第161話 蓋をしていた者
朝いちばんに降りたのは測り直しのためだった。
入口の二人に名を告げる。書き終わるまで待つ間が、今朝から少し長くなっている。手がかじかんで字が遅い。
記録の間の手前でライが器を据えていた。ゆうべ置いた場所から半歩ぶん壁へ寄せてある。
『昨日と今日で六度になりました』
「多くない?」
『三度では足りないと自分で書きました。書いた以上は足します』
器の脇には数の並んだ紙が伏せてあった。ライはそれを裏返して灯りのほうへ滑らせた。
『濃さの並びが毎日同じです。いちばん濃いところが動きません』
「顔の真ん中じゃないんだよね」
『真ん中ではありません。もっと下です』
壁には糸が二本張ってある。上の一本へアラーネが指を触れさせた。
「あらら~。今日も同じだわ~」
「同じって」
「重さよ~。上の糸は軽いの。下のは指ごと持っていかれるみたいに重いわ~」
下の糸の端はラネが両手で握っていた。
「そっち引かないでよ! 測れないでしょ!」
「引いてないわよ~」
アラーネは糸の腹を爪の先で弾いた。低いほうの音が長く残った。
「顔ぜんぶが重いんじゃないのよ~。口のとこだけ重いのよ~」
ライは器を三つの高さへ順に当てた。針の触れ方をそのつど紙へ写している。
『目のあたりは薄いです。額も薄いです。輪郭はもっと薄い』
「口だけ厚いんだ」
『厚いです。三日ぶん合わないと書きました。……合わないものを合うように読むのは、今日でやめます』
ライは器を胸へ抱え直した。
『これは顔を隠す蓋じゃありません』
「じゃあ何なの」
『名前を、言えなくしておく蓋です』
エルクは壁を見た。黒いところは灯りを近づけると、近づけたぶんだけ奥へ沈む。
「名前って、隠すと何かいいことあるの」
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通路の奥で荷の擦れる音がした。ダクトが紙束を背に縛って降りてくる。その後ろにクラウがいた。
「上から三枚ですぞ」
「クラウが下で読むの」
「読むと言いましたのでな。紙は人より軽いですぞ。……人が三度上り下りするより、紙を一度降ろすほうが早いですからな」
ダクトは束を腰かけへ置いてから、灯りの当たる側へ寄せ直した。
クラウは紐に手をかけたまま、ライのほうへ顎を向けた。
「今のをもう一度言え」
『名前を、言えなくしておく蓋です』
紐を解く手が止まった。
「……去年ケインは、何と言うて声を止めた」
「名前言えよ、って言ったんだよね」
「効いた理由を言えるか」
「言えないよ。僕そういうの苦手だもん」
クラウは紙の端をそろえた。
「声色は真似られる。名は名乗れん。名乗れば本人が出てきて違うと言えるからだ」
「そうだね」
「では、違うと言える本人がおらん名ならどうなる」
エルクは口を開けたまま少し黙った。
「……名乗れちゃうの」
「名乗れる。誰も否定できん」
通路の石が下から冷えてくる。エルクは腰かけの端へ座り直した。
「門を開けた人の名前って、それだよね」
「それだ。あれを否定できる者はこの世におらん」
クラウは壁のほうを見ないまま続けた。
「あの蓋は恥のためでも罰のためでもない。……着られんようにするための蓋だ」
「着る」
「服と同じだ。名だけ着て、中身は別のものが来る」
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地上は風が止んでいた。板の前へ人を集めたのはソウで、昼のうちに集めるのは冬に入ってから初めてだった。
クラウが下で聞いたことを順に並べ終えると、ソウが板の欄から目を上げた。
「じゃあ、あれが手を止めたら、あの声は名前を名乗れるようになるってこと?」
「そうなる」
「……それだけなら、まだ名乗らせておけばいいわ」
「名乗るだけならな」
クラウは板の二つ目の欄を指した。
「渡すときは渡した先の名を言う。受け取った者は受け取ったと名で言う。……うちの決まりは、名乗る者を信じる形で書いてある」
ケインが椀を持ったまま一歩下がった。
「去年止まったのは、名無しだったからっすよね」
「名無しだった。次は名がある。あの人から預かってきた、と言われる」
エルクは眉の上を掻いた。
「言われたら」
「うちの決まりでは受け取る」
そこで話が一度切れた。
「否定できん名を一つ持たれたら、あの決まりはそのまま向こうの道具だ」
メルが束の頁を押さえた。
「では、その名を知る者はうちで何人になりますか」
「少ないほどいい」
「じゃあ、いっそ先におれらが聞いちまうのはどうっすか」
ケインは椀を置いて板の前へ出た。
「先に知って、こっちで封じちまえば向こうは使えねえっすよね」
「知った時点で、俺たちの誰かが口を持つ」
ケインが眉を寄せた。
「口」
「その名を言える口だ。……口は増やすもんじゃない」
「……なるほど。おれが真っ先に喋りそうっすもんね」
