第154話 黒が薄くなる夜がある
四日目の朝、卓の上に数が四つ並んだ。
広場の端では芋の蔓を束ねる音がしている。畑はもうほとんど閉じていた。壁の板の今朝の欄には、いつもどおり二人ぶんの名前が入っている。
紙を書いたのはライだ。三つの欄の頭に日付が足されている。字は小さくてよく揃っている。エルクはそれをさかさまに持ちかけてクラウに直された。
『一日目と二日目はほとんど同じです』
ライは空の器を卓の端へ置いた。
『三日目だけ低いです。同じ場所で二度測って、二度とも同じ数でした』
「四日目は」
『戻りました。一日目と同じところまで』
「戻ったのか」
『戻りました』
クラウは筆の尻で紙の端を押さえた。
「薄くなった黒が、勝手に濃くなったってことか」
『はい』
「そんな黒は聞いたことがない」
『私もありません』
---
「魔力の揺れじゃないんすか」
ケインが後ろから首を伸ばした。
「地面の下でしょ。息するみたいに濃くなったり薄くなったりするもんじゃないんすか」
『脈は揺れます』
ライが別の紙を出した。
『ですが揺れ方は日によって形が変わります。同じ形では並びません。……これは同じ形で並んでいます』
エルクはケインのほうへ顔を上げた。
「脈も揺れるけどさ、揺れ方は毎日ちがうんだって。これは同じ形で並んでるって」
「じゃあ、これは」
『刻がほとんど動きません。夜のいちばん深いところです』
「時間もほとんどずれないってさ。夜のいちばん深いとこ」
ケインは数字を目で追って、途中であきらめた顔になった。
エルクは横から紙を眺めていた。読めてはいない。
「それさ。寝てるんじゃないの」
「寝てる」
「うん。夜だけ薄くなるんでしょ。……寝たら手は止まるじゃん」
クラウは筆を持ったまましばらく動かなかった。
「誰の手だ」
「知らないよ。そこまでは分かんない」
---
輪の外でウルが体を起こした。
『そろった』
「なにが」
『数だ。……そろってから言うと申した』
ウルは輪へは入ってこない。伏せたまま首だけを上げた。
『外周を回るたび、地の底の気配を数えておった。夜ごとに一度、薄れる刻がある』
「気配って数えられるの」
『我は数えられる。……近ごろ、薄れておる時間が長い』
クラウの筆が動いた。
「いつからだ」
『夏の終わりからだ』
「そんな前から!?」
エルクが丸太から腰を浮かせた。
『言わなんだ』
黒銀の耳が一度だけ倒れた。
『去年の我なら、そろうまで黙っておった。そろわぬまま忘れておったやもしれぬ』
「じゃあ今は、なんで言えたの」
『板に我の名が載っておる』
尾の先が一度だけ床を打った。
『外周ひと回りと書いてある。ふた回りは書いてない。書いてあることから外れた夜だけ、我は喋ればよい。……喋る先が決まっておると、覚えておける』
クラウは書き終えてから顔を上げた。
「今のは書くぞ」
『書け』
---
昼前にグリフが降りてきた。風切羽に霜の粒をつけたままだった。
『地下の入口の霜だ』
「霜?」
『溶け方が違う。端から溶ける朝と、真ん中から先に溶ける朝がある』
「いつから見てたの」
『毎朝見てる。書いてた』
グリフは首を振って粒を落とした。
『鳴かない日も書けと言うたのは俺だ。……書いた中に混じってた』
クラウは帳面を繰った。地下の記録に霜の話は一行もない。
「空の欄に書いたな」
『空だからな』
「……欄が違うと並ばん」
クラウはそこを線で囲んだ。囲んだだけで、まだ何も動かさなかった。
---
糸の張り替えは五日に一度と決まっている。
アラーネは地下の入口に渡した一本を指先で弾いた。
「乗ってるわね~」
「なにが」
「湿り。黒っぽいのが乗る日があるのよ~。乗らない日もあるわ~」
「拭いといたほうがいい?」
「拭かないわよ~。糸はね、乗ったものを覚えてるのよ。拭いたら忘れちゃうでしょ~」
下の段からラネが糸束を引き上げてきた。
「三本目だけ重いわよ!」
「どれが三本目?」
「いちばん奥に決まってるでしょ!」
ラネは束を押しつけて先へ行ってしまった。アラーネが笑って肩をすくめる。
「五日で張り替えるから、覚えていられるのも五日ぶんね~」
「じゃあ、五日ぶん教えて」
「三日おきに重いわよ~」
---
