第152話 まだ名は知らない
霧の薄い朝だった。
エルクは丸太に腰かけてウルの背に手を置いていた。黒銀の毛は夜露を吸って冷たい。広場の向こうでは糸が一本ずつ張り直されている。壁に掛かった板の今朝の欄には二人ぶんの名前が並んでいた。
去年の今ごろと同じ景色に見えた。同じではなかった。
「ねえウル。仕組みってさ。作ったら終わりじゃないんだね」
ウルは目を開けなかった。
エルクは膝を抱え直した。
「ずっと直すんだ、これ。ほころびるたびに直してまた使うんだ」
『終わりはせぬ』
低い念話が返ってきた。
『刃と同じよ。研がねば鈍る。研いでも減る。……面倒なことだ』
「うん。めんどくさいよね」
エルクは黒銀の毛に指をうずめた。
「でもさ。めんどくさいってことは、まだ誰かが持ってるってことでしょ。誰も持たなくなったら、めんどくさくもなくなるもん」
ウルの耳が一度だけ動いた。
『……主にしては上手いことを申す』
「今の、あとで自分でも言えなくなるやつだと思う」
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当番小屋からは声が漏れていた。
中では二人が腰かけに座っている。ミナと、移ってきて半月あまりの男だった。立ちはじめの四半刻は話す時間になっている。見張っている顔ではなかった。喋っている顔だった。
「それで、その門は結局どうなったんだ」
ドレクは膝に肘をついていた。
「閉まったよ。かちんって音がしたの。ミナ、それ聞いた」
「誰が閉めた」
「だれも。……みんなで閉まらせたの」
男は板のほうを見上げて、それからまた目を戻した。
「わけが分からん話だな」
「うん。ミナも分かってない。でも、そこにいたよ」
ドレクは鼻を鳴らした。それから思い出したように言った。
「おれ、来月から夜に入るぞ」
「知ってる。ミナが組んだもん」
「聞いた話は、次の奴に喋りゃいいのか」
「そう。……ミナが言うより、ドレクが言うほうがいいと思う」
「なんでだよ」
「知らなかった人の話し方が、知らない人にはいちばん届くから」
男はしばらく黙っていた。返事はしなかった。だが腰かけから立ち上がりもしなかった。
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板の休みの欄には鱗の長の名前があった。
書いたのはクラウではない。今度は本人の字だった。太くて角ばっていて、欄からはみ出していた。
通りかかったソウがそれを見上げて笑った。
「はみ出してるわね」
「枠、ミナが広げとくよ」
「広げなさい。……あの人、たぶん来月も書くわ」
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井戸端まで、子らの声が二つぶん流れてきた。
護符を握って唱える二つの決まりだ。エネは水を汲む手を止めずに数えた。昨日着いたばかりの小さいのが二人混じっているぶん、そろい方が半拍遅い。
二つで終わらなかった。
「それから、きょうのあたらしいの」
三つ目は聞いたことのない文句だった。
「となりの子がだまってたら、みにいく」
「なんで」
「いえない子がいるから。……いえない子はね、まってるの」
桶が縁に当たって鳴った。去年までは、教える言葉を先に用意してやるのが自分の役だった。今はノノのほうが先に増やしてくる。
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昼前に従魔小屋の前へ全員が集まった。
柱を一本替える日だった。雨の前に直すとウーゴが自分で板に書き入れてある。
「ハシラ、フルイ。キョウ、カエル」
「材は下ろしてございますぞ」
ダクトが新しい柱を並べた。切り口の高さがきれいにそろっている。
アラーネとラネが屋根の梁に糸を掛けた。
「吊るわよ~。下にいる子はどきなさいね~」
「姉さん、そっち緩んでる! もっと引いて!」
屋根の下へ金色の巨体が入っていった。ライオが背で梁を受けると、木の軋む音がひとつ低くなった。
『……早うせよ』
「押さえるだけでいい?」
『我の得手だ。今日はこの役でよかろう』
棟木の上に爪が掛かった。グリフが屋根の縁へ降りて、首だけ下へ伸ばす。
『左が指二本ぶん低い』
「上から見えるんだ」
『上からしか見えん』
報告はそれだけだった。ラネが舌打ちをして糸を引き直した。
桶を頭にのせたスラが弾んでやってきて、途中でライに止められた。
『兄さん。今日は休みの欄です』
『えっ、そうだったッスか!?』
『板に書いてあります。……読めないなら聞いてください』