「お前が喋らんでも、お前が喋らされる夜が来る」
ケインは首の後ろへ手をやってから、椀を拾って下がった。
岩の上のレオルが腕を組んだまま首だけ動かした。
「あれが立っておるのは、我らのためではない」
エルクは岩の上を見上げた。
「そうだね」
「だが倒れれば我らが困る。……ならばなおのこと、放っておけぬな」
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ミナが板の下から顔を上げた。
「あのさ」
「白いほうの顔は、なんで誰も塗ってないの。あっちの名前だって分かんないままだよ」
「あれは要らんのだ」
「要らないの」
「消えた名は着られん。誰の頭にも残っておらん名を名乗られても、こっちは受け取れん。……知らん名を渡されて、受け取ったと言えるか」
ミナは口の中で一度言い直していた。
「言えないね」
「伏せてある名だけが着られる。白いほうは乾いたままでいい」
クラウはそこで一度言葉を切った。
「……去年、あれは俺に名を教えてやろうかと言うた」
エルクはクラウの手元を覗きこんだ。
「消された一羽のほうだよね」
「消された一羽のほうだ。この世でその名を持つのは私だけだ、とも言うた」
「嘘だったの」
「あれは嘘をつかん。持っておるのだろう」
クラウは紙の束の上へ手を置いた。
「持っておるが、使えん名だ。使えん名を餌にして、俺たちに掘らせようとした」
「掘ると出るのが」
「こっちの黒だ」
腰かけに座っていたメアが顔を上げた。ゆうべから声がまだ戻っていない。
「……必死なんです、って前に言いましたよね」
「言ってたね」
「あれ、間に合わないと困る必死じゃないです。一回でも空いたらまずい必死です」
「一回でも」
「一回空いたら終わりなんです。終わったら元に戻せないから、あの人は止められないんだと思います」
エルクは板の空いているところをしばらく見ていた。
「あの人が休めないのってさ。ちょっとは僕らのせいでもあるよね」
「なぜだ」
「だってその名前、知りたがってたの僕らじゃん」
「あれは俺たちが来る前から塗っておる」
「そうなんだけどさ」
エルクは板の縁から指を離した。
「知りたいって言ってる人が上にいるあいだは、やめようって思えないんじゃないかな」
ソウが筆を取った。
「じゃあ、うちは名前を追わない。それでいいのね」
「追わん」
「口で言っただけだと来年には忘れるわ。書くんでしょう」
クラウは写し帳の空いた欄へ目をやった。
「今日は書かん。今日書くと、追わんと決めた理由が一行になる」
「一行じゃだめなの」
「だめだ。……これは一行で足りる話ではない」
クラウは帳を閉じなかった。
「俺たちはずっと、隠されてるほうを見てた。……隠してるほうが、何から守ってるのかを見てなかった」
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入口の外でウルが雪を掘って浅い窪みを作り、そこへ伏せていた。
『今日は降りた者が九だ。上がった者が九だ』
「合ってるね」
『合っておる。合った日を数えておる』
「合わない日ってあるの」
『まだ無い。無いことを数えるのが我の役だ』
広場ではスラが薪の山の横に伸びていた。
『昼の一枠ッス。今日は火の見ッス』
「一人でやってるの」
『二人ッスよ。もう一人は上で寝てるッス。夜に立つ人ッス』
「起こさなくていいの」
『おいらが起こすまで寝ててよし、って板に書いてあるッス。書いてあると気楽ッスねぇ』
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夜の二つ目の刻に、二人で降りた。
名を告げて中へ入ると、腰かけは二つとも空いていた。クラウは紙を広げずに座った。
「書かないんだ」
「今日は見にきただけだ」
灯りは腰かけの下へ置いた。低いところから照らすと、黒いところの縁だけが浮いて見える。
「あのさ」
エルクは膝に手を置いて、壁のほうへ声を出した。
「僕ら、そっちの名前は聞かないことにしたよ。……知りたかったんだけどね。やめとく」
黒いところは動かない。
「その手も、ほどかない。ほどいたら困るのそっちだもんね」
「知らぬままでよいのか」
クラウが灯りへ伸ばしかけた手を止めた。
早くも遅くもない声だった。怒ってもいない。
「二人おるところで喋るんだな」
「隠れて言うほどのことではない」
「用件を言え」
「そろそろ、あれも限界だ」
声の高さは一つも変わらない。
「手を貸してやれ。……私は本当のことしか言わぬ」
エルクは息を吸っただけで何も返さなかった。
それきり何も来なかった。
クラウが紙を出したのは、階段の下まで戻ってからだった。
「書くの」
「書く。二人で聞いた、と書く」
「そこ書くんだ」
「そこだ。……あれが、一人のところへ来なくなった」
言われたことは正しかった。言ったのが誰かということだけが、朝までに片づかなかった。




