第159話 見に行く側
中夜を過ぎるころに雪はやんでいた。
広場の踏み跡は一度消えてまた新しくついている。跡は入口のほうへまっすぐ伸びていた。途中で迷った形をしていない。
入口の脇だけが黒い。そこにだけ雪が乗らない。
その黒いところが、息のたびにゆっくり膨らんでは戻る。
「ドラゴ。起きてる?」
『起きてはおらぬ』
「起きてるじゃん」
竜は首を動かさなかった。鼻から抜けた息が湯気になって流れた。
「止めなかったんだ」
『書いてから行った。止める理由が我には無い』
「追わなくていいの」
『追えという決まりも無い。……我は数えぬ。数えるのは狼の役だ』
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入口の雪の中に、黒銀が沈むようにして伏せていた。背に落ちた粒がそのまま白く残っている。
『降りた者一。名は書いてある』
「見たの」
『書くのを見た。書き終わるまで待って、それから降りた』
板の筆は紐で吊るしてあった。凍っていて先が固い。エルクは掌で握って少し温めた。
「僕も書くよ」
『主が書くなら、止める謂れは無い』
「止めないんだ」
『書いて降りる者を止める決まりは、板のどこにも無い』
黒銀の首がわずかにこちらへ向いた。
『……戻る刻も願いたい。戻らねば数が合わぬ』
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階段を降りきったところに、昨日まで無かったものが置いてあった。
低い腰かけだった。板を三枚重ねただけの粗いものが壁沿いに二つ並んでいる。三つ目の脚をウーゴが叩き込んでいた。
「こんな時間に作ってるの」
「スワル、トコロ、イル」
「座るところ」
「ナガイ、ヨル、タツ、ダメ」
ウーゴは座面を掌で押してから、床との隙間へ薄い板を差し込んだ。
「イシ、ツメタイ」
「石から離すんだ」
「シタ、アタタカクナイ。ハナスダケ」
上の小屋でやったのと同じ手つきだった。厚くするのではない。冷たいものから離すだけだった。
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記録の間の手前で灯りが一つ揺れていた。
壁の前に鱗の背中がある。腰を下ろして尾を体の横へ回して畳んでいた。
その向かいに獅子が座っている。
どちらも何も言わない。灯りが一つきりなので、二つの影は壁の低いところで重なっていた。
エルクは腰かけを一つ引いてきてレオルの隣へ置いた。座った。
理由は聞かなかった。
しばらく芯の鳴る音だけがしていた。エルクは掌を灯りへ寄せて、指の先が温まるまでそのままにしていた。
先に喋ったのはレオルだった。
「……我は、三日黙って立っておった男だ」
「うん」
それだけだった。エルクは続きを促さなかった。
「黙って立てば穴は塞がる。塞がった穴は誰にも見えぬ」
「見えなかったね」
「見えなんだ」
尾の先が石を一度打った。
「その我が、他所の当番を数えるなと言うた」
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「並べれば立ちたくなるって言ってたよね」
「言うた」
鱗の長は長く黙った。灯りが一度細くなってまた戻った。
「自分のことだったのだ」
エルクは膝を抱え直した。
「我らの板は我らのぶんで手一杯だ。それは変わらん」
「変わらないんだ」
「変わらん」
レオルは壁のほうを向いたままだった。鱗の面は灯りを弾かずに沈んでいる。
「変わらんが、あれには休みの欄が一つもない」
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獅子が動いた。前脚をそろえ直しただけだった。
『……交代は、恥ではない』
エルクは横を向いた。
「今のライオ。交代は恥じゃないって」
レオルは獅子のほうを見なかった。見ないまま鼻から息を抜いた。
「獅子が言うたか」
「言った」
「……朝まで座っておった獣だ」
「今は中夜までだよ」
「知っておる。板にそう書いてある」
エルクは獅子のほうへ聞いた。
「じゃあ今は何の時間なの」
『書かれておらぬ時間だ』
「そこで何するかは」
『我が決める』
エルクはそのまま伝えた。レオルは短く鳴らすような息をした。
「……ならば我と同じだな」
休みの欄に名のある者が二つ並んで座っていた。板の上ではどちらも今夜ここにいないことになっている。
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通路の奥から板を負う音が近づいてきた。
「毛皮を二枚ですぞ」
「頼んでないよ」
「頼まれる前に置くのが物運びですぞ」
ダクトは一枚をレオルの下へ押し込み、もう一枚をエルクへ寄越した。
「掛けるより先に敷きますぞ。石は下から冷えますからな」
「灯りは足す?」
「足しませんぞ。芯を継ぎますな。……この長さなら朝まで保ちますぞ」
ダクトは灯りを床から拾い上げて、壁の窪みへ移した。影が下から上へ回って、座っている二人の足元だけが明るくなった。
