第151話 ほころびたと言える仕組み
朝の広場に人は集まった。誰も勝った顔をしていなかった。
丸太の輪の真ん中に当番の板が立てかけてある。昨夜の行には二人の名が並んだままだった。消されても書き足されてもいない。何も渡さなかった夜の板は何も起きなかった夜の板と見分けがつかない。
ソウが板の縁を指でなぞった。
「誰も渡してない。誰も抜けてない」
それから手を下ろした。
「……でも勝ってないわね」
言い返す者はいなかった。
メルが写しの束を膝の上で開いた。
「声は消えてません。空振りしただけです」
紙をめくる音がひとつした。
「減らした数のままでも、みんなが薄くなる時期は分かります。雪が降って夜が長くなるころです。畑が閉じて仕事は減るのに当番の数だけは同じだけ残ります」
「昨日の今日でその話っすか」
ケインが腰かけに座ったまま欠伸をした。
「昨日の今日だから出しておくんです。忘れないうちに」
メルはあっさり答えた。
輪の端でメアが膝を抱えていた。昨夜からずっとそこにいる。
「昨日の声は遠かったです。近づいてはいません。……近づく必要がないんだと思います」
誰もその先を聞かなかった。聞かなくても分かる言い方だった。
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エルクは丸太の端に腰かけて足をぶらぶらさせていた。
「これさ。たぶんまたほころびるよ」
輪が静かになった。
否定する者はいなかった。半年かけて作った決まりが半年でほころんだところを、全員が昨日の夜に見ている。人の口がなければ止まらなかった。板も糸も欠片も何ひとつ教えてくれなかった。
「でもいいんじゃないかな」
エルクは空を見上げた。
「ほころんだって言えたもんね。今回」
クラウが写し帳を開いた。筆は持ったが、しばらく動かさなかった。
「ほころびない仕組みなんてない」
低い声だった。
「俺が作った時点でほころびる。人が回すからだ。回す人は飽きるし眠くなるし忘れる。……大事なのは、ほころびない仕組みを作ることじゃない」
顔を上げた。
「ほころびたと言える仕組みを作ることだ」
筆が動いたのは三行だけだった。
「渡すときは渡した先の名を言う。受け取った者は受け取ったと名で言う。休みは当番と同じ欄に書く」
読み上げてから写し帳を閉じた。
「これだけだ。増やさん。長い決まりは誰も覚えんし、覚えられん決まりは無いのと同じだ」
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輪の外の岩でレオルが身じろぎをした。
「ひとつ聞く」
鱗の長は板を見ていた。
「では、疲れて言えぬ者はどうする。言える決まりは書けた。書いたところで言わぬ者は言わぬ。……我のような者だ」
誰かに言われる前に自分で言った。
答えたのはミナだった。板を抱えたまま前に出た。
「言えない人がいる前提で組むの」
角の生えた頭が長を見上げた。
「二人で組むでしょ。片方が言えないとき、もう片方が見るの。……言わせるんじゃなくて、見に行くの」
「見に行く、か」
「うん。ミナも言えなかったよ。だから見にきてほしかった」
レオルは鼻から息を抜いた。それ以上は何も言わずに腕を組み直した。板の休みの欄には、まだその名が残っている。
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ミナは板を胸に抱え直した。
「あとね。ミナ、あれやる」
「あれ」
「なんでこれをやるのか話す役」
輪が少しざわついた。宙に浮いたままだった役だった。誰も手を挙げられなかった役でもある。
エルクが口を開きかけた。
「じゃあ僕が」
言いかけて止めた。今度は唸られる前に自分で止まった。伏せていたウルが顔だけ上げてこちらを見ている。
「……やめとく」
エルクは頭のうしろを掻いた。
「僕が全部やると、僕がいない日にゼロになるもんね」
「時間はどこから出す」
クラウがミナに聞いた。
「当番の最初。四半刻だけもらう」
ミナは指で短く区切ってみせた。
「立ちはじめの四半刻って、二人ともぼうっとしてるでしょ。そこで話す。ミナが話せない日は、前に聞いた人が次の人に話す」
「回すのか」
「うん。回す。……当番って、見張る場所じゃなくて渡す場所にしたいの」
ソウが板を見て小さく笑った。
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輪の外から声が飛んだ。
移ってきて半月あまりの男だった。罰を作れと言い、糸を子供だましと言った男でもある。名をドレクという。
「それ、去年の話だろ」
ドレクは板を見上げていた。
「おれ、その夜にここにいねえよ。いなかった奴が聞いて何になるんだ」
「知らない人が悪いんじゃないよ」
ミナは即答した。
「教えてない人が悪いんだよ」
男は口を開けて、そのまま閉じた。
「去年の話。ミナが門の前に立った夜の話」
ミナは板を下ろした。
「……聞く?」
ドレクはしばらく黙っていた。輪の中の顔を一度ぐるりと見た。誰も笑っていなかった。急かす者もいなかった。
「……聞く」
短く言って丸太に腰を下ろした。ミナがその隣に座った。輪の全員が聞いたわけではない。聞いていたのは一人だけだった。それで足りた。
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物置の裏の草地では別の授業が開かれていた。
護符を首から下げたノノが子らの前に立っている。
「へんな声がきこえたら、となりの子の手をにぎる」
