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辺境の村のモンスターテイマー  作者: スルメイカ
第四部・隣に立っていた者/ほころびる仕組み編
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第152話 まだ名は知らない

 霧の薄い朝だった。


 エルクは丸太に腰かけてウルの背に手を置いていた。黒銀の毛は夜露を吸って冷たい。広場の向こうでは糸が一本ずつ張り直されている。壁に掛かった板の今朝の欄には二人ぶんの名前が並んでいた。


 去年の今ごろと同じ景色に見えた。同じではなかった。


「ねえウル。仕組みってさ。作ったら終わりじゃないんだね」


 ウルは目を開けなかった。


 エルクは膝を抱え直した。


「ずっと直すんだ、これ。ほころびるたびに直してまた使うんだ」


『終わりはせぬ』


 低い念話が返ってきた。


『刃と同じよ。研がねば鈍る。研いでも減る。……面倒なことだ』


「うん。めんどくさいよね」


 エルクは黒銀の毛に指をうずめた。


「でもさ。めんどくさいってことは、まだ誰かが持ってるってことでしょ。誰も持たなくなったら、めんどくさくもなくなるもん」


 ウルの耳が一度だけ動いた。


『……主にしては上手いことを申す』


「今の、あとで自分でも言えなくなるやつだと思う」


---


 当番小屋からは声が漏れていた。


 中では二人が腰かけに座っている。ミナと、移ってきて半月あまりの男だった。立ちはじめの四半刻は話す時間になっている。見張っている顔ではなかった。喋っている顔だった。


