第155話 誰も数えなかった当番
卓の上の二枚は朝からそのままだった。
誰も片づけない。ソウが写しを置いてから、クラウは一度も座り直していなかった。人が集まってきたのは、この男が動かないからだった。
「呼んどいて黙るの、やめてくれる?」
ソウが板の縁を指で叩いた。
「合わせ方を変えてる」
クラウは板と紙の端を指でずらした。
「頭を合わせる。尻を合わせる。……下がった刻同士を合わせる」
三つ目でずらす手が止まった。
「どれでやっても、同じところで重なる」
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エルクは横から覗きこんだ。数字は上から下へ流れていくばかりで、どこを見ればいいのか分からない。
「重なるとなんなの」
「たまたまで済まなくなる」
クラウは筆の尻で板の欄をなぞった。
「形が似てるだけなら、並べ方をずらせば崩れる。崩れずに戻ってくるなら、向こうにも決まった刻みがあるってことだ」
「刻の数がおんなじってこと?」
「数は違う。形が同じだ」
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ケインが板の上へ首を伸ばした。
「そんなの偶然じゃないっすか」
指の先で紙をつつく。
「四つ五つ並べりゃ似た形なんていくらでも出ますよ。おれ去年やりましたもん。作付けの表と天気の表を重ねたらぴったり同じ形になって、そのあと三年ぶん並べたら全然ちがったっす」
「重ねる相手を先に決めてから並べたなら、そうなる」
クラウは紙をもう一枚めくった。
「こっちは決めてない。並べてから気づいた。……十日ぶん一度も外れていない」
ケインは口を尖らせたが言い返しはしなかった。並べる前に決めるなという話は、この男が去年さんざん聞かされたことだった。
クラウは板を裏返して、また表へ戻した。顔を上げるまでに間があった。
「これは癖じゃない。……当番だ。誰かが決めた刻みで、誰かが立ってる」
誰も動かなかった。焚き火の枝が小さく鳴っただけだった。
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エルクは二枚を交互に見ていた。字を追うのは初めから諦めている。それでも指は一か所で止まった。
「休みがないじゃん、これ」
「どこを見て言ってる」
「そっちの板は休みの欄があるでしょ。……こっちの紙、立ってるとこと下りてるとこしかないよ」
クラウは指されたところへ目を落とした。
「下りてるのが休みじゃないのか」
「ちがうよ。下りたら必ずまた立ってるもん」
エルクは紙の端を指でたどった。
「休みってさ。次に立たなくていい日のことでしょ」
クラウは筆を取らなかった。すぐそこに置いてあるのに、しばらく手を伸ばさなかった。
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メルは束の後ろの頁で筆を走らせていた。
「延びています」
「なにが」
「下りている時間です。十日で少しずつ長くなっています。……一日ぶんにすると、ほんのわずかです」
「じゃあ平気なんじゃないの」
「わずかなものは足せます」
メルは数の下へ細い線を引いた。
「このまま延びると次の冬あたりで足りなくなります。……足りなくなったらどうなるかは分かりません」
「分かんないんだ」
「分かりません。分からないと書いておきます」
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ソウは写しの前から動かなかった。
当番の欄は去年より三割少ない。休みの欄にははみ出した字で名前が入っている。そのすぐ下に、休みの一枠もない十日ぶんが並んでいた。
「うちは減らしたのよ」
「うん」
「回らないから減らしたの。回る量が正しい量なの。……私がそう言ったのよ」
ソウはそこで黙った。続きは言わなかった。
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その日から呼び方が変わった。誰も決めていない。塗ってる人という言い方が、いつのまにかあの当番になっていた。クラウは写し帳の右の欄をひらいて、空白のいちばん上へ一行だけ足した。名前ではない。刻みの形が書いてあるだけだった。
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岩のあたりで鱗が鳴った。
「他所の当番まで数えるのか」
レオルは座ったままだった。
「我らの板は我らのぶんで手一杯だ。……冬だぞ」
返す者はいなかった。
「減らしてなお回らぬと、ソウが今しがた言うたばかりだ。そこへ他所の刻まで並べてどうする」
「並べるだけならできるよ」
「並べれば立ちたくなる」
レオルはようやくこちらを向いた。
「数えたものは放っておけぬ。数えぬうちは他所の話だ。数えた翌日から、それは我らの欠けた枠になる」
エルクは少し考えてから頷いた。
「うん。たぶんそうなる」
「分かっていて数えるのか」
「数えるよ。……数えないと、あの人がいつ立てなくなるかも分かんないもん」
レオルは目を細めた。それきり口を開かなかった。
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決まったのは二つだった。
