第156話 叩き返した子
朝の霜は昨日より厚かった。
地下の入口ではミナが板を抱えて立っている。もう一人の当番は若いリザードマンだった。名を言うたびにミナが順に書き入れていく。
「エルク」
「ライも」
「ライも書くよ。……ライって字にすると短いから助かる」
ミナは筆先を舐めずに書いた。舐めると滲むと誰かに教わったらしい。
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入口の脇にウルが伏せていた。横を通ると顔だけが上がった。
「ゆうべの、まだ怒ってる?」
『怒ってはおらぬ』
「じゃあなんで唸ったの」
『今日は言わぬ』
前脚をそろえ直す音がした。
『主が下を見てからにする。……見る前に言えば、主は言葉のほうだけを覚える』
「難しいこと言うね」
『順番の話だ』
ウルはそれきり顎を前脚に乗せた。降りていく者の数を数える顔になっている。
『入った者五。出た者まだ無し』
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入口の外の岩のあいだで大きな体が動いた。
ノノが足を止めた。エネの手を握り直している。
『通るのだな』
「ドラゴだよ。どいてくれるって」
竜は首を横へ倒しただけだった。ノノはその前をゆっくり通り抜けて、通り終えてから振り返った。
「おっきいのに、なんにもしないね」
『……そう書いてあるのだ』
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通路は前より明るい。高いところに灯りを足したのは先月だった。下から三段目の板だけが新しい色をしている。
ノノは階段の途中で一度止まった。
「こわい?」
「こわいよ」
「戻ってもいいんだよ」
「もどらない」
握った手は離さないままだった。去年この入口は、この子が見ただけで泣いた場所だった。
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記録の間では松明が全部灯っていた。
黒い顔は今日も灯りを吸っている。ライが壁の下に器を据えて、それから壁へ向かって短く魔力を送った。
『呼びました』
「返事は」
『ありません』
ライはもう一度送った。強さを変えて三度やって、三度とも何も起きなかった。
『届いていないのか、届いていて返さないのかが分かりません』
「どっちだと思う」
『思うだけなら書けません』
ライは器の針を直した。
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メアは壁の三歩手前に立っていた。手は体の脇へ下ろしたままだった。
「……何も来ません」
「いない感じ?」
「いない感じではないです。返事がないだけです」
「それ、けっこう違うよね」
「違います」
メアはそこで口を閉じた。言えるところまでしか言わない癖がこの子にはついている。
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大人が数を読んでいるあいだ、ノノは通路の入口のあたりまで戻っていた。
退屈していた。横でスラが伸びたり縮んだりしている。
『これ鳴るッスよ』
スラが壁を打った。ぱん、と乾いた音がした。
「ノノもやる」
小さい手が壁を三回叩いた。広場でやっている遊びと同じ数え方だった。
三つ返ってきた。
『まねっこッス! おいらさっき二回やって二回返ってきたッス!』
「まねっこするの」
ノノはもう一度叩いた。また返った。
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エネは柱のところに立っていた。
止めなかった。呼びにも走らなかった。指を折って数えていた。
十度めが返ってから、ようやく壁のほうへ歩いてきた。
「あの。ノノちゃんが叩いてます」
「うん」
「三回叩いたら三回返ってきました。……数えてから言いに来ました」
「数えてから?」
「はい。一度きりだと、あたしの聞き間違いになるので」
エルクは器のほうを見て、それから通路のほうを見た。
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走らなかった。
通路まで歩いていって、ノノの横にしゃがんだ。同じ高さから壁を見る。壁はどこも同じ壁だった。
「もう一回やってみて」
ノノが三回叩いた。
三回返った。
「あ、ほんとだ」
エルクは頭のうしろを掻いた。
「まねっこだね」
「まねっこするんだよ」
ノノは手柄の顔をしていなかった。面白いものを見つけた顔でもなかった。壁とはそういうものだと思っている顔だった。
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ラネが糸を抱えて降りてきた。
「ちょっと! そこ持ってて!」
「ここ?」
「ずれたら台無しなんだからね!」
壁へ当てた糸の端をエルクが押さえた。ノノがまた叩く。糸が短く震えた。
返しが来るときにも震えた。二度目の震え方は一度目と違っていた。