子らが声をそろえた。
「それから、あたらしいの」
ノノは指を一本立てた。
「つかれたっていっていい」
いちばん小さい子が首をかしげた。
「つかれたっていうと、おこられない?」
「おこられないよ。ノノもいったもん。おおきい人にもいったもん」
エネは少し離れて洗い物をしながら聞いていた。口は出さなかった。教えているのは自分ではない。
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昼過ぎに板がもう一度広場へ運び出された。
ソウが新しい欄を引いた。当番でも休みでもない三つ目の欄だった。
「従魔の持ち場も、ここに書くわ」
「書くのか」
クラウが顔を上げた。
「書くわよ。ウルが半月ぶん余分に回ってたのは、表に名前がなかったからでしょう。……名前のない者は、疲れたって言う場所もないの」
紙の束を抱えたダクトが卓へのぼった。
「運びはお任せくだされ。写しは三枚。板と会議と、あとは記録の間の入口ですな」
読み上げは順に行われた。
『我は外周をひと回り。ふた回りはせぬ』
ウルが先に言った。
「うん。二回目は書かないよ」
エルクが横から口を出した。
「回りたくなったら僕に言ってね。僕が止めるから」
『……承知した』
門の外からは低い念話だけが届いた。ライオは輪へ入ってこない。
『我は日暮れから中夜まで。中夜より後は門の内へ入る。以前は朝まで座っておった。……書くなら今の形で書け』
クラウの筆が動いた。
頭上で風が鳴った。翼が一度旋回して低いところで止まる。
『俺は夜明け前の空だ』
グリフの報告は短い。
『林の縁まで見て戻る。何もなければ鳴かない。鳴かない日は何も見なかった日だ。それも書いておけ』
「鳴かなかった日を書くの?」
『鳴かない夜が続いたとき、俺が黙る癖をつけたのか本当に何もないのか、誰にも分からなくなる』
ソウが板の端に線を足した。
「あなた、うちで二番目に事務が向いてるわね」
糸の欄はアラーネとラネが持っていった。
「張り替えは夜明け前でいいわ~。でも五日に一度は私も張らないの」
アラーネの声は柱の陰から流れてくる。
「張った糸ってね、持ち主が見に来ないと死ぬのよ~。私が休む日は誰か代わりに触りにきてちょうだいね~」
「私が触るわよ!」
ラネが柱の根元から顔を出した。
「姉さんの結び方、雑なんだから。……ちゃんと書いて。私の名前も」
クラウは書いた。
ウーゴは小屋の屋根を叩いていた。
「コヤ、ナオス。ハシラ、ヒトツ、フルイ」
「いつ直すの」
「アメ、フルマエ」
ソウが日付を入れた。ウーゴの名が板に載るのはこれが最初だった。
『おいらは昼ッス!』
スラが跳ねた。
『夜に立った奴を昼に寝かせるッス。水汲みも畑もおいらが走るッスからね。……あ、でもおいらも一日休むッス。分身がいるから平気って前に言ったッスけど、あれ嘘ッス。分身が働いてても、おいらは疲れるんスよ』
あちこちで小さく息が漏れた。ライが兄の隣に並んだ。
『結界は五日に一度張りません。その日はもう板にあります』
ライは箱を卓へ置いた。
『それから、ひとつ書き足してください。……今度のは欠片が作れませんでした』
「作らないの?」
『集める黒がなかったんです』
箱の中では二つの欠片が沈んだままだった。
『恐怖の欠片も守りたい気持ちの欠片も、昨夜の声には何ひとつ反応しませんでした。あの声は残していかないんです。残さないのがあれのやり方です。……書いておかないと、次のときも「何も起きなかった」ことになります』
クラウは長いこと筆を止めていた。それからその一行を書いた。何も見つからなかったという記録だけが、昨夜あったことの証拠になった。
広場の隅で大きな体が首をもたげた。
『我の欄はどこなのだ』
「あるよ。……ここ」
エルクが板の下のほうを指した。
『何も書いておらんではないか』
「そうだよ。ドラゴは何もしない日を書いてあるの」
『……我は強いのだぞ』
「知ってる。だから何もしない日をいちばん多く書いたんだ」
竜は何か言いかけて、そのまま翼の下へ首を入れた。板のいちばん下にある広い空白が、この国でいちばん強い一頭の欄だった。
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板を掛け直しながらソウが言った。
「三割減らしたまま続けるわ」
「戻さんのか」
レオルだった。
「戻さないわよ。回る量が正しい量なの。……回らない量を並べておくのは、守ってるふりだもの」
長は何も言わなかった。反対もしなかった。
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会議が解けたあとも、クラウは切り株の前に残っていた。
写し帳の新しい頁には三行だけが並んでいる。その下は空のままだった。
エルクが横から覗きこんだ。
クラウは筆の先を見たまま口を開いた。
「……なあ。空の一族は、恥ずかしくて消した。俺たちは面倒くさくて消しかけた」
筆を置いた。
「理由がちがうだけで、消えるのは同じだ」
エルクはしばらく黙っていた。
「うん。……だから書くんだね」
「そうだ」
クラウは頁をめくった。いちばん新しい行の下に、まだ書けない一行分の空きがあった。名前を書く場所だった。誰の名前かは、この国の誰も知らない。
門のほうからミナの声が届いてくる。去年の夜の話をしていた。聞いているのは相変わらず一人だけだった。
空の高いところを影がひとつ横切った。
降りては来なかった。半分だけ語った空の主は、残りの半分をまだ胸に抱えたままだった。




