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辺境の村のモンスターテイマー  作者: スルメイカ
第四部・隣に立っていた者/ほころびる仕組み編
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第149話 疲れたと言う

 朝の光が柵の外まで届く頃にレオルは戻ってきた。


 夜のあいだ誰にも頼まれていない見回りをしていた。当番の欄にも休みの欄にもその名はない。誰にも会わずに岩場のほうへ抜けようとして、長は途中で足を止めた。


 板の前にソウが立っていた。


「昨日の夜どこにいたの」


「外だ」


「当番じゃないわ」


「知っておる」


 それだけ言って通り過ぎようとした腕が板の縁に触れた。掛けてあった筆が落ちて、乾いた音を立てた。


 ソウは拾わなかった。拾えなかった。


 レオルの手が震えていた。ほんのわずかだった。太い指の先が細かく揺れて、それが止まるまでに少しかかった。長は自分で筆を拾い上げて元の場所へ掛け直した。そのときにはもう震えていなかった。


「落としたな。すまん」


 それだけ言って歩いていった。


 ソウはその背中が見えなくなってから広場へ走った。走りながら喉の奥が苦かった。指摘すれば侮辱になる。人前で長の誇りを剥がすことになる。決まりは言えるようにするところまでしか作れない。言わない者の口を開かせる条文など誰にも書けなかった。


---


 昼前の日向にレオルはいた。


 平たい岩に腰を下ろして目を細めている。眠っているようにも見えたが、尾の先だけが時おり床石を打っていた。


 エルクはその横の低い石に座った。


 何も言わなかった。


 持ってきた芋を割って片方を差し出した。受け取られなかったので自分の膝に置いた。


 前のエルクなら大丈夫かと聞いていた。疲れてないかと聞いていた。聞けば疲れておらんと返ってくる。もう二度聞いて二度とも同じ返事だった。三度目を聞けばこの長は三度目の嘘をつくことになる。だからエルクは黙って日向にいた。


 しばらくして低い声がした。


「……何をしておる」


「日向ぼっこ」


「見れば分かる」


「じゃあ聞かなくていいじゃん」


 レオルが鼻から息を抜いた。笑ったのかもしれなかった。


 やがて足音がいくつも近づいてきた。ソウが呼んだのだ。クラウが写し帳を抱え、ミナとケインが並び、その後ろからエネがノノの手を引いてきた。メルは数えた紙をまだ持っていた。