『こちらの音が反ったものではありません』
ライが器を糸のそばへ寄せた。
『石を伝う音なら間はもっと詰まります。……向こうは間を空けています』
「間を空けるって」
『待ってから返しています』
ノノがもう一度叩いた。糸がまた震えた。数えているのはエネだった。
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ダクトが紙を抱えて上から降りてきた。
「増えますな」
「増えるね」
「灯りも足しますかな。暗いと手元が見えませんぞ」
「じゃあ足して。ノノがいるし」
「では二つ」
ダクトは灯りを二つ据えてから、紙の端を指で確かめて上へ戻っていった。
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地上へ出たのは日が高くなってからだった。
板の前にもう人が集まっていた。話のほうが先に上がっていたらしい。
「それ、広場のやつと同じっすよね」
ケインが親指で子供らのほうを指した。
「三つ叩いて三つ返すやつ。あの子いつもやってるじゃないっすか。……壁が返したんじゃなくて、遊びを持ちこんだだけって話になりませんか」
「なる」
クラウはあっさり答えた。
「なるんすか」
「今日の話だけならな。だから今日のを根拠にはせん」
写し帳を開いて筆を取る。
「根拠は要らん。数えた記録がある。三回に三回返した。数えたのはエネだ。……それだけを書く」
「書いてどうするんすか」
「明日また数える。明日も同じなら、遊びでは説明がつかん」
ケインは口を尖らせて、それから思い出したように言った。
「……去年それで一回黙らされたんすよね、おれ」
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レオルは日の当たる岩の上にいた。腹側の鱗がゆっくり上下している。
「返したものが何かは分かっておらんな」
「分かんないよ」
「ならば話をしているのではない。真似をされているだけかもしれぬ」
レオルは目を開けなかった。
「真似は石でもする」
「石は待たないよ」
エルクは指で膝を三回叩いてみせた。
「あの人、待ってから返すんだって。ライがそう言ってた。……待つのは、返すつもりがある人だけでしょ」
レオルは何も言わなかった。否定もしなかった。
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ソウが板の前に立った。
「叩く刻を決めるわ」
「決めるの?」
「ばらばらに叩いたら、返ってきたのが返事なのか分からないでしょう。こっちが決めた刻に、決めた数だけ叩くのよ」
筆で当番の欄の端に細い枠を足した。欄が増えたわけではない。枠の中はまだ空だった。
「じゃあ僕が毎晩――」
「一人で?」
ソウは顔も上げなかった。
「叩くのも当番よ。二人ずつ。名前を書いてから叩くの」
「二人で叩いたら分かんなくならない?」
「叩くのは一人。もう一人は数える人よ」
エルクは頷いた。自分が言いかけたものが何だったのかには気づいていなかった。輪の外でウルの耳が一度こちらへ倒れた。
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ミナが枠を覗きこんだ。
「名前を書いてから叩くんだね」
「そうよ」
「じゃあ、いつもと同じだ」
ミナは板を抱え直して当番小屋のほうへ歩いていった。夕方の四半刻の前に、聞く者が今日は二人いるらしかった。
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物置裏の草地では、ノノが子らに囲まれていた。
「かべがね、まねっこするの」
誰も信じていない顔をしていた。年上の子が笑った。
ノノは怒らなかった。
「じゃあ、あしたきいてみればいいよ」
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従魔小屋の脇でアラーネが糸を巻き取っていた。五日ぶんの張り替えの日だった。
「地下にも張るの?」
「張ってもいいけど、張ったら誰かが見に行くのよ~」
アラーネは巻いた糸を肩へ掛けた。
「張りっぱなしにして忘れるくらいなら、張らないほうがましだわ~」
「じゃあ、叩く人が見るのはどう」
「それなら生きるわね~」
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その夜、ライは決まった刻に降りた。
器を据えて数を書いてから、板に書いてあるとおり壁を叩いた。三回。数えるのはクラウだった。
返ってきたのは四回だった。
クラウの筆が止まった。
「四だ」
『四です』
ライはもう一度叩いた。三回。
返ってきたのはまた四回だった。
「数を間違える相手じゃないな」
クラウは紙に点を四つ打った。打ちながら手が遅くなっていった。
四つの空き方が、均等ではなかった。
二つ目までが短い。三つ目までが長い。最後の一つはまた短い。
クラウはその並びをしばらく見ていた。板を見に行くまでもなかった。
地上の当番の刻みと、同じ間隔をしていた。




