第153話 隠している者の欄
夜のうちに霜が降りていた。
広場の丸太は白く粉をふいている。腰を下ろすと尻から冷たさが上がってきた。焚き火はまだ小さい。壁に掛けた板の欄は三つに分かれたままで、今朝の当番のところに二人ぶんの名前が並んでいた。
エルクは膝の上で紙を広げた。
「読むよ」
止める者はいなかった。
「では、その名を今も塗り重ねている者に聞くがいい。……あれもお前たちと同じことをしている。守るために隠している」
紙を下ろす。輪の中はしばらく黙っていた。
「そのまま持ってきたんすか」
ケインだった。
「うん。書いたのはクラウだけどね。僕が喋って、クラウが書いた」
「ゆうべのうちにっすか」
「うん。ひとりで持って帰ると忘れちゃうもん」
誰かが小さく笑った。笑ってから、笑うところではないと気づいた顔になった。
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メルは膝の上の束を最初の頁まで戻した。
「空の一族の話に聞こえます」
「そりゃそうっすよ」
ケインが身を乗り出した。
「塗り重ねたのはあっちでしょ。名前を消して、絵から削って。……もう聞いた話じゃないっすか」
「聞いた話です」
メルは紙をめくる手を止めなかった。
「でも、終わった話をわざわざ最後に置く声じゃないと思います」
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クラウは輪の端で写し帳を開いていた。
新しい頁ではない。去年ふたつに分けた欄のところだった。左の欄は文字で埋まっている。右の欄は白いままだ。
筆の先で右の余白を軽く叩いた。
「言葉が合ってない」
「どこが」
「塗り重ねると塗りつぶすは別の作業だ」
クラウは顔を上げなかった。
「白いほうの顔は塗り重ねてある。上から何度も白を乗せて、輪郭だけがまだ浮いてる。黒いほうは違う。あれは塗りつぶしてある。灯りを近づけても沈む。……書き分けたのは俺だ」
「じゃあ、ゆうべのあれは」
「白の前に立って、白の言葉を使った」
筆を置いた。
「あいつは嘘をつかん。……だが並べ方は選ぶ」
「じゃあ、あれ嘘じゃないんだ」
「そもそも答えてない」
筆の先が白い欄で止まった。
「おまえが訊いた名と、あいつが言った名は別だ。……今も、と言ったろう。白はもう誰も触っておらん。今も塗ってる者がいるなら、そっちは黒だ」
ソウが腕を組んだ。
「聞いた側が勝手に空の話だと思うわね」
「そうだ。思わせただけで、言ってはいない」
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エルクは紙の端を三角に折っていた。
「僕さ。そこ、あんまり分かってないんだけど」
「聞いてなかったのか」
「聞いてたよ。聞いてたけど頭に入ってない」
クラウが息を吐いた。責める息ではなかった。
「引っかかってるのは別のとこなんだ」
エルクは折った紙を広げ直した。
「あの人さ。居場所を教えられて平気なのかな」
「あの人」
「塗ってる人。……ずっと隠してる人だったらさ、怒るか逃げるかしそうじゃない?」
輪の何人かが顔を上げた。
「僕なら怒るよ。大事なとこを塗ってる最中に、そっちだよって横から言われたらやだもん。……でもあの人、そういうの一回もしてないでしょ」
クラウが写し帳の右の欄を見た。空白は去年からずっと空白のままだった。
「逃げも隠れもしていない、か」
「隠してるのに隠れてないんだよ。変じゃない?」
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輪の外の岩が動いた。鱗の長は座ったまま首だけをこちらへ向けた。
「掘るなと言うたはずだ」
「掘らないよ」
エルクはあっさり答えた。
「掘るなって言われたし」
「ならばこの話は終いだ」
「掘らないで見るだけならいい?」
レオルが黙った。焚き火の枝がひとつ折れて落ちた。
「……見るだけで済んだ例を我は知らん」
「うん。僕も知らない」
「知っていて言うのか」
「言うよ。だって済まなかったら、そのとき言いに来てもらうもん」
鱗の長は答えなかった。板の休みの欄には、いまもその名前がはみ出したまま残っている。
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『では、測ります』
卓の下からライが出てきた。抱えているのは棚にある三つのどれでもない。空の器だけを持ってきていた。
『前に一度だけ調べました。封じるための魔力だと書いて、そこで止めています。……濃さは測っていません』
「そんなの測れるんすか」
ケインが覗きこんだ。
『測れます。同じ場所で同じ刻に毎日やれば』
「毎日やって何が分かるんすか」
『分かりません』
ライは器を卓へ置いた。
『分からないので測ります。……何も出なかった日は、何も出なかったと書きます』
クラウが筆を取った。書く手が早かった。
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ソウは板の前に立って地下の欄を指でなぞっていた。
「地下の入口はいま四刻で二人ずつよ」
「冬もそれでいける?」
「いけないわ。夜が長くなるもの」
ソウは指を止めた。
「同じ人数で同じ回し方をすると、一人あたりの刻が伸びるの。……このままだと、いちばん寒い時期に六刻立たせることになるわ」
「減らしたのに増えるんだ」
「減らしたうえで増えるのよ。冬ってそういうものなの」
その先は言わなかった。言わなくても、板を見ている者には形が見えていた。
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ミナが板を抱えたまま前に出た。
「じゃあ、聞くことが変わるね」