午後、クラウは卓に三つの帳面を開いた。
ライの数字。ウルの数え。糸の重さ。書いた者も書き方も違う。指している刻だけが同じところへ落ちた。
通りかかったソウが板の写しを一枚、その横へ置いた。
「なんで置くの」
「並べるものは全部並べておくのよ」
「これ、関係ある?」
「知らないわ。……関係ないって分かるのも、並べてからでしょう」
ソウは卓の端の紙を指で押さえて位置を直した。
「畑が閉まったわ。人が余ると思うでしょう。余らないのよ。夜が長くなるぶん、刻のほうが先に増えるの」
地上の当番表は少しずれて黒の紙と重なった。誰もそこを直さなかった。そのときは、誰も見ていなかった。
---
夕方の交代で上がってきたドレクが卓を覗きこんだ。
「規則正しいんだろ、これ」
「そうだ」
「なら仕掛けだ。時計みたいなもんだろ。回ってりゃそうなる」
『仕掛けなら疲れません』
ライが紙の端を押さえた。エルクが顔を上げる。
「仕掛けなら疲れないって。……薄れてる時間が、ちょっとずつ長くなってるんだよ。仕掛けは長くならないでしょ。壊れるまで同じだもん」
ドレクは口を開けて、それから閉じた。
「壊れかけてんのかもしれねえだろ」
『そうかもしれません』
ライは否定しなかった。
「かもしれない、って。……でも壊れかけたものは戻らないよ。あれは毎朝戻ってる」
輪の端で鱗の長が短く言った。
「戻す者がおるということだ」
それだけだった。レオルはそのまま目を閉じた。
---
その夜も地下へ降りた。
階段の下でダクトが待っている。背の板に紙が二枚。片方だけ角が切ってあった。
「夜のぶんですぞ」
「もう切ってあるんだ」
「手前が切りました。昼のと混ざりますからな」
「触って分かる?」
「暗がりでは指のほうが早うございます」
外の斜面には大きな体が伏せていた。入口の脇の岩のあいだに、ちょうど収まる形で丸くなっている。
「ドラゴ。そこ、寝心地いいの」
『風が来ぬのだ』
「うん。来ないね」
『我は今日も何もせぬ。何もせぬのなら、どこで何もせぬかは我が決めてよかろう』
「いいよ。そこまでは誰も書いてないもん」
竜は目を閉じた。階段を降りかけて、エルクは一度だけ振り返った。入口の前の地面だけ霜が降りていなかった。
---
壁の前に器を据えて、ライは針が止まるのを待った。
黒は今日も灯りを吸って沈んでいる。目で見るかぎり昨日と同じだった。
『下がりました』
「下がったんだ」
『三日目とほとんど同じところです』
「じゃあ今、寝てるんだね」
『分かりません』
ライは数を書いた。書いたあとで、しばらく器を見ていた。
『私は、これが何なのかを知りません』
「うん」
『知らないものを毎晩書くのは、少し落ち着きません』
「僕は落ち着くよ」
『なぜですか』
「書いてあったら、あとで誰かが読むでしょ。……僕が忘れても紙は忘れないもん」
ライは器を抱え直した。
『では、下がった刻と戻った刻も書きます』
「増えるじゃん」
『増やします。濃さだけでは、何をしているのか分かりませんので』
---
翌朝、ソウが板の前で一行を書き直した。
濃さを測ること、の下に二つ足された。下がった刻を書くこと。戻った刻を書くこと。
「増やしていいの」
「毎晩やることだもの」
ソウは筆を板の縁へ置いた。
「触るのは書かないわ。そこは去年のままよ」
---
十日ぶんが並んだのは初雪の二日前だった。
クラウは卓の上に紙を横一列に置いた。端から順に、濃い、薄い、濃い、濃い、薄い。数の隣に刻が入っている。下がって、しばらく低いままで、また上がる。夜の同じところで必ず下がっている。
筆を持ち上げたところで手が止まった。
並びに見覚えがあった。どこで見たのかがすぐには出てこない。しばらく紙を見てから、壁のほうへ目を向けた。
板が掛かっている。当番の欄。休みの欄。従魔の持ち場の欄。線を引いたのは去年の自分だ。
クラウは筆を置いた。置いた音が思ったより大きかった。
「ソウ」
「なによ」
「板を持ってきてくれ。写しでいい」
「今?」
「今だ」
ソウは何も聞かずに出ていった。クラウはもう一度、紙の並びを端からたどった。
立って、下りて、また立つ。
自分の字で書いた覚えのある形が、書いた覚えのない場所にあった。




