第149話 疲れたと言う
朝の光が柵の外まで届く頃にレオルは戻ってきた。
夜のあいだ誰にも頼まれていない見回りをしていた。当番の欄にも休みの欄にもその名はない。誰にも会わずに岩場のほうへ抜けようとして、長は途中で足を止めた。
板の前にソウが立っていた。
「昨日の夜どこにいたの」
「外だ」
「当番じゃないわ」
「知っておる」
それだけ言って通り過ぎようとした腕が板の縁に触れた。掛けてあった筆が落ちて、乾いた音を立てた。
ソウは拾わなかった。拾えなかった。
レオルの手が震えていた。ほんのわずかだった。太い指の先が細かく揺れて、それが止まるまでに少しかかった。長は自分で筆を拾い上げて元の場所へ掛け直した。そのときにはもう震えていなかった。
「落としたな。すまん」
それだけ言って歩いていった。
ソウはその背中が見えなくなってから広場へ走った。走りながら喉の奥が苦かった。指摘すれば侮辱になる。人前で長の誇りを剥がすことになる。決まりは言えるようにするところまでしか作れない。言わない者の口を開かせる条文など誰にも書けなかった。
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昼前の日向にレオルはいた。
平たい岩に腰を下ろして目を細めている。眠っているようにも見えたが、尾の先だけが時おり床石を打っていた。
エルクはその横の低い石に座った。
何も言わなかった。
持ってきた芋を割って片方を差し出した。受け取られなかったので自分の膝に置いた。
前のエルクなら大丈夫かと聞いていた。疲れてないかと聞いていた。聞けば疲れておらんと返ってくる。もう二度聞いて二度とも同じ返事だった。三度目を聞けばこの長は三度目の嘘をつくことになる。だからエルクは黙って日向にいた。
しばらくして低い声がした。
「……何をしておる」
「日向ぼっこ」
「見れば分かる」
「じゃあ聞かなくていいじゃん」
レオルが鼻から息を抜いた。笑ったのかもしれなかった。
やがて足音がいくつも近づいてきた。ソウが呼んだのだ。クラウが写し帳を抱え、ミナとケインが並び、その後ろからエネがノノの手を引いてきた。メルは数えた紙をまだ持っていた。
レオルは立ち上がった。
「話なら聞かん」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に書いてある」
長は輪をぐるりと見渡した。
「疲れたと言えと申すのか。長が。皆が立っておるなかで長が真っ先に疲れたと。……できるものか」
誰も答えられなかった。正しいことは全員が知っていた。正しさは誇りの前で止まる。
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輪の外の地面が重く鳴った。
門のほうから金色の影が歩いてきていた。ライオだった。誰も呼んでいない。獅子王は輪の縁で止まると前脚をそろえて座り、礼を欠かさぬ低い声で念じた。
『……我も申し上げなんだ』
レオルが振り向いた。
『半月のあいだ門の外におった。当番の表に我の名はない。頼まれておらぬゆえ、疲れたと言う場所もなかった。……言わなんだのはそれだけが理由ではない』
獅子は主のほうを見なかった。
『申し上げれば主は夜を減らす。減らされれば我は門の外から外される。守る役を降ろされるのが恐ろしかった。だから座っておった』
尾が一度だけ地を打った。
『我の力は倒れぬことだ。倒れぬ者は、倒れる前に助けを呼ぶ術を持たぬ。……鱗の長よ。我とお主は同じだ。強い者ほど言えぬ。強いことがそのまま口を塞ぐ』
伏せていたウルが顔を上げた。
『我もだ』
短い念話だった。
『名を書けと言われて書いてはじめて分かった。半月ぶん余分に回っておったとな。我は自分の疲れを自分で数えておらなんだ』
丸太のあいだから水桶を担いだスラが跳ねてきた。
『おいら疲れたッス!』
あまりに軽く言ったので避難民の子らが吹き出した。
『昨日ずーっと桶を運んでたッスからね! 腕がもげそうッス! ……腕ないッスけど!』
『兄さん。桶を置いてから言ってください』
通りかかったライはそう言っただけで、止めはしなかった。
小屋の裏では糸を張り替える音がしていた。
「言えばいいのよ~。それだけのことなのに」
アラーネの声が暗がりから流れてくる。
「私の糸はね、緩んだら緩んだって揺れるようにしてあるの。張ってるふりして黙ってる糸がいちばん質が悪いのよ~。……揺れたら誰かが来てくれるでしょう」
頭上で風が鳴った。翼が一度旋回して低く降りてくる。
『この四晩、あの鱗が寝床に戻ったのを俺は見ていない』
グリフだった。
「……見ておったのか」
『上から見ていただけだ。鳴かなかった。何も起きていなかったからな』
嘴が一度こちらを向いた。
『起きていたのはお前だけだ』