数えるのは続ける。手を出すかどうかは今日決めない。
「決めないのを決めるの?」
「決めていないと書く」
クラウは筆を紙から離さずに言った。
「書かんと決めたことにされる。……三月もすれば、誰かが去年から手を出す約束だったと言い出す」
「言い出さないよ」
「言い出すんだ。俺が去年そうなった」
鱗の長が低く応じた。
「……それでよい」
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昼過ぎに地下へ降りた。
階段の途中で木を刻む音がしている。下から三段目にウーゴがしゃがんでいた。
「ダン、クズレタ」
「どこ」
「ココ。ハシ、カケタ」
言われた場所へ足を乗せると端がわずかに沈んだ。毎晩ここを通っている者は、誰も気づいていない。
「誰かに言われたの」
「イワレテナイ」
「じゃあなんで分かったの」
「マイニチ、トオル」
ウーゴは新しい木を当てて長さを見ていた。
「書いとくね」
「カク」
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ダクトが下から上がってきた。背の板に紙が挟んである。角の切れているぶんと切れていないぶんが分けてあった。
「上へ運びますぞ」
「今日、多くない?」
「刻がふたつ増えましたからな。減らしてよいと言われるまでは運びますぞ」
「言わないよ」
「では増えたままで結構ですぞ」
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記録の間ではライが器を据えていた。
『昨日と同じ刻に下がりました』
「ぴったり?」
『半刻ほど早いです。早かったと書きました』
ライは数を書き終えてから顔を上げた。
『上では何が決まりましたか』
「当番だって」
『当番』
「クラウがそう言ってた。誰かが決めた刻みで誰かが立ってるって」
ライはしばらく黙っていた。それから器の縁の針をまっすぐに直した。
『では明日も同じ刻に来ます』
「毎晩来てるじゃん」
『来ている刻を揃えます』
「なんで」
『当番なら、行けば会えるかもしれません』
エルクは壁を見上げた。灯りを向けても黒はやはり何も返さない。見ているだけでは、昼も夜も同じ顔をしていた。
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日が傾いてからライオが門の内側の定位置についた。
日暮れから中夜までと板にある。以前は朝までそこに座っていた獅子だった。
横を通ると、たてがみが少しだけ動いた。
『上で何を話しておった』
「休みのない当番の話」
ライオはしばらく前を向いていた。
『中夜になると誰かが来る。それだけのことが、どれほど楽か知ったのは今年だ』
「代わってもらうの、嫌じゃなかった?」
『嫌だった』
鬣が一度ふるえた。
『嫌だったが、翌日も座れた。……そちらのほうが持ち場のためになる』
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夕方の交代の前に、ミナが当番小屋の前で四半刻ぶんの話をしていた。聞いているのはドレクひとりだ。
通りかかったときに耳へ入ったのは地下の話ではなかった。去年の門の話をしていた。
終わってからドレクが板の写しを覗きこんだ。
「これが、下にいるやつの表か」
「表じゃないよ。数えたやつだよ」
「同じだろ」
「ちがうの」
ミナは首を振った。
「表は書いた人がいるでしょ。これは書いた人がいないの。こっちが勝手に数えただけ」
ドレクは腕を組んだ。
「じゃあ、そいつは自分の当番の表を見たことがねえのか」
誰も答えなかった。
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広場では子供らが手を叩いて数を数える遊びをしていた。三つ叩いて三つ返す。合わなかった者が笑われている。ノノは護符を揺らしながら真ん中でいちばん大きな音を出していた。
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夜になっても板の写しは卓に出したままだった。
休みの欄の下に、休みのない十日ぶんが並んでいる。エルクは焚き火のそばに膝を抱えて、それをずっと見ていた。
隣でウルが体を起こした。エルクがまだ何も言わないうちだった。
「……あのさ」
『主』
「まだ何も言ってないよ」
『言う顔をしておる』
エルクは焚き火のほうへ手をかざした。声はいつもどおり気が抜けていた。
「じゃあさ。僕がずっと代わりに立つよ」
低い唸りが喉の奥で鳴った。
「僕、夜けっこう平気だし。誰かが立たなきゃいけないなら僕でいいじゃん」
唸りは止まらなかった。この唸り方をされるのは三度目だった。
「え、なんで。今度は肩代わりじゃないよ」
エルクは向き直った。
「ちょっと代わってあげるとかじゃないもん。ちゃんとずっとやるんだから。……ずっとやるなら、あの人もう立たなくていいでしょ」
ウルは答えなかった。
黒銀の耳が伏せられている。焚き火の向こうでクラウの筆が止まっていた。
自分の言ったことのどこがまずいのか、エルクにはまだ分かっていなかった。