「変わる?」
「うん。だれが隠してるのって聞いてたでしょ。……そうじゃなくて、隠してる人はいま平気なのって聞くの」
輪が静かになった。
「そっちが先だと思う。だれかは、あとで分かるかもしれないもん」
クラウが写し帳の右の欄をもう一度見た。
「……名前を書く場所は空けたままだな」
「空けとけばいいよ」
エルクが言った。
「空いてたら、まだ埋まってないって分かるもんね」
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昼前に地下へ降りた。
当番の一人が板を差し出したので、四人ぶんの名を順に書き入れた。ライの名だけ字が余った。
糸は張り替えたばかりだった。まだ埃を乗せていない。
「便利だよね、これ」
「子供だましだと言った男がいたぞ」
「うん。あの人いま夜番だよ」
記録の間の松明は全部灯っていた。白い顔と黒い顔は、同じ壁の違うところにある。
メアは白いほうの前に先に立った。手は組まずに体の脇へ下ろしたままだった。しばらくそうしていた。
「こっちは、もう誰も触ってません」
「触ってないって、どういう感じ?」
「乾いてます。……終わってる感じです。悲しいとか恥ずかしいとかも、もうあまり乗ってません。乗せた人が全部いなくなったからだと思います」
それから黒いほうへ移った。
三歩ぶんの距離をあけて止まった。近づかなかったのではなく、そこで足が止まった形だった。
「……こっちは、まだ手の跡が新しいです」
「新しいって、どのくらい」
「分かりません」
メアは首を振った。
「でも、乾いてるものと乾いてないものの違いは分かります。……あっち、まだ濡れてます」
エルクは灯りを少し持ち上げた。
黒は光を吸って沈んだ。前に見たときと同じだった。目で見るかぎり、去年から薄くも濃くもなっていない。
『それがおかしいんです』
ライが器を壁の下へ据えた。
『置き去りにされた魔力は薄れます。……去年のままなら、去年から誰かが足しています』
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器の縁に細い針を立てて、ライは数が落ち着くのを待った。
その間にダクトが階段を上がってきた。背に薄い板を括りつけている。
「写しはいかがなさいますかな」
「三枚はそのままだ。夜のぶんが増える」
クラウは筆を止めずに答えた。
「毎晩ですかな」
「毎晩だ」
「では夜のぶんは運びますぞ。……昼の写しと混ざりますからな、紙の端を切っておきましょう。手触りで分けられます」
「切るのか」
「暗がりでは色が見えませんからな」
クラウは少し黙ってから頷いた。
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地上へ戻ると板の前にソウが立っていた。
従魔の持ち場の欄に新しい行が足されている。毎晩、地下の壁の黒の濃さを測ること。測るのはライ。測った数を書くこと。数が出なかった日は、出なかったと書くこと。
「これ、当番なの」
「当番よ」
ソウは筆を返してよこした。
「一回きりのことは覚えていなくていいの。毎日やることだけ書くのよ。……毎日やることを覚えておけないから板があるんだから」
「じゃあ触るのは」
「書かないわ」
そこだけはっきり言った。
「掘らない。剥がさない。触らない。……書かないことも決めごとなの」
クラウは写し帳を開いて、右の欄に何か書こうとして、書かずに閉じた。空白のほうが正しいと思ったらしい。
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広場の隅でドラゴが身じろぎをした。
『我は今日も何もせぬ日か』
「うん。そう書いてあるよ」
『昨日も何もせなんだ』
「知ってる」
竜はしばらく黙っていた。それから首を持ち上げた。
『……何もせぬというのは、どういう形をしておるのだ』
「形」
『我は飛ぶ形を知っておる。焼く形も知っておる。何もせぬ形を知らぬ』
エルクは芋をかじりかけた手を止めた。
「うーん。寝てるのと何もしないのって、違う?」
『違う気がするのだ』
「じゃあ違うんだね」
それ以上は言わなかった。分からないものを分かった形にするのが下手な男だった。竜は首を下ろしてまた目を閉じた。板のいちばん下の広い空白は、今日も埋まらないままだった。
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会議が解けたあとも、ウルは輪の外に伏せたままでいた。
エルクが横へ座ると、黒銀の耳が一度こちらへ倒れた。
『主』
「なに」
『……いや』
ウルは前脚に顎を乗せ直した。
「言いかけてやめるの、なし」
『やめてはおらぬ』
低い念話に迷いはなかった。
『数がそろっておらぬだけだ。そろってから言う。……去年の我なら、そろうまで黙っておった』
「今は?」
『言うと言うておる。それが違いだ』
エルクは笑って板のほうへ歩いていった。従魔の欄の隅に短く一行を書き足す。ウルの話を聞くこと、と読める字だった。書いた本人は、書かなければ忘れる自信があった。
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その夜からライは毎晩地下へ降りた。
入口で名を告げて中へ入り、出るときにも名を告げた。壁の前に器を据えて数が落ち着くまで待つ。書くのは三つだけだった。その日の濃さと、測った刻と、外の天気。
一日目と二日目の数は、ほとんど同じ形で並んだ。
三日目の数だけが、そのどちらにも並ばなかった。
ライは同じ場所で二度測り直した。二度とも同じ数が出た。
薄くなっていた。誰も触っていないはずの黒が、前の晩より薄くなっていた。
ライは器を抱えたまま、しばらく壁を見上げていた。




