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辺境の村のモンスターテイマー  作者: スルメイカ
第五部・守るために隠す者/交代のない当番編
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第160話 一羽が頼んだこと

 メアはその場に座りこんだ。


 倒れたのではない。膝から下の力が抜けて、灯りの届く床へ落ちただけだった。エルクは手を出さなかった。起こすと話が途切れるのを知っている。


 水を差し出したのはミナだった。メアは受け取って一口だけ飲んだ。


「あとで飲みます」


「置いとくね」


 エルクはメアの正面へは回らなかった。横に腰を下ろすと、壁を一緒に向く形になった。


 壁には糸が二本張ったままだった。朝のうちにアラーネが触りに来ている。低いほうの糸だけがかすかに揺れていた。


 しばらくしてメアが指を二本立てた。


「二つ、いました」


「二つ」


「暗いところです。灯りが一つもないのに輪郭だけ見えました。……あそこ、たぶん今のあの人のいるところです」


 声は細かった。急いでいないのに息が足りていない。


「一つは翼がありました」


 エルクは急かさなかった。


「たたんでません。半分だけ開いたままです。……大きいです。人より大きい」


「鳥?」


「分かりません。翼があったところまでです」


 メアは膝の上で手を握った。


「もう一つは小さいです。人の子より小さいくらいで、体のところがよく見えませんでした。動くところだけ見えるんです」


「動くところ」


「手です。たくさんありました」


 壁際で器を据えていたライが向きを変えた。


『何本ですか』


「数えられません。動いていたので」


『では動いていたと書きます』


「翼のほうが、しゃがんでました」


 メアは自分の肩を少しだけ落として見せた。


「小さいほうと同じ高さになるまで下げて、そのまま長く喋ってたんです」


「なんて言ってたの」


「聞こえません」


 そこで目を伏せた。


「口が動いてるのは見えます。でも音が来ないんです。……たぶんそこだけ塗ってあるんだと思います」


「そこだけ?」


「そこだけです。ほかは全部来るのに、口から出たものだけ来ません」


 エルクはすぐには返さなかった。


「名前も?」


「名前もです」


 メアは首を横に振った。


「呼んだと思います。二回か三回。口の形が同じでした。……でも来ません」


『名は取れないと書きます』


 ライの字は途切れなかった。


『取れなかった、ではありません。取れないと書きます』


「メアが弱ってるからじゃないの」


『違います。塗ってあると見た者が言いました。塗ってあるものは何度覗いても出てきません』


 器の紙が一枚めくられた。


『次にもう一度頼んでも同じ結果になります。ですから、次は頼みません』


「終わりも見えました」


「終わり」


「翼のほうが立って、それから行きました。小さいほうは動きませんでした」


 メアは灯りのほうへ目を戻した。


「ずっと同じ方を向いてました。行ったほうです」


「待ってたのかな」


「分かりません」


「うん」


「……でも、あれは頼まれた人の座り方でした」


「頼まれた人の座り方って分かるんだ」


「押しつけられた人はああ座りません」


 クラウは通路の腰かけに紙を広げていた。膝ではなく板の上で書いている。ゆうべ据わったばかりの台だった。


 書き入れた行は短かった。


「頼んだのは翼のある影。頼まれたのは手の多い小さな影。……ここまでだ」


「空の人って書かないの」


「書かん」


 筆を置いた。


「翼のあるものを見たとメアは言うた。空の一族を見たとは言うておらん。……そこを一行で詰めると、明日には全員が鳥の話をしはじめる」


「でもたぶん鳥だよね」


「たぶんは俺の仕事ではない」


 クラウは書いた行の頭へ点を一つ打った。


「そこから先は書かん。見た者が見たと言うたところまでだ」


 書いた行の下は空けたままにしてあった。


 エルクは壁のほうを向いた。黒いところだけが灯りを返さない。


「あの人さ。頼まれてたんだね」


「そう見えるというだけだ」


「うん。でもさ」


 エルクは灯りの縁を靴の先でつついた。


「頼まれた仕事ってさ。頼んだ人がもういいよって言わないと終わらないんだよ」


 クラウの筆が止まった。


「……言いに来る者がおらんな」


「来ないね。ずっと」


 メアが水の器を両手で持ち直した。まだ半分残っている。


 話は朝までに地上へ回っていた。


 語り継ぎの四半刻に出たのではない。薪を割る手が止まったところから広がったらしい。


「じゃあ鳥の連中でしょう」


 声の主は、この冬から夜の枠に入ったばかりの男だった。


「消したのはあっちなんですよね。頼んだのもあっちなんでしょう。……なら、あっちが降りてくればいい。おれらの刻を割る話じゃないですよ」


 周りは黙っていた。否定しなかったというほうが近い。


「言いたくなるのは分かるっす」


 ケインが椀を置いた。


「分かるけど、それやると去年に戻るんすよ。誰かのせいにしたら、その誰かが来るまでこっちは何もしなくていいことになるんで」


 岩の上でレオルが目を開けた。


「払わせて何が戻る」


 低い声だった。


「名も顔も戻らん。壁も乾かん。……戻らぬものの払いを立てるのは、我は好かん」


 エルクは板の前で振り返らずに言った。


「そういうのやめよ」


 声は上がらなかった。


「ゼルガに払わせても、あの壁の人は休めないよ」


 ケインが首の後ろを掻いた。


「……休ませる話でしたっけ」


 ソウが筆の尻で板を叩いた。


「誰のせいかを書く欄はこの板に無いわ」


 メルは束を閉じずに顔を上げた。


「作りますか」


「作らないわよ。当番の板だもの」


