ」
卓の外側でドレクが手の甲で鼻をこすった。
「おれもよそ者だったろ」
声は大きくない。
「秋に来て、当番の理由も知らねえで立ってた男だ。……よそ者の面倒を見るのがこの国の癖なんじゃねえのか」
鱗の長が首だけ動かした。
「癖か」
「おれが言うのも変だけどよ」
誰かが低く笑った。笑いはすぐに消えた。
ソウが指で人を数えた。二度数えてから筆の尻で卓を叩いた。
「割れてるわ」
「半分?」
「半分よ。数え直しても寄らないわ」
クラウは数え終えたソウの指を見ていた。
「分けても割れるな」
「分ければ済む話だったのにね」
「そういう年もある」
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エルクは卓の縁へ肘を置いたまま、しばらく雪の明るいところを見ていた。
「僕、分かんない」
誰も急かさなかった。
「これ、僕が決めるやつじゃないと思う」
「逃げるのか」
「逃げるっていうか」
エルクは頭の後ろを掻いた。
「僕が決めると、みんな僕の顔だけ見るでしょ。見た人はあとで自分が決めたって思えないじゃん」
それから少し黙って、思いついた顔で続けた。
「じゃあさ。僕がずっと代わるよ」
卓が静かになった。
「毎晩降りて僕が塗ればいいんじゃないの。僕なら平気だし」
雪を踏む音が近づいた。黒銀が卓の後ろで腰を落とした。
『主』
「なに」
『それは代わるとは言わぬ』
唸ってはいなかった。
『奪うと言うのだ』
「奪ってないよ。手伝うだけだよ」
『代わるには返す相手がおらねばならぬ。返さぬなら、あれの持ち場は主のものになる』
「持ち場」
『主が倒れる日まで、あれは何もせずに待つことになる。……それは休みではない』
エルクは口を開けてから、そのまま閉じた。
「……前も言われたね」
『二度目だ。三度目は言わぬ』
「言ってよ」
『言う』
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卓の輪の外に獅子が座っていた。人の輪へは入らない。
『持ち場を離れよと言われて素直に離れる者がおるものか』
「今ライオがね」
エルクは卓のほうへ顔を戻した。
「代われって言われても、自分なら断るって。……一度きり来る相手は当てにできないって」
「受け取らんかもしれんということか」
「そうみたい」
メルが束を開いた。筆はもう動いている。
「決を採る前に数えていいですか」
「賛成の数か」
「刻の数です」
束の頁が三つに分けられた。
「出せる刻がなければ、賛成が何人いても同じです。先に数えたほうが早いです」
鱗の長が腕を組んだ。
「先に決めよと言うたのはそれだ」
「回すなとは言わないんだ」
「回すなとは言わん」
尾の先が雪を打った。
「何枠までかを先に決めよ。終わりの見えぬ持ち出しは、途中で誰かが黙って足す」
「黙って足すと」
「見えなくなる。……我がやった」
ソウがもう一度だけ指を動かした。
「……寄ったわ。条件がついたぶんだけ」
ソウは板のほうを見ずに言った。
「地上は空けないわ。そこだけ先に言っておく」
「空けないんだ」
「あっちを助けてこっちが空いたら、去年と同じよ」
クラウが筆を持ち替えた。
「では書き方を決める」
「書き方?」
「助けると書く。だがあいつの言うとおりにするとは書かん」
「同じじゃないの」
「ちがう」
紙の上へ短い線が引かれた。
「あいつの言うとおりにするんじゃない。俺たちが同じ結論に着いただけだ。……そう書く」
「読む人には分かんないよ」
「来年の俺には分かる」
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薪の山の横からスラが転がってきた。
『みんな怖い顔ッスねぇ』
「そう?」
『朝ごはんまだッスよね。先に食べたほうが決まるの早いッスよ』
誰も笑わなかった。ミナだけが笑いかけて、それも途中でやめた。
『……滑ったッス』
「ちょっと助かったよ」
『ほんとッスか』
「ほんとだよ。今の間、みんな黙るのやめたし」
広場の隅では竜が丸くなっていた。今日の欄は空のままにしてある。何もしない日と板に書いてある日だった。
エルクが目を向けると、片目だけが開いてまた閉じた。
起きているのは知っていた。何も言わないのも知っていた。
空の枠から戻ってきたグリフが板の前で足を止めた。
『何も見なかった』
「書いた?」
『書いた。見なかった日も書く』
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枠の数え直しは昼から始まった。メルは冬の刻と昼の刻と地下の刻を別々に積んでいる。
「今日は出ません」
「明日は」
「明日には言えます。……数える前に言うと、あとから減らせなくなります」
夜の一つ目の刻に二人で降りた。入口で名を告げて、板へ字を入れてから階段へ足をかける。
通路の腰かけにライがいた。器は膝の上に置いてある。
『触る前の濃さを書きました』
「書けたって。触っていいよ」
ケインは掌を二度こすってから壁の前へ立った。手を置く。
掌の下は冷たくもあたたかくもなかった。
「なんかあるっすか」
エルクはライの手元を覗きこんだ。
『変わりません』
「変わってないって」
「押したほうがいいっすかね」
エルクはもう一度ライを見た。
『押しても同じです。濃さは押した力では動きません』
「力じゃ動かないってさ」
「じゃあ何で動くんすか」
「それが分かったら苦労しないよ」
ケインは手を置いたまま息を吐いた。
「三日粘れば慣れてくれるとか、ないっすかね」
「あの人、ずっと前からやってるんだよ。僕らが来るよりずっと前」
「……三日は短いっすね」
そのとき壁の中で音がした。
拍だった。二つ、それから間があって三つ。エルクは指で数えた。数えたところで意味は分からない。
ライの筆が止まった。
『順番がちがいます』
「ちがうって」
『いつもは三つが先です。今のは二つが先でした』
「まちがえたのかな」
『分かりません。……ただ、こちらが触ってから乱れました』
ケインが手を離した。離してからも拍はしばらく戻らなかった。
黒は薄れていない。ライは二度測って、二度とも同じ数を書いた。
階段の途中でケインが一度立ち止まった。
「あれ、嫌がってたんすかね」
「分かんない」
「……嫌がってるほうがマシっすね。嫌がるってことは、こっちがいるのは分かってるってことっすから」
エルクは返さなかった。
助けると決めた日の夜に、こちらから渡せたものは一つもなかった。