 レオルは立ち上がった。


「話なら聞かん」


「まだ何も言ってないよ」


「顔に書いてある」


 長は輪をぐるりと見渡した。


「疲れたと言えと申すのか。長が。皆が立っておるなかで長が真っ先に疲れたと。……できるものか」


 誰も答えられなかった。正しいことは全員が知っていた。正しさは誇りの前で止まる。


---


 輪の外の地面が重く鳴った。


 門のほうから金色の影が歩いてきていた。ライオだった。誰も呼んでいない。獅子王は輪の縁で止まると前脚をそろえて座り、礼を欠かさぬ低い声で念じた。


『……我も申し上げなんだ』


 レオルが振り向いた。


『半月のあいだ門の外におった。当番の表に我の名はない。頼まれておらぬゆえ、疲れたと言う場所もなかった。……言わなんだのはそれだけが理由ではない』


 獅子は主のほうを見なかった。


『申し上げれば主は夜を減らす。減らされれば我は門の外から外される。守る役を降ろされるのが恐ろしかった。だから座っておった』


 尾が一度だけ地を打った。


『我の力は倒れぬことだ。倒れぬ者は、倒れる前に助けを呼ぶ術を持たぬ。……鱗の長よ。我とお主は同じだ。強い者ほど言えぬ。強いことがそのまま口を塞ぐ』


 伏せていたウルが顔を上げた。


『我もだ』


 短い念話だった。


『名を書けと言われて書いてはじめて分かった。半月ぶん余分に回っておったとな。我は自分の疲れを自分で数えておらなんだ』


 丸太のあいだから水桶を担いだスラが跳ねてきた。


『おいら疲れたッス!』


 あまりに軽く言ったので避難民の子らが吹き出した。


『昨日ずーっと桶を運んでたッスからね! 腕がもげそうッス! ……腕ないッスけど!』


『兄さん。桶を置いてから言ってください』


 通りかかったライはそう言っただけで、止めはしなかった。


 小屋の裏では糸を張り替える音がしていた。


「言えばいいのよ~。それだけのことなのに」


 アラーネの声が暗がりから流れてくる。


「私の糸はね、緩んだら緩んだって揺れるようにしてあるの。張ってるふりして黙ってる糸がいちばん質が悪いのよ~。……揺れたら誰かが来てくれるでしょう」


 頭上で風が鳴った。翼が一度旋回して低く降りてくる。


『この四晩、あの鱗が寝床に戻ったのを俺は見ていない』


 グリフだった。


「……見ておったのか」


『上から見ていただけだ。鳴かなかった。何も起きていなかったからな』


 嘴が一度こちらを向いた。


『起きていたのはお前だけだ』


---


 輪のあいだを小さな影がすり抜けた。


 首から下げた護符が跳ねた。ノノだった。リザードマンの長の足もとまで来て見上げる。


「つかれたっていっていいんだよ」


「……子供が何を」


 ノノは真顔だった。逃げなかった。


「こわいっていっていいなら、つかれたもいいでしょ」


 風の音だけがした。


 エネはノノを止めなかった。手を引き戻しもしなかった。ただ少し後ろに立っていた。


「あたし何も教えてないよ」


 誰にともなくそう言った。


「こわいって言っていいってのは、みんなで決めたやつ。つかれたも、はあの子が自分で足したの」


 ミナが前に出た。板を抱えたままだった。


「ミナも言えなかった」


 レオルが見下ろした。


「当番の組みあわせはミナがぜんぶ組んでた。人に頼むより自分でやったほうが早いから。渡すと説明に時間がかかるでしょ。……だから全部持ってた」


 板を胸に抱え直す。


「そのせいで一回あぶなかったの。ミナが倒れてたら次の日の当番が誰にも分からなかった。ミナの頭のなかにしかなかったから」


 板の縁を指でなぞった。


「空の主にも、おなじこと言った。……二回言ったら、二回とも楽になった」


 声は震えていなかった。


「言えなかったのは怠けたからじゃないよ。ミナはみんなの役に立ちたかっただけ。……でも、それがいちばん危ない持ち方だったの」


 ケインが頭を掻きながら口を開いた。


「おれが、最初に立たなかったやつです」


 誰も笑わなかった。


「板が埋まってんのに門の前に誰もいなかった夜。あれ作ったのおれっす。言うのはめちゃくちゃ怖かったっすよ。国を空けたんだから」


 ケインは肩をすくめた。


「……それで今も誰にも嫌われてないっす。飯もふつうに出てくるし、ミナは相変わらず当番をきっちり振ってくるし」


---


 レオルは何も言わなかった。


 長い沈黙だった。岩の影が短くなっていくのが見えるくらい長かった。ウルが立ち上がって輪を横切り、長の隣に寝そべった。何も念じなかった。ただ顎を前足に乗せて目を閉じた。


 レオルの尾がゆっくり動いて止まった。


 やがて長は誰の顔も見ずに、地面へ向かって言った。


「……疲れた」


 それだけだった。


 誰も歓声を上げなかった。よく言ったとも偉いとも言わなかった。ノノが何か言いかけてエネに口を押さえられた。


 クラウが写し帳ではなく板を開いた。休む枠の欄に筆を下ろして鱗の長の名前を書き、書き終えると板を壁へ掛け直した。筆を置く音がひとつしただけだった。


 それで終わりだった。


「明日と明後日だ」


 クラウが言った。


「二日ぶん入れた。文句があるなら会議で言え」


 メルが紙を広げた。


「レオルさんが二晩休むと夜が二つ空きます。埋め方はもう作ってあるので大丈夫です」


 紙には名前が二つ並んでいた。


「先月来た二人です。ミナさんが人間と避難民で組ませました」


「なんで新しい人なの」


「新しい人は疲れてないからです」


 メルはあっさり言った。


「疲れてない人から順に立ってもらうのが、いちばん長く続くんです。……疲れてる人からもう一晩取るのを半年やった結果が、この前の三本ですから」


「……ふん」


 レオルは岩から下りて自分の家のほうへ歩いていった。途中で一度だけ足を止めて振り返った。


「獅子」


『は』


「お前も書け」


『……承知した』


 エルクは膝の芋をようやく食べはじめた。半分に割ったままのもう片方はすっかり冷たくなっていた。


「僕さ。あの二文字書くのに半年かかったと思う」


 ソウが板を見上げたまま頷いた。


「怖いって言えるようになるのに一年かかったのよ。疲れたのほうが短いくらいだわ」


「怖いは一回だもんね」


 エルクは芋をかじった。


「疲れたは毎日だから。……たぶんこれ、毎日言わなきゃいけないやつだ」


---


 その夜の当番はミナとケインだった。


 入口のわきにはウーゴの小屋が建っている。三方に壁があり屋根があり、中に腰かけが二つ並んでいた。立ち続けなくてよくなってから夜番の顔つきが変わったと、誰かが昼に言っていた。


 二人は腰かけに座り、糸の端をそれぞれ手に持っていた。渡したら名を言う。受け取ったら名で言う。板に書き足した一行はそれだけだった。


 夜明け前の一刻には人が立たない。今夜はライが結界を張らない日だった。五日に一度は張らないとライ自身が決めた日だ。代わりに閂が三重に落ち、糸は日暮れに張り替えられている。


 広場のほうでは大きな体が糸をまたがないよう、そろそろと寝返りを打つ音がした。ドラゴだった。


 国は眠っていた。


 ミナが小さく欠伸をした。


「ケイン、ねむい?」


「ねむいっす」


「休みの欄には明日ミナが書いとくね」


「助かるっす」


 糸が一度だけ揺れた。


 風ではなかった。


 ミナの耳の奥で誰かが言った。よく知っている声だった。毎日聞いている声だった。返事をしようとして横を見ると、ケインも顔を上げていた。ケインもたった今、何かを聞いた顔をしていた。


 ただし二人が聞いた声は、同じ声ではなかった。


 その声はどちらにも、まったく同じことを言った。


「疲れたろう。……代わっておくよ」

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