第157話 拍で話す
六晩目の壁の前は人より道具のほうが多かった。
灯りが三つ。紙の束が二つ。壁の高いところと低いところに糸が一本ずつ渡してある。床には器が二つ置いてあって、座る場所を探すのに手間がかかるようになっていた。
クラウは膝の紙のいちばん上を指で押さえていた。そこに一行だけ書いてある。
「返してはいるが、合わせてはいない」
「なにそれ」
「今日まで消せていない言い分だ」
クラウは紙をめくらなかった。
「石が返しているだけかもしれん。叩けば返る仕掛けなら、こっちが何をしても同じだけ返る。……これを消せるまでは、話をしていると書かん」
「消すために書くんだ」
「消せなかったら、それが答えだ」
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試したのは数だった。
三晩続けて三回叩いた。返ってきたのはどの晩も四回だった。四つの空き方は初めの晩と同じで、一度も崩れなかった。
四晩目に数を変えた。四回叩いた。
返ってきたのは四回のままだった。
「変わんないじゃん」
「今夜はな」
五晩目の返しは五回だった。六晩目も五回だった。
クラウは紙の端に短い線を引いた。
「一晩遅れてついてくる。ついてきたあとは必ずこちらより一つ多い」
「一つ多いんだ」
「多い。……理由は書けん」
「書けないの書くの?」
「書く。一つ多いとだけ書く」
クラウは最初の紙を裏返して、表の一行に線を引いた。仕掛けなら数を変えた翌晩から変わるはずだった。一晩置いてからついてくる仕掛けを、この男は見たことがなかった。
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『三つに分けました』
ライが器の横へ紙を三枚ならべた。
『長いもの。短いもの。それから打っていない間です』
「打ってないのも数えるの」
『間の長さがそろっています。そろっているものは書けます』
ライは三枚の順を入れ替えて、また元へ戻した。
『意味はまだ分かりません。……分けたところまでを書きます』
「分けただけじゃ分かんないんだよね」
『分けないと数えられません。数えないと増えたのか減ったのかも分かりません』
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クラウは数字をやめた。
写し帳の新しい頁に、板と同じ縦線を三本引く。長いものを上の欄へ、短いものを下の欄へ、間はそのあいだへ書いた。
書き終えてから、紙を遠ざけて見た。
「散らばってない」
「なにが」
「かたまりで来てる。かたまりとかたまりのあいだがいつも同じだけ空いてる」
「なんかの言葉ってこと?」
「言うな」
クラウは筆を置いた。
「まだ書いてないことを口で言うと、明日にはみんなそう思って見にくる。……欄に落として形が出ただけだ。今日はそこまでだ」
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糸の張り直しは低いほうからだった。
「端っこ! こっち!」
ラネが糸の先を押しつけてきた。
「持てばいいの」
「動かさないでよ!」
高いほうの糸にはアラーネが指を添えていた。
「なんで二本いるの」
「高さで鳴り方が違うのよ~。低いほうは床を伝ってきたぶんまで拾っちゃうから~」
「じゃあ高いほうだけでいいじゃん」
「両方が鳴った時だけ本物ってことにするのよ~」
アラーネは指を離して、糸の下をくぐった。
「糸は聞こえないものが触ると鳴るのよ~。人の耳より正直よ~」
「耳って正直じゃないんだ」
「聞きたいものを聞くもの~」
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メアはこの日は壁を見るのをやめて、床へ座った。膝を抱えて灯りのほうを向いている。
「読めません」
「今日も?」
「今日もです。……たぶんこの先もです」
「先のこと分かるんだ」
「分かりません。分からないので先に言っておきます」
メアは灯りから目を動かさなかった。
「人じゃないからじゃないです。人じゃないものの気持ちは前にも読みました。……あの人は読ませてもらえないんです」
「読ませてもらえない」
「見られるのを我慢してるんじゃないんです。見せないのが仕事なんです」
エルクはしばらく黙っていた。
「じゃあ僕らのしてることってけっこう失礼かも」
「失礼だと思います」
メアは間を置かずに答えた。
「でもやめたほうがいいとは言ってません」
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エルクは解読の輪には入らなかった。
紙が読めないし、数も追えない。灯りの届く端に腰を下ろして、それから喋りはじめた。
「今日ね、芋掘ったんだ。ぬかるんでてさ」
誰も返さない。
「最後の畝だったんだよ。もう掘るとこないんだって。……来年まで土をいじらないの、僕けっこう寂しいんだよね」