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輪のあいだを小さな影がすり抜けた。
首から下げた護符が跳ねた。ノノだった。リザードマンの長の足もとまで来て見上げる。
「つかれたっていっていいんだよ」
「……子供が何を」
ノノは真顔だった。逃げなかった。
「こわいっていっていいなら、つかれたもいいでしょ」
風の音だけがした。
エネはノノを止めなかった。手を引き戻しもしなかった。ただ少し後ろに立っていた。
「あたし何も教えてないよ」
誰にともなくそう言った。
「こわいって言っていいってのは、みんなで決めたやつ。つかれたも、はあの子が自分で足したの」
ミナが前に出た。板を抱えたままだった。
「ミナも言えなかった」
レオルが見下ろした。
「当番の組みあわせはミナがぜんぶ組んでた。人に頼むより自分でやったほうが早いから。渡すと説明に時間がかかるでしょ。……だから全部持ってた」
板を胸に抱え直す。
「そのせいで一回あぶなかったの。ミナが倒れてたら次の日の当番が誰にも分からなかった。ミナの頭のなかにしかなかったから」
板の縁を指でなぞった。
「空の主にも、おなじこと言った。……二回言ったら、二回とも楽になった」
声は震えていなかった。
「言えなかったのは怠けたからじゃないよ。ミナはみんなの役に立ちたかっただけ。……でも、それがいちばん危ない持ち方だったの」
ケインが頭を掻きながら口を開いた。
「おれが、最初に立たなかったやつです」
誰も笑わなかった。
「板が埋まってんのに門の前に誰もいなかった夜。あれ作ったのおれっす。言うのはめちゃくちゃ怖かったっすよ。国を空けたんだから」
ケインは肩をすくめた。
「……それで今も誰にも嫌われてないっす。飯もふつうに出てくるし、ミナは相変わらず当番をきっちり振ってくるし」
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レオルは何も言わなかった。
長い沈黙だった。岩の影が短くなっていくのが見えるくらい長かった。ウルが立ち上がって輪を横切り、長の隣に寝そべった。何も念じなかった。ただ顎を前足に乗せて目を閉じた。
レオルの尾がゆっくり動いて止まった。
やがて長は誰の顔も見ずに、地面へ向かって言った。
「……疲れた」
それだけだった。
誰も歓声を上げなかった。よく言ったとも偉いとも言わなかった。ノノが何か言いかけてエネに口を押さえられた。
クラウが写し帳ではなく板を開いた。休む枠の欄に筆を下ろして鱗の長の名前を書き、書き終えると板を壁へ掛け直した。筆を置く音がひとつしただけだった。
それで終わりだった。
「明日と明後日だ」
クラウが言った。
「二日ぶん入れた。文句があるなら会議で言え」
メルが紙を広げた。
「レオルさんが二晩休むと夜が二つ空きます。埋め方はもう作ってあるので大丈夫です」
紙には名前が二つ並んでいた。
「先月来た二人です。ミナさんが人間と避難民で組ませました」
「なんで新しい人なの」
「新しい人は疲れてないからです」
メルはあっさり言った。
「疲れてない人から順に立ってもらうのが、いちばん長く続くんです。……疲れてる人からもう一晩取るのを半年やった結果が、この前の三本ですから」
「……ふん」
レオルは岩から下りて自分の家のほうへ歩いていった。途中で一度だけ足を止めて振り返った。
「獅子」
『は』
「お前も書け」
『……承知した』
エルクは膝の芋をようやく食べはじめた。半分に割ったままのもう片方はすっかり冷たくなっていた。
「僕さ。あの二文字書くのに半年かかったと思う」
ソウが板を見上げたまま頷いた。
「怖いって言えるようになるのに一年かかったのよ。疲れたのほうが短いくらいだわ」
「怖いは一回だもんね」
エルクは芋をかじった。
「疲れたは毎日だから。……たぶんこれ、毎日言わなきゃいけないやつだ」
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その夜の当番はミナとケインだった。
入口のわきにはウーゴの小屋が建っている。三方に壁があり屋根があり、中に腰かけが二つ並んでいた。立ち続けなくてよくなってから夜番の顔つきが変わったと、誰かが昼に言っていた。
二人は腰かけに座り、糸の端をそれぞれ手に持っていた。渡したら名を言う。受け取ったら名で言う。板に書き足した一行はそれだけだった。
夜明け前の一刻には人が立たない。今夜はライが結界を張らない日だった。五日に一度は張らないとライ自身が決めた日だ。代わりに閂が三重に落ち、糸は日暮れに張り替えられている。
広場のほうでは大きな体が糸をまたがないよう、そろそろと寝返りを打つ音がした。ドラゴだった。
国は眠っていた。
ミナが小さく欠伸をした。
「ケイン、ねむい?」
「ねむいっす」
「休みの欄には明日ミナが書いとくね」