第150話 名前を言えよ
声は耳の奥から聞こえた。
ミナが聞いたのはエルクの声だった。毎日聞いている声だ。語尾の伸び方も息の継ぎ方も同じだった。
「疲れたろう。……代わっておくよ」
顔を上げるとケインも同じ暗がりを見ていた。ミナの耳に落ちたのと同じ言葉が同じ拍で終わったのが分かった。
「ケイン。いま何か聞こえた」
「聞こえたっす」
「だれの声だった」
「……ソウさんの声っす」
ミナは糸の端を握り直した。
「ミナのはエルクの声だったよ」
二人は腰かけに座ったままでいた。小屋の外では夜露を含んだ糸が弱く鳴っている。閂は三重に落ちていた。今夜はライが結界を張らない日だった。
声はもう一度来た。今度は間を置かずに来た。
「いいよ。もう戻って寝ちゃいなよ」
ミナの耳の中でだけエルクがそう言った。
「休んどきなさいよ。ここは私が見とくわ」
ケインの耳ではソウがそう言った。
断る理由はどこにもなかった。二人とも眠かった。代わると言っているのは二人がいちばんよく知っている相手だった。ミナの口から返事が半分出かかった。
出かかったところで板の一行が浮かんだ。
渡すときは渡した先の名を言う。受け取った者も受け取ったと名で言う。長い決まりは誰も覚えない。だから一行しかない。ミナは文字が読めないから、その一行だけを声で覚えていた。
「いま、だれに渡すの」
声はやわらかく答えた。
「僕が代わるよ」
「名前は」
風の音がした。
糸が一度鳴って、それきり静かになった。
声は答えなかった。
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同じ夜、子らの寝ている小屋の梁の下で細い糸が引かれた。
ノノが引いた。護符を握ったまま裸足で土間へ下りて、教えたとおりに隣の子の手をつかんでから引いた。糸は物置の裏を回ってエネの寝床の柱まで届いている。
「いま、へんな声きこえた」
エネは飛び起きた。
「なんて言われた」
「かわってあげるって」
ノノは目をこすった。
「あしたのおしごと、ノノのぶん、かわってあげるって」
エネは子らを起こさずに外へ出た。走りながら思ったのは怒りでも恐れでもなかった。この子らに割り振られた仕事など水汲みと草むしりしかない。それでも声はそこへ来た。
物置の角でメアとぶつかった。メアは寝間着のまま立っていた。
「声は合ってるんです」
挨拶より先にそう言った。
「エルクの声も、ソウさんの声も、合ってます。……でも、この声には後ろがないんです」
「後ろ」
「思い出です。人の声には後ろがあります。前に何を言ったとか、何をこわがってたとか、そういうのが全部くっついて聞こえるんです。……この声は、今この一言しか持ってません」
メアは門のほうを見た。
「借りてるだけだから、軽いんです」
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エルクは自分の家の前に座っていた。
当番ではなかった。板の休む枠に名前が書いてある。書いたのはクラウで、書かれた日は今日だった。
膝のあたりでウルが伏せている。眠ってはいなかった。
声はそこにも来た。ミナの耳に来たものと同じ静けさで、ただし借り物ではない調子で来た。
「お前も疲れたろう」
エルクは空を見上げたまま頭のうしろを掻いた。
「うん。疲れたよ」
あっさり認めた。
「けっこう疲れてる。今日ずっと芋の袋運んでたもん」
「代わってやろう」
「あ、いいや」
エルクは膝を抱え直した。
「だから今日は僕、休みの枠に名前書いてあるんだ。当番じゃないんだよね、僕。代わってもらうものがないよ」
声はしばらく黙っていた。
エルクが断れたのは強いからではなかった。板に自分の名前が休むほうの欄に書いてあったからだった。書いたのは自分ですらなかった。仕組みが先に一人を守っていた。
ウルは唸らなかった。唸る必要がなかった。
『主。参るか』
「うん。行こっか。……たぶんもう、僕がいなくても終わってると思うけど」
エルクは立ち上がって門のほうへ歩き出した。走らなかった。走っても間に合わないことは、この半月でもう覚えていた。
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当番小屋ではケインが立ち上がっていた。
腰かけを蹴倒しそうになりながら暗がりへ向き直った。眠気はどこかへ行っていた。
「今、誰に渡した」
声が答える前にもう一度言った。
「名前言えよ」
風がやんだ。
「渡してくれるんでしょ。だったら受け取った奴の名前があるはずっすよね。……名前言えって。それだけっす」
「私が代わると言っている」
声はソウの声のままだった。だが名乗らなかった。
名乗った瞬間に終わる。ソウだと言えば朝にソウが言っていないと言う。エルクだと言えばエルクが言っていないと言う。この国では今夜から、受け取った者が自分の口で受け取ったと言うことになっていた。声色は完璧に借りられても、他人の名前だけは借りられなかった。
「言えないなら渡してないっす」
ケインは息を吐いた。
「渡してないなら、おれが立つ」
声が引くのが分かった。
「おれ、最初に立たなかったやつっすよ」
ケインは暗がりへ向かって言った。
「六つ穴あけたうちの一つ、おれっす。だから分かるんすよ。代わってもらったつもりの夜って、こんな感じっす。……気持ちよく寝れるんすよね、あれ」
その隣でミナは糸を引いていた。