「それで、その門は結局どうなったんだ」


 ドレクは膝に肘をついていた。


「閉まったよ。かちんって音がしたの。ミナ、それ聞いた」


「誰が閉めた」


「だれも。……みんなで閉まらせたの」


 男は板のほうを見上げて、それからまた目を戻した。


「わけが分からん話だな」


「うん。ミナも分かってない。でも、そこにいたよ」


 ドレクは鼻を鳴らした。それから思い出したように言った。


「おれ、来月から夜に入るぞ」


「知ってる。ミナが組んだもん」


「聞いた話は、次の奴に喋りゃいいのか」


「そう。……ミナが言うより、ドレクが言うほうがいいと思う」


「なんでだよ」


「知らなかった人の話し方が、知らない人にはいちばん届くから」


 男はしばらく黙っていた。返事はしなかった。だが腰かけから立ち上がりもしなかった。


---


 板の休みの欄には鱗の長の名前があった。


 書いたのはクラウではない。今度は本人の字だった。太くて角ばっていて、欄からはみ出していた。


 通りかかったソウがそれを見上げて笑った。


「はみ出してるわね」


「枠、ミナが広げとくよ」


「広げなさい。……あの人、たぶん来月も書くわ」


---


 井戸端まで、子らの声が二つぶん流れてきた。


 護符を握って唱える二つの決まりだ。エネは水を汲む手を止めずに数えた。昨日着いたばかりの小さいのが二人混じっているぶん、そろい方が半拍遅い。


 二つで終わらなかった。


「それから、きょうのあたらしいの」


 三つ目は聞いたことのない文句だった。


「となりの子がだまってたら、みにいく」


「なんで」


「いえない子がいるから。……いえない子はね、まってるの」


 桶が縁に当たって鳴った。去年までは、教える言葉を先に用意してやるのが自分の役だった。今はノノのほうが先に増やしてくる。


---


 昼前に従魔小屋の前へ全員が集まった。


 柱を一本替える日だった。雨の前に直すとウーゴが自分で板に書き入れてある。


「ハシラ、フルイ。キョウ、カエル」


「材は下ろしてございますぞ」


 ダクトが新しい柱を並べた。切り口の高さがきれいにそろっている。


 アラーネとラネが屋根の梁に糸を掛けた。


「吊るわよ~。下にいる子はどきなさいね~」


「姉さん、そっち緩んでる! もっと引いて!」


 屋根の下へ金色の巨体が入っていった。ライオが背で梁を受けると、木の軋む音がひとつ低くなった。


『……早うせよ』


「押さえるだけでいい?」


『我の得手だ。今日はこの役でよかろう』


 棟木の上に爪が掛かった。グリフが屋根の縁へ降りて、首だけ下へ伸ばす。


『左が指二本ぶん低い』


「上から見えるんだ」


『上からしか見えん』


 報告はそれだけだった。ラネが舌打ちをして糸を引き直した。


 桶を頭にのせたスラが弾んでやってきて、途中でライに止められた。


『兄さん。今日は休みの欄です』


『えっ、そうだったッスか!?』


『板に書いてあります。……読めないなら聞いてください』


『聞いたッス! じゃあ寝るッス!』


 スラは桶を置いて日向へ転がっていった。誰も文句を言わなかった。


 ライは箱を抱えて棚のほうへ行った。


 古い箱が二つ並んでいる。ライはその隣に三つ目を置いた。蓋を開けたまま置いたので、中が空なのが見えた。


「なんにも入ってないよ、それ」


『はい。何も入っていません』


 ライは短い紙をその蓋へ貼った。反応しなかったもの、と書いてある。


『空のままです』


「怖いものを怖いまま棚に上げるって言ってたよね」


『言いました。……今度のは、怖いのかどうかも分かりません』


 ライは箱の位置をわずかに直した。二つの箱と高さがそろった。


『それでも、ここに置きます』


 箱の列が一つ伸びた。増えたのは中身ではなく欄のほうだった。


 広場の隅では大きな体が伸びをしていた。


『我は今日も何もせぬのだ』


「うん。そういう日だよ」


 竜はゆっくり首を起こした。しばらく考えるような間があった。


『……何もせぬ日は、何をすればよいのだ』


「寝てていいよ。あと、僕の芋食べていいよ」


『では寝るのだ』


 竜は目を閉じた。芋のほうは忘れていない顔だった。何もしない日をどう過ごすかは、まだ半分も覚えていない。


---


 柱が立ち上がった頃に空が翳った。


 大きな影が国の上を横切った。高くなかった。煙が乱れて子らが空を指すほど低かった。


 嵐鷲王は羽ばたかずに滑っていく。見張りの高さではない。獲物を探す形でもない。誰にも頼まれていない飛び方だった。


 エルクは屋根の上から手を振った。


 ゼルガは応えなかった。首も向けなかった。そのまま山のほうへ抜けていって、峰の手前で二度だけ大きく旋回してから帰っていった。


 柵のそばでメアが空を見上げていた。


「……あれ、応えてます」


「そう?」


「はい。あの人、旋回するときだけ翼の後ろがゆるむんです。……急いでない翼です」


 エルクは手を下ろした。


「じゃあ返事だね」


「返事です」


---


 その日の午後、クラウは写し帳に一段を足した。


 空の一族が名を消したこと。絵から削り語りから外したこと。理由が恥だったこと。


「よそのやつの恥まで書くんすか」


 覗きこんだケインが言った。


「書く。許しはもらってる」


「あの空の主が?」


「昨日、山へ登って聞いてきた。書いてよいと言われた。理由は言わなかった」


 クラウは筆を置いた。


「消したことを、消さない。それだけだ」


 その下の空きには、まだ筆を入れなかった。埋まる日は今日ではない。


---


 夜、エルクは灯りをひとつ持って地下へ降りた。


 一人ではない。入口には当番が二人立っていた。名を告げて中へ入った。通路には糸が張ってある。天井まで白い筋が渡っていて、足を置く場所がひと目で分かった。


 記録の間はいつもどおりの明るさだった。松明は全部灯っている。


 奥の壁まで進んで灯りを掲げた。


 白い顔がそこにあった。塗り重ねられた白の下で、輪郭だけがまだ消えずにいる。昨日クラウが写し帳へ書き足したのは、この白を塗った側の話だった。


 エルクは先に口をひらいた。


「名前、教えてくれないんでしょ」


 答えはなかった。


「教えたら、僕らがあんたに聞きに来なくなるもんね」


 石をひとつずつ伝ってくるような声がした。落ち着いていて急いでいなかった。


「賢いな」


「そこほめるとこじゃないよ」


「では、その名を今も塗り重ねている者に聞くがいい。……あれもお前たちと同じことをしている。守るために隠している」


 灯りの芯がじじ、と鳴った。エルクが顔を上げたときには、もう壁のほうが静かになっていた。


 訊き返す間はいくらでもあった。訊き返す言葉のほうが無かった。


 エルクは白い顔を見上げたまま立っていた。


「……守るために隠してるんだ、あの人も」


 頭のうしろを掻いた。


「じゃあさ。あの人も、一人なんじゃないの」


 誰も答えなかった。灯りを拾って階段のほうへ歩き出す。上では当番の二人が待っている。名を言って出て、名を言って戻る。それだけの決まりが、この半年でようやく身についたところだった。


 まだ名は知らない。まだ顔も見えない。ただ、隠している誰かがいて、その誰かはたぶん一人で隠している。


 一人で何かを抱えている者をそのままにしておかない国に、エルクたちはなったばかりだった。

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