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階段の上で板が二度鳴った。刻の合図だった。
降りてきたのは二人だった。外周を回り終えたケインと、紙を胸に抱えたエネ。後ろから小さいのが階段を降りてくる音もした。
「二人そろったので降りられました」
エネは自分から言った。
「枠に名前を入れてもらいました。数えるほうです」
「叩くほうはおれっす」
ケインは肩の雪を落として掌を擦り合わせた。
ノノは灯りの届く端で足を止めた。鱗の背中を見ている。
「いる」
「いるね」
「なんで」
「わかんない」
「ふうん」
それで終わりだった。ノノは腰かけの横を通って壁の前まで歩いていった。
ケインは壁の前で足を止めた。
「もう叩いたあとっすね」
「叩いてあります。三に四です」
エネは紙を灯りへ寄せて、先に降りた二人の打った点をたどった。二つ目までが短くて、三つ目までが長い。
「空き方は昨日と同じです」
「変わってねえっすね」
「変わってません。……変わってないことも書きます」
ノノは護符を握り直して階段のほうへ戻っていく。途中で一度だけ振り返った。
「うろこのひとも、みにきたの」
レオルは答えなかった。
ノノは答えを待たずに上っていった。待てない子ではない。答えはもう見たあとだという足の運びだった。
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明け方近くにミナが降りてきた。避難民の側の名を書き入れて回っている途中だった。
通路の腰かけを見て、それから壁のほうを見た。鱗の背中はまだ動いていない。
「……ずっといるの」
「ずっといるよ」
ミナは板を抱え直した。
「言わせるんじゃなくて、見に行くの。……ミナが言ったのはそれだけだよ」
「うん」
「当番の話をしたつもりだったんだよ。長の人が夜通し座る話じゃないよ」
「でもあの人、あの人なりに当番の話をしてると思うよ」
ミナはしばらく黙っていた。板の角を指で撫でている。
「……こわいね」
「なにが」
「言ったことが、ちゃんと聞かれてたこと」
階段の上ではもう朝の音がしていた。桶の鳴る音と雪を掻く音だった。
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地上は白かった。夜のうちにもう一度降ったらしい。
クラウは庇の下で写し帳を開いていた。
エルクは雪を払って隣に立った。
「長が降りた」
「知ってる」
筆は止まらなかった。
「板に書いてから降りた。まだ戻っておらん。書くのはそれだけだ」
「それだけ?」
「それだけだ」
「もうちょっとあるでしょ」
「あるな」
クラウは頁の端を指で押さえた。
「反対していた男が真っ先に降りた。書けば明日から美談になる」
「だめなの」
「美談になった行いは、次からやらんかった者が責められる」
筆の先を紙から離さないまま続けた。
「降りたくない者が降りなくてよい形にしておかんと、誰も本当のことを言わんようになる」
書かれたのは一行だった。名と刻と行き先。褒める語はひとつも入っていなかった。
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昼前に鱗の長が上がってきた。
板の前で足を止めて、しばらく欄を眺めていた。ソウが筆を渡した。渡すときに何も言わなかった。
「刻は増やさんな」
「増やさないわ。人がいないもの」
「増やせとは言うておらん」
レオルは筆を持ち替えた。爪の形に合わない筆だった。
「名を一つ入れよと言うておる」
ソウは枠の幅を指で測った。二人ぶんしか書けない幅だった。
「三人目は入らないわ」
「ならば我はどちらかと代わる」
「代わるのはいいけど、代わられた人はどうするの」
「休む」
ソウは筆の尻で休みの欄を叩いた。
「じゃあそこに書いてね。渡すときは渡した先の名を言うのよ」
「言おう」
鱗の指が枠へ字を入れた。はみ出した。板の上でいちばん大きくて、いちばん読みにくい字だった。書き終えてから息を吹きかけている。凍る前に乾かす手つきだった。
「反対はどうなったの」
「反対は反対だ」
レオルは筆を返した。
「だが立つ」
ソウは受け取った筆を袖で拭いてから帯へ挿した。それ以上は何も言わなかった。
板の下のほうで、うちの者の刻とうちの者でない者の刻が、初めて同じ幅で並んでいた。
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その日の夕方、メアが壁の前に立った。
いつもの三歩手前ではなかった。半歩だけ前に出ている。読めませんと先に言わなかったのも初めてだった。
灯りが揺れた。
メアの肩が小さく動いた。それから目を伏せた。
「……見えました」
「え」
「少しだけ」
声が細かった。
「読ませてもらったんじゃないです。……向こうから見せられました」
手を止めたら見えてしまうから塗り続けている。この子はそう言っていた。
その手が今日だけ止まった理由を、まだ誰も知らなかった。