切らなかった。切れば終わってしまう。引いて辿った。柱から柱へ、白い線を手繰るように指を滑らせていく。半分ほど進んだところで手ごたえが軽くなった。
糸は途中で地面に落ちていた。
結ぶ相手のいない端が、夜露に濡れて土の上に伸びている。渡した者はいた。受け取った側の柱には何も結ばれていなかった。
「だれも受け取ってない」
ミナは端を持ち上げて、はっきり言った。
「ミナ、渡してません。ケインも渡してません」
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人が集まるのは早かった。
ソウが最初に着いた。板ではなく糸を見て回る癖がこの数日でついていた。すぐ後ろからメルが数えた紙を抱えて走ってきた。
「入口とここと外周の分かれ道です。三か所とも見てください」
「私が入口を見るわ。あなたは子らの小屋のほうへ回って」
「先に人数を数えます。誰が起きてて誰が寝てるか分からないままだと、また同じことになるので」
二人はエルクを待たなかった。守りの手配はソウが持ち、避難の段取りはメルが持つ。誰が何を決めるかは半年前から分けてある。決めるのに主人の到着はいらなかった。
頭上で風が鳴った。
翼の影が低く旋回して、そのまま門の上を横切った。
『外に誰もいない』
グリフだった。
『林の縁まで見た。獣も人もいない。声だけが来ている』
柱のあいだでは糸を張り直す音がしていた。垂れた三本を拾い集めているのはアラーネとラネだった。
「切らなくてえらいわね~」
アラーネの声が暗がりから流れてきた。
「切ったら渡ってないことも消えちゃうもの。垂れたまま置いとくのがいちばん強いのよ~」
「もう! ここ結び直すから足どけて!」
ラネが柱の根元で手を動かしていた。説明はしなかった。結び目が形になるほうが早かった。
小屋の裏からライが出てきた。手には簡易結界の箱があった。中の欠片は二つとも沈んだままだった。
『光っていません』
ライは箱を差し出した。
『恐怖にも守りたい気持ちにも反応しません。……今夜のこれは、私の箱では拾えないものです』
「じゃあ何が教えてくれたの」
ソウが聞いた。
『ミナさんの口です』
ライはあっさり答えた。
『名前は、と聞いた声です。あとはノノさんの糸です』
広場の奥では大きな体が起きていた。
ドラゴは首をもたげたまま何もしなかった。炎を吐く場所も相手も、そこにはなかった。
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重い足音が近づいてきた。
レオルだった。槍は持っていない。夜着のままだった。
「どこだ」
「もう引きました」
メアが答えた。長は門の内側をぐるりと見渡してから低く息を吐いた。
「間に合ったか」
「間に合ってます」
レオルは腕を組んだ。それから少しだけ目を伏せた。
「……我は今夜、休みの欄におった」
誰も何も言わなかった。
「立っておらなんだゆえ、眠っておった。眠っておったゆえ、起きて走れた。三日続けて立っておれば、この足は動かなんだ」
言い終えてから鼻を鳴らした。
「妙なものだ。休んだ者が駆けつけるとはな」
「休みの欄はね、休ませるために作ったんじゃないのよ」
ソウが板を抱えたまま言った。
「走れる人を毎晩ひとり残しておくために作ったの。……今夜それが効いたのよ」
門の外の暗がりでは金色の影が座っていた。ライオは動かなかった。外周を回る回数はもう減らしてある。その名も、休むほうの欄に書いてある。
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エルクが着いたときには終わっていた。
糸は結び直されていた。ケインは腰かけを起こして座り直していた。ミナは垂れていた三本を束ねてクラウの家のほうへ持っていくところだった。
「あ、終わってる」
「終わってます」
メアが言った。
「エルクさん、来なくてよかったです」
「そうだね。……僕、来ても名前聞くの忘れたと思うもん」
エルクは笑って、それから真面目な顔になった。
「誰も渡さなかったんだね」
「誰も渡しませんでした」
誰も一人にならなかった。誰も門に触らなかった。板の上でも糸の上でも、この夜は何も動いていなかった。
そのとき、耳の奥で静かなものが動いた。
「……ほう」
借り物ではない声だった。
「名を、言えと」
怒ってはいなかった。慌ててもいなかった。負けたとも言わなかった。
「よく作った。今のは、そちらの一本だ」
エルクは門を見上げた。
「うん。ケインが言ったんだ。僕じゃないよ」
「知っている」
声は少しだけ間を置いた。
「今日は、な」
その一言だけが、いつもより低かった。
「人は必ず疲れる。私は急がぬ」
それきり気配は薄れていった。
エルクは門の前に立ったまましばらく動かなかった。腹が立たなかった。うまく言い返す言葉も浮かばなかった。あの声は今夜も一度も嘘をついていない。人は必ず疲れる。それは板の休む枠を作った自分たちが、いちばんよく知っていることだった。
「ウル」
『は』
「あの声さ。ずっとほんとのことしか言わないんだよね」
ウルは答えなかった。
エルクは首の後ろを掻いて、それから小さく息を吐いた。
「……次に来るの、半年後くらいかな」
夜明けまではまだ少しあった。ミナが束ねた糸を抱えて歩いていく先で、クラウの家の窓に灯りがついた。書き足す一行を考える男が、この夜もまだ起きていた。




