第160話 一羽が頼んだこと
メアはその場に座りこんだ。
倒れたのではない。膝から下の力が抜けて、灯りの届く床へ落ちただけだった。エルクは手を出さなかった。起こすと話が途切れるのを知っている。
水を差し出したのはミナだった。メアは受け取って一口だけ飲んだ。
「あとで飲みます」
「置いとくね」
エルクはメアの正面へは回らなかった。横に腰を下ろすと、壁を一緒に向く形になった。
壁には糸が二本張ったままだった。朝のうちにアラーネが触りに来ている。低いほうの糸だけがかすかに揺れていた。
しばらくしてメアが指を二本立てた。
「二つ、いました」
「二つ」
「暗いところです。灯りが一つもないのに輪郭だけ見えました。……あそこ、たぶん今のあの人のいるところです」
声は細かった。急いでいないのに息が足りていない。
「一つは翼がありました」
エルクは急かさなかった。
「たたんでません。半分だけ開いたままです。……大きいです。人より大きい」
「鳥?」
「分かりません。翼があったところまでです」
メアは膝の上で手を握った。
「もう一つは小さいです。人の子より小さいくらいで、体のところがよく見えませんでした。動くところだけ見えるんです」
「動くところ」
「手です。たくさんありました」
壁際で器を据えていたライが向きを変えた。
『何本ですか』
「数えられません。動いていたので」
『では動いていたと書きます』
「翼のほうが、しゃがんでました」
メアは自分の肩を少しだけ落として見せた。
「小さいほうと同じ高さになるまで下げて、そのまま長く喋ってたんです」
「なんて言ってたの」
「聞こえません」
そこで目を伏せた。
「口が動いてるのは見えます。でも音が来ないんです。……たぶんそこだけ塗ってあるんだと思います」
「そこだけ?」
「そこだけです。ほかは全部来るのに、口から出たものだけ来ません」
エルクはすぐには返さなかった。
「名前も?」
「名前もです」
メアは首を横に振った。
「呼んだと思います。二回か三回。口の形が同じでした。……でも来ません」
『名は取れないと書きます』
ライの字は途切れなかった。
『取れなかった、ではありません。取れないと書きます』
「メアが弱ってるからじゃないの」
『違います。塗ってあると見た者が言いました。塗ってあるものは何度覗いても出てきません』
器の紙が一枚めくられた。
『次にもう一度頼んでも同じ結果になります。ですから、次は頼みません』
「終わりも見えました」
「終わり」
「翼のほうが立って、それから行きました。小さいほうは動きませんでした」
メアは灯りのほうへ目を戻した。
「ずっと同じ方を向いてました。行ったほうです」
「待ってたのかな」
「分かりません」
「うん」
「……でも、あれは頼まれた人の座り方でした」
「頼まれた人の座り方って分かるんだ」
「押しつけられた人はああ座りません」
クラウは通路の腰かけに紙を広げていた。膝ではなく板の上で書いている。ゆうべ据わったばかりの台だった。
書き入れた行は短かった。
「頼んだのは翼のある影。頼まれたのは手の多い小さな影。……ここまでだ」
「空の人って書かないの」
「書かん」
筆を置いた。
「翼のあるものを見たとメアは言うた。空の一族を見たとは言うておらん。……そこを一行で詰めると、明日には全員が鳥の話をしはじめる」
「でもたぶん鳥だよね」
「たぶんは俺の仕事ではない」
クラウは書いた行の頭へ点を一つ打った。
「そこから先は書かん。見た者が見たと言うたところまでだ」
書いた行の下は空けたままにしてあった。
エルクは壁のほうを向いた。黒いところだけが灯りを返さない。
「あの人さ。頼まれてたんだね」
「そう見えるというだけだ」
「うん。でもさ」
エルクは灯りの縁を靴の先でつついた。
「頼まれた仕事ってさ。頼んだ人がもういいよって言わないと終わらないんだよ」
クラウの筆が止まった。
「……言いに来る者がおらんな」
「来ないね。ずっと」
メアが水の器を両手で持ち直した。まだ半分残っている。
話は朝までに地上へ回っていた。
語り継ぎの四半刻に出たのではない。薪を割る手が止まったところから広がったらしい。
「じゃあ鳥の連中でしょう」
声の主は、この冬から夜の枠に入ったばかりの男だった。
「消したのはあっちなんですよね。頼んだのもあっちなんでしょう。……なら、あっちが降りてくればいい。おれらの刻を割る話じゃないですよ」
周りは黙っていた。否定しなかったというほうが近い。
「言いたくなるのは分かるっす」
ケインが椀を置いた。
「分かるけど、それやると去年に戻るんすよ。誰かのせいにしたら、その誰かが来るまでこっちは何もしなくていいことになるんで」
岩の上でレオルが目を開けた。
「払わせて何が戻る」
低い声だった。
「名も顔も戻らん。壁も乾かん。……戻らぬものの払いを立てるのは、我は好かん」
エルクは板の前で振り返らずに言った。
「そういうのやめよ」
声は上がらなかった。
「ゼルガに払わせても、あの壁の人は休めないよ」
ケインが首の後ろを掻いた。
「……休ませる話でしたっけ」
ソウが筆の尻で板を叩いた。
「誰のせいかを書く欄はこの板に無いわ」
メルは束を閉じずに顔を上げた。
「作りますか」
「作らないわよ。当番の板だもの」
「では昼までに戻る形にします。地上の刻は動かさずに済みます」
「動かさないほうがいいの」