「では昼までに戻る形にします。地上の刻は動かさずに済みます」


「動かさないほうがいいの」


「動かすと戻すのを忘れます。……去年それで一つ消えました」


 空へ上がる相談は短かった。冬の刻はもう一巡ぶん詰まっている。


 広場の雪の上にウルが立っていた。首だけ動かして板のほうを見ている。


『外周はひと回りきりだ』


「うん」


『二度は回らぬ。主が留守でも変えぬ』


「変えないんだ」


『去年それで一度隠した。二度はやらぬ』


 ウルは前脚で雪を踏み直した。


『留守のぶんは板が決めることだ。我が黙って埋めるものではない』


 スラが階段の口から転がってきた。


『昼の一枠、おいらが入るッス』


「書いてもらった?」


『ソウさんに書いてもらったッス。名前がないと立てないッスからね』


 グリフは風を二度確かめた。


『上は強い。下は静かだ。行ける』


「帰りは」


『昼を過ぎると横から来る。昼までに戻る』


 空の一族の若い嵐鷲がもう一羽、岩場のほうから降りてきた。名は名乗らない。メアがその背に乗った。


 ミナはエルクの前に座って、角の生えた頭を肩の下まで沈めた。二度目でも高さには慣れないらしい。


 山頂の白い岩に雪は乗っていなかった。風が全部さらっていくらしい。


 ゼルガは岩の縁に立っていた。翼はたたんでいる。降りてきた影を見て、首をわずかに傾けただけだった。


「地の者が冬に来るか」


「うん。報告なんだ」


「何ぞ壊れたか」


「壊れてないよ」


 エルクは首を振った。


「壊れてないんだけど、聞いてほしい話があるんだ」


 ゼルガは何も言わなかった。エルクはメアのほうを見た。


「見たのは僕じゃないから、この子が言う」


 メアは岩の上へ二歩だけ出た。風で声が飛びそうになるのを、一度息を継いで押さえた。


「地の底で昔のところを見ました」


 ゼルガの目が動いた。


「二ついました。一つは翼がありました。半分開いた翼です」


 空の主は動かなかった。


「もう一つは小さくて、手がたくさんありました。……今も壁を塗ってる人です」


「……何をしておった」


「翼のほうがしゃがんでました。同じ高さになるまで下がって、それから長く喋ってました」


 メアは風の中で言葉を選んだ。


「頼んでたんだと思います」


 風が岩の縁で向きを変えた。


 ゼルガは長いこと黙っていた。


「名は」


「出ませんでした」


 メアは首を振った。


「呼んだと思います。二回か三回。……でも音だけ来ません。そこだけ塗ってあるんです」


 喉の奥で低い音がした。


「その一羽と決まったわけじゃないんだって」


 エルクが横から足した。


「クラウが書かなかったんだ。翼のある影までしか見てないからって」


「……分からぬままでよい」


 ゼルガはそう言った。


「分かったところで名は戻らぬ。戻らぬものを確かめて何とする」


 それから、ずいぶん長い間があった。


「……我らは、何を消したのだ」


 誰も答えなかった。


「止める役が止めなかったと、我らは決めつけた。空の護りの恥だと言うて名ごと削った。……その一羽が最後に何をしたかを、我らは確かめもせずに消したのだ」


 ミナが前へ出た。


「……ミナも、消したことあるって前に言ったでしょ」


 ゼルガの目がその小さな娘へ動いた。


「消した人はね。消した相手が何してたか知らないんだよ。……知ってたら消せないもん」


 閉じた翼の付け根が、一度だけ上下した。


 グリフが首を伸ばした。金色の目は老いた鳥のほうを向いている。


『その鳥、頼みに行ったんだな』


「……そう見えたと、この娘は言うておる」


『じゃあ逃げてない』


 グリフはそれだけ言って翼をたたみ直した。


「我に何をせよと言う」


「なんにも」


 エルクはあっさり答えた。


「知っててほしかっただけだよ」


「それだけか」


「うん。地上ではね、空の一族が責任取ればいいって言った人がいるんだ。……その話にすると、あの人の当番はそのままなんだよ」


「当番」


「あの人、ずっと一人で立ってるんだ。旧い国が終わってからずっと。誰にも代わってもらってない」


 ゼルガは遠い空を見た。


「……我らが背負うと言えば話は早かろう」


「早いけどさ」


 エルクは口ごもった。


「……なんか違う気がする」


「何が違う」


「分かんない。分かんないけど、それやっても一つも減らない気がするんだ」


 自分で言いながら形になっていなかった。ゼルガはそれ以上聞かなかった。


「ならば我は待つ」


 空の主は翼をたたみ直した。


「お前たちが何をするか見ておる。……今度は最後まで見る」


 国へ降りたのは昼になる前だった。


 ミナは地に足がついた途端に座りこみ、それから自分で立って板のほうへ歩いていった。書き入れる名がまだ残っている。


 エルクは入口の板に戻りの刻を書いた。書かないと数が合わなくなると黒銀に言われている。


 階段の下でライが待っていた。器を抱えている。


『測り直しました』


「今日も?」


『昨日と今日で同じところを三度ずつです』


 ライは針を灯りへ寄せた。


『濃さがそろっていないのは前から書いてあります。……そろっていなかったのは、濃い場所のほうでした』


「場所」


『いちばん濃いところが顔の真ん中ではありません』


 エルクは通路の奥を見た。灯りはそこまで届かない。


「顔を隠してるんだよね」


『隠れているのは顔です。ですが力を入れている場所が、顔の形と合っていません』


 ライはそこで言葉を切った。器を抱え直す動きが、いつもより短かった。


『今夜もう一度測ります。合っていないと書くのに、三度では足りません』


 何から守るために顔を隠すのか。それを言える者は、まだこの国に一人もいなかった。

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