クラウの筆は止まらなかった。ライは数を書いていた。エルクはそのまま喋っていた。芋の話が終わると小屋の屋根の話になり、屋根の話が終わるとウーゴが直した階段の三段目の話になった。誰も聞いていないし、誰も止めなかった。
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決まった刻に叩き当番が二人降りてくる。叩く者と数える者だ。その後ろに小さいのがついてきた。
ノノは当番へ自分で名前を言ってから通る。
「きょうもたたく?」
「叩くよ。ノノがやる?」
「ノノがやる」
三回叩いた。五回返った。
ノノは驚かなかった。返るものだと思っている顔だった。叩き終えると護符を握り直して、来た道をそのまま帰っていく。
スラが階段の下まで送っていった。
『暗いとこ一人で歩かせたらだめッスからね』
エルクは階段の下を覗き込んだ。
「偉いね」
『おいらも一人だと嫌ッスもん』
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入口ではウルが伏せていた。
『昨日の刻に来たぞ』
「誰が」
『あの子だ。……大人は来なんだ』
エルクの足が止まった。
「昨日は当番いなかったの?」
『薪を割る手が足りぬと上へ呼ばれた。二人ともだ』
ウルは顎を前脚へ乗せ直した。
『あの子は刻に来て名を言うた。数える者がおらなんだ。……しばらく立って帰った』
「叩きはどうなったの」
『クラウとライが刻に叩いた。あの子が帰ったあとだ』
エルクは入口の板を見た。叩きの枠は当番の欄の端に足したままで、二人ぶんの名しか書けない幅しかない。昨日のところは空いていた。
『主』
「なに」
『まだ言わぬ』
「もう何回も降りてるじゃん」
『主が見たのは壁だ』
黒銀の耳が一度倒れた。
『あの者を見てから言う。……壁を見た数では足りぬ』
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地上へ上がると、ソウが板の前で数を数え直していた。
「昨日の叩きの枠が空いてたよ」
「知ってるわ。私が薪へ回したの」
「なんで」
「薪が要るからよ」
ソウは筆の尻で欄を叩いた。
「今この板で立てる人数は決まってるの。地下へ二人出すと、そのぶんどこかが薄くなるわ。薄くなるとどうなるかは去年やったでしょう」
「やった」
「やったのよ。だから戻さないの」
ソウは板の下へ細い字で一行足した。叩きの当番を切った日は切ったと書くこと。
「切るのも書くんだ」
「切ったことを忘れるから、次に増やしすぎるのよ」
筆を置く音がした。
「切ったと書いてあれば誰かが多すぎると言いに来るわ」
「来るかな」
「来なかったらそれも書くの」
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ダクトが階段の口で紙を積み替えていた。
「増えましたな」
「三つになった?」
「昼と夜と拍のぶんですぞ。……端を切るだけでは足りませんな。拍のぶんは角をふたつ落としますぞ」
「触って分かる?」
「落ちた角の数を数えればよろしい。ひとつなら夜、ふたつなら拍ですぞ」
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その夜のライは器を据えたまま長く残った。
叩きは終わっている。数も書き終えている。それでも針が細かく揺れていた。
壁の下ではエルクがまだ喋っていた。今度は去年の雪の話だった。
『主』
「なに」
『そのまま喋っていてください』
「なんで」
『いま針が動いています』
ライは頁を新しくした。
『叩いていません。誰も何もしていません。……喋っている間だけ細かく動きます』
「僕の声が響いてるんじゃないの」
『響きなら止めたあとも残ります。これは止めると止まります』
エルクは口を閉じた。針が落ち着いた。
もう一度喋った。針がまた動いた。
二人ともしばらく何も言わなかった。先に手を動かしたのはライだった。
『喋っているあいだ拍が細かくなると書きます』
「意味は」
『分かりません』
「分かんないんだ」
『分かりませんが、これは今夜あったことです』
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地上へ出たら明るかった。夜明けにはまだ間があるはずだった。
降っていた。
広場も屋根も畑の跡も白い。足を出すと沈んで、沈んだところが音を吸った。
当番小屋の前でメルが束をめくっていた。頁を戻す手が早い。
「去年のところですね」
「なんて書いてあるの」
メルは指で押さえた行を読み上げた。
「雪が降って夜が長くなるころです。畑が閉じて仕事は減るのに、当番の数だけは同じだけ残ります」
「それ言ったね」
「言いました」
メルは束を閉じずに持ったままだった。
「今日から刻が二つ増えます。……地下の叩きはそのままでは残せません」
雪の向こうから小さい影が歩いてきた。護符が揺れている。決まった刻にはまだ間があった。
ノノは入口のほうを向いたまま、雪の上へ座った。
その刻に降りられる者を、板はまだ一人も持っていなかった。