「動かすと戻すのを忘れます。……去年それで一つ消えました」
空へ上がる相談は短かった。冬の刻はもう一巡ぶん詰まっている。
広場の雪の上にウルが立っていた。首だけ動かして板のほうを見ている。
『外周はひと回りきりだ』
「うん」
『二度は回らぬ。主が留守でも変えぬ』
「変えないんだ」
『去年それで一度隠した。二度はやらぬ』
ウルは前脚で雪を踏み直した。
『留守のぶんは板が決めることだ。我が黙って埋めるものではない』
スラが階段の口から転がってきた。
『昼の一枠、おいらが入るッス』
「書いてもらった?」
『ソウさんに書いてもらったッス。名前がないと立てないッスからね』
グリフは風を二度確かめた。
『上は強い。下は静かだ。行ける』
「帰りは」
『昼を過ぎると横から来る。昼までに戻る』
空の一族の若い嵐鷲がもう一羽、岩場のほうから降りてきた。名は名乗らない。メアがその背に乗った。
ミナはエルクの前に座って、角の生えた頭を肩の下まで沈めた。二度目でも高さには慣れないらしい。
山頂の白い岩に雪は乗っていなかった。風が全部さらっていくらしい。
ゼルガは岩の縁に立っていた。翼はたたんでいる。降りてきた影を見て、首をわずかに傾けただけだった。
「地の者が冬に来るか」
「うん。報告なんだ」
「何ぞ壊れたか」
「壊れてないよ」
エルクは首を振った。
「壊れてないんだけど、聞いてほしい話があるんだ」
ゼルガは何も言わなかった。エルクはメアのほうを見た。
「見たのは僕じゃないから、この子が言う」
メアは岩の上へ二歩だけ出た。風で声が飛びそうになるのを、一度息を継いで押さえた。
「地の底で昔のところを見ました」
ゼルガの目が動いた。
「二ついました。一つは翼がありました。半分開いた翼です」
空の主は動かなかった。
「もう一つは小さくて、手がたくさんありました。……今も壁を塗ってる人です」
「……何をしておった」
「翼のほうがしゃがんでました。同じ高さになるまで下がって、それから長く喋ってました」
メアは風の中で言葉を選んだ。
「頼んでたんだと思います」
風が岩の縁で向きを変えた。
ゼルガは長いこと黙っていた。
「名は」
「出ませんでした」
メアは首を振った。
「呼んだと思います。二回か三回。……でも音だけ来ません。そこだけ塗ってあるんです」
喉の奥で低い音がした。
「その一羽と決まったわけじゃないんだって」
エルクが横から足した。
「クラウが書かなかったんだ。翼のある影までしか見てないからって」
「……分からぬままでよい」
ゼルガはそう言った。
「分かったところで名は戻らぬ。戻らぬものを確かめて何とする」
それから、ずいぶん長い間があった。
「……我らは、何を消したのだ」
誰も答えなかった。
「止める役が止めなかったと、我らは決めつけた。空の護りの恥だと言うて名ごと削った。……その一羽が最後に何をしたかを、我らは確かめもせずに消したのだ」
ミナが前へ出た。
「……ミナも、消したことあるって前に言ったでしょ」
ゼルガの目がその小さな娘へ動いた。
「消した人はね。消した相手が何してたか知らないんだよ。……知ってたら消せないもん」
閉じた翼の付け根が、一度だけ上下した。
グリフが首を伸ばした。金色の目は老いた鳥のほうを向いている。
『その鳥、頼みに行ったんだな』
「……そう見えたと、この娘は言うておる」
『じゃあ逃げてない』
グリフはそれだけ言って翼をたたみ直した。
「我に何をせよと言う」
「なんにも」
エルクはあっさり答えた。
「知っててほしかっただけだよ」
「それだけか」
「うん。地上ではね、空の一族が責任取ればいいって言った人がいるんだ。……その話にすると、あの人の当番はそのままなんだよ」
「当番」
「あの人、ずっと一人で立ってるんだ。旧い国が終わってからずっと。誰にも代わってもらってない」
ゼルガは遠い空を見た。
「……我らが背負うと言えば話は早かろう」
「早いけどさ」
エルクは口ごもった。
「……なんか違う気がする」
「何が違う」
「分かんない。分かんないけど、それやっても一つも減らない気がするんだ」
自分で言いながら形になっていなかった。ゼルガはそれ以上聞かなかった。
「ならば我は待つ」
空の主は翼をたたみ直した。
「お前たちが何をするか見ておる。……今度は最後まで見る」
国へ降りたのは昼になる前だった。
ミナは地に足がついた途端に座りこみ、それから自分で立って板のほうへ歩いていった。書き入れる名がまだ残っている。
エルクは入口の板に戻りの刻を書いた。書かないと数が合わなくなると黒銀に言われている。
階段の下でライが待っていた。器を抱えている。
『測り直しました』
「今日も?」
『昨日と今日で同じところを三度ずつです』
ライは針を灯りへ寄せた。
『濃さがそろっていないのは前から書いてあります。……そろっていなかったのは、濃い場所のほうでした』
「場所」
『いちばん濃いところが顔の真ん中ではありません』
エルクは通路の奥を見た。灯りはそこまで届かない。
「顔を隠してるんだよね」
『隠れているのは顔です。ですが力を入れている場所が、顔の形と合っていません』
ライはそこで言葉を切った。器を抱え直す動きが、いつもより短かった。
『今夜もう一度測ります。合っていないと書くのに、三度では足りません』
何から守るために顔を隠すのか。それを言える者は、まだこの国に一人もいなかった。