『聞いたッス! じゃあ寝るッス!』
スラは桶を置いて日向へ転がっていった。誰も文句を言わなかった。
ライは箱を抱えて棚のほうへ行った。
古い箱が二つ並んでいる。ライはその隣に三つ目を置いた。蓋を開けたまま置いたので、中が空なのが見えた。
「なんにも入ってないよ、それ」
『はい。何も入っていません』
ライは短い紙をその蓋へ貼った。反応しなかったもの、と書いてある。
『空のままです』
「怖いものを怖いまま棚に上げるって言ってたよね」
『言いました。……今度のは、怖いのかどうかも分かりません』
ライは箱の位置をわずかに直した。二つの箱と高さがそろった。
『それでも、ここに置きます』
箱の列が一つ伸びた。増えたのは中身ではなく欄のほうだった。
広場の隅では大きな体が伸びをしていた。
『我は今日も何もせぬのだ』
「うん。そういう日だよ」
竜はゆっくり首を起こした。しばらく考えるような間があった。
『……何もせぬ日は、何をすればよいのだ』
「寝てていいよ。あと、僕の芋食べていいよ」
『では寝るのだ』
竜は目を閉じた。芋のほうは忘れていない顔だった。何もしない日をどう過ごすかは、まだ半分も覚えていない。
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柱が立ち上がった頃に空が翳った。
大きな影が国の上を横切った。高くなかった。煙が乱れて子らが空を指すほど低かった。
嵐鷲王は羽ばたかずに滑っていく。見張りの高さではない。獲物を探す形でもない。誰にも頼まれていない飛び方だった。
エルクは屋根の上から手を振った。
ゼルガは応えなかった。首も向けなかった。そのまま山のほうへ抜けていって、峰の手前で二度だけ大きく旋回してから帰っていった。
柵のそばでメアが空を見上げていた。
「……あれ、応えてます」
「そう?」
「はい。あの人、旋回するときだけ翼の後ろがゆるむんです。……急いでない翼です」
エルクは手を下ろした。
「じゃあ返事だね」
「返事です」
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その日の午後、クラウは写し帳に一段を足した。
空の一族が名を消したこと。絵から削り語りから外したこと。理由が恥だったこと。
「よそのやつの恥まで書くんすか」
覗きこんだケインが言った。
「書く。許しはもらってる」
「あの空の主が?」
「昨日、山へ登って聞いてきた。書いてよいと言われた。理由は言わなかった」
クラウは筆を置いた。
「消したことを、消さない。それだけだ」
その下の空きには、まだ筆を入れなかった。埋まる日は今日ではない。
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夜、エルクは灯りをひとつ持って地下へ降りた。
一人ではない。入口には当番が二人立っていた。名を告げて中へ入った。通路には糸が張ってある。天井まで白い筋が渡っていて、足を置く場所がひと目で分かった。
記録の間はいつもどおりの明るさだった。松明は全部灯っている。
奥の壁まで進んで灯りを掲げた。
白い顔がそこにあった。塗り重ねられた白の下で、輪郭だけがまだ消えずにいる。昨日クラウが写し帳へ書き足したのは、この白を塗った側の話だった。
エルクは先に口をひらいた。
「名前、教えてくれないんでしょ」
答えはなかった。
「教えたら、僕らがあんたに聞きに来なくなるもんね」
石をひとつずつ伝ってくるような声がした。落ち着いていて急いでいなかった。
「賢いな」
「そこほめるとこじゃないよ」
「では、その名を今も塗り重ねている者に聞くがいい。……あれもお前たちと同じことをしている。守るために隠している」
灯りの芯がじじ、と鳴った。エルクが顔を上げたときには、もう壁のほうが静かになっていた。
訊き返す間はいくらでもあった。訊き返す言葉のほうが無かった。
エルクは白い顔を見上げたまま立っていた。
「……守るために隠してるんだ、あの人も」
頭のうしろを掻いた。
「じゃあさ。あの人も、一人なんじゃないの」
誰も答えなかった。灯りを拾って階段のほうへ歩き出す。上では当番の二人が待っている。名を言って出て、名を言って戻る。それだけの決まりが、この半年でようやく身についたところだった。
まだ名は知らない。まだ顔も見えない。ただ、隠している誰かがいて、その誰かはたぶん一人で隠している。
一人で何かを抱えている者をそのままにしておかない国に、エルクたちはなったばかりだった。




