第158話 雪の当番
雪は夜のうちに膝の下まで積もっていた。
広場を仕切っていた縄は埋まり、畑の跡はどこが畝だったのか分からなくなっている。踏んだところだけが道になっていった。
エルクは縄の端を探して雪を掻いた。掘り出した縄は凍っていて、張り直すには一度ほどくしかない。
顔を上げると、地下の入口の脇だけが黒かった。雪が乗っていない。大きな背が緩く上下している。
その手前にノノが座っていた。夜のあいだに移ったらしい。護符が白くなっている。
「ドラゴ。そこ寝てたの」
『寝ておる』
「どけてくれたんだ」
『我は寝ておるだけだぞ』
「うん。それでいいんだよ」
「ここあったかい」
ノノは黒い地面の上で足を伸ばした。
「寒くないの」
「さむくない。まだこくじゃないもん」
毛布を抱えたエネが後から追いついてきた。
「連れて帰りますか」
「刻まで待つって」
「……あたしもいます」
エネは毛布をノノの背へ回した。
「エネは降りないの」
「降りられません。二人そろわないと名前を書けないので」
入口の板の叩きの枠は今日のところがまだ空いていた。
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当番小屋の前の板は庇の下へ寄せてあった。雪をかぶらせないためだった。
欄はもう上から順に潰してあった。昼の見回りの行が一つ消えて、その線が夜の側へ引き直されている。
「もう組んだんだ」
「降ってるあいだに組んだわ」
ソウは外套の肩の雪を払い落とした。筆はとうに置いてある。
「人は増えてないもの。増やしようがないでしょう」
メルが束を開いたまま横に立っていた。頁を戻す手はもう止まっている。
「……当たってうれしくないほうの予想でした」
「あー。去年のところに書いてあったやつだ」
「書いてありました。日の落ちるのが四半刻ずつ早くなります。夜の当番が一巡ぶん増えます」
「昼は減るんでしょ」
「減ります。畑が閉じたので昼の見回りは要りません。数だけ見れば釣り合っています」
「立つのは同じ人だけどね」
「そこは変わりません」
エルクは板の下のほうを見た。叩きの枠は消えていない。当番の欄から細い線が一本、そこまで引いてある。
「叩きは残ってる」
「切ったと書けって私が一昨日足したばかりよ。切るために書いたんじゃないの」
「じゃあ誰が降りるの」
「外周の二人。回り終わってから寄ってもらうわ」
線の先に小さく字が足してあった。新しい枠ではなく、順番だけを足したのだと分かる字だった。
「枠は増やしてないんだ」
「増やさないわ。……そのかわり刻が一巡ぶん遅くなるの」
エルクは入口のほうを見た。雪の上に小さい影が座っている。
「紙のほうはどうするの」
「紙のほうへは冬のあいだ人を出せないわ」
ソウはそこで初めて顔を上げた。
「クラウとライの二人ぶんだけ。それ以上は無いの」
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当番小屋の裏で木の音がしていた。
ウーゴが北側の壁へ板を当てている。
「サムイ」
「寒いね」
「イタ、フヤス」
「厚くするの」
「ムコウガワ、モウイチマイ」
内から手を当ててみると、その一枚のところだけ風が来なかった。
「全部やる?」
「ヨル、スワル、トコロ、ダケ」
立って作業をする側の壁には板を足していなかった。ウーゴは座る高さのところだけ測っていた。
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ダクトは薪を二つの山に分けていた。
「濡れたのと乾いたのですぞ」
「分けるんだ」
「濡れた薪は火が細くなりますからな。夜の小屋へは乾いたぶんだけ回しますぞ」
「昼は濡れたのでいいの」
「昼は人がおりますからな。火が細れば誰かが吹きますぞ」
ダクトは乾いたほうの束を背へ寄せた。
「夜は一人に火の番までさせてはいけませんぞ。手が塞がりますからな」
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夕方の四半刻の前に、当番小屋の前へ人が集まった。
立ったのはドレクだった。聞いているのは移ってきたばかりの三人と、板を抱えたミナだ。
「去年の……あー」
「門の話」
「そうだ。門の話だ」
ドレクは腕を組み直した。
「地下に門があってな。そいつが開きかけたんだよ」
「誰が開けたんです」
「開けてねえ。開けかけたんだ」
「だから誰がです」
「……おれじゃねえ。おれはその時ここにいねえもん」
そこで言葉が止まった。ドレクは自分の膝を見ていた。
ミナは口を挟まなかった。板を抱えたまま、聞いている三人と同じ側に立っている。
「うまく喋れねえな」
「うん」
「直せよ」
「直さない」
ミナは板の端を持ち直した。
「知らなかった人の話し方が、知らない人にはいちばん届くから」
椀を持った若い移住者が湯気の向こうから言った。
「雪の夜に何が来るんですか」
「来ねえよ」
「でしょう。おれ、ひと月立ってますけど何も来ませんよ」
ドレクは腕をほどいた。
「来ねえのが続くと、来たとき誰も立ってねえんだよ」
椀の湯気が揺れた。
「おれがそうだった、って話を今してんだ」
誰も笑わなかった。ミナは板の端を握り直しただけだった。
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夜の一つ目の交代のとき、ケインは戸に手をかけたまま止まった。
「あ」
振り返って小屋の中を見る。
「ケインっす。おれ上がります。……渡します」
「受け取った。ドレクだ」
ケインは息を吐いた。
「今の危なかったっすよ」
「危なかったか」
「そのまま出るとこだったす。寒いと足が先に出るんすよ」
ケインは戸の桟を指で叩いた。
「渡すときは渡した先の名を言う。受け取った者は受け取ったと名で言う。休みは当番と同じ欄に書く。……三つしかないのに忘れるんすから、おれ」
「忘れなかった」
「忘れかけたっす」
クラウは筆を取った。
「じゃあ忘れかけたと書く」
「書くんすか。何も起きてないっすよ」
「忘れなかった夜だけ並べると、忘れかけた夜が無かったことになる」
クラウは板の下の細い行へ書き足した。
「三月もすれば、冬は誰も忘れなかったという話になるんだ」
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小屋の中は狭かった。板が一枚厚くなったぶん、風は背中へ回ってこない。
エルクは膝を抱えて掌を火にかざしていた。指の先だけがいつまでも冷たい。
「これ、去年よりつらいね」
「去年は雪が浅かったわ」
「そうじゃなくて」
エルクは足を組み替えた。
「何も来ないのがいちばんつらいや」
クラウが顔を上げた。
「今の、書いていいか」
「書くの?」
「つらいと言った者がいたと書く」
筆はすぐに動きだした。
「去年は誰も言わんかった。言わんかったから、去年のところは何も無かったことになってる」
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門の内側でライオが座っていた。
背に雪が積もっている。払っていない。
「寒くないの」
『日暮れから中夜までだ』
「うん」
『雪は持ち場を変えぬ』
鬣の上の白がわずかに落ちた。それだけだった。中夜になれば誰かが来る。板にそう書いてある。
エルクは何も言わずにそこを離れた。
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従魔小屋の軒の下にグリフがいた。翼を体へ寄せている。
『今日は飛ばない』
「吹雪だもんね」
『雪が横から来る。目が開かない』
グリフは首を軒の外へ出して、すぐに戻した。
『飛ばない日も書け』
「書くよ」
『鳴かない日を書くと決めたのは俺だ。飛ばない日も同じだ』
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外周の二人が降りてきたのは、刻がひとつ回ったあとだった。
入口で名を言い、板へ書いてから階段へ入る。回り終わってから来ているぶん、二人とも肩に雪を乗せたままだった。
壁の前の卓には紙が広げてある。今夜そこに座る者はいなかった。
三回叩いた。
返りは四つあった。
「減ってる」
「減っておらん」
クラウは紙の欄を指で押さえた。
「昨日は三だ。三に一つで四だ」
「昨日は五だったよ」
「一昨日が四だったからだ」
筆が点を四つ打った。
「合っている」
二人は数を書き終えるとすぐ階段を上がっていった。上で交代が待っている。長く座っていられる者はいなかった。
エルクは灯りを床へ置いて、壁の下へしゃがんだ。
「今日はあの子来られないんだ」
返事はない。
「刻が変わったんだよ。夜が長くなったから、みんなが立つ順番も動いたんだ。……こっちの都合でごめんね」
黒い顔は灯りを吸ったまま何も返さなかった。
エルクは灯りを持ち上げて階段へ向かった。
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スラが階段の口で伸びたり縮んだりしていた。
『昼のぶんは寝かせたッスよ』
「誰を」
『今夜立つ人ッス。昼に藁を積んで、そこで寝てもらったッス』
「起きてこない人いない?」
『二回ゆすったッス。ゆすっても起きない人は、夜も無理ッスもん』
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地上へ出ると板の前に人が集まっていた。
休みの欄にはみ出した字が入っている。レオルの字だった。この半年で見慣れている。
「休みでしょ、これ」
「休みなんすけど、どこにもいねえんすよ」
ケインが板の縁を指でなぞった。
「岩にも小屋にもいねえっす。ほかの鱗の連中も見てねえって」
ソウが庇の下から出てきて、雪の上の足跡を見た。跡は広場を横切って、そこから先は新しい雪に消えている。
エルクは入口のほうへ歩いた。
黒い地面で大きな背がゆっくり上下している。
「ドラゴ。誰か通った?」
『通ったぞ』
「いつ」
『さきほどだ。……名を書いてから降りていったのだ』
入口の板を灯りに寄せた。当番の欄でも休みの欄でもないところに、一行だけ増えている。
地下へ降りる、と書いてあった。
降りるときに名を言う決まりはある。降りた者を追ってはいけないという決まりは、板のどこにも書かれていなかった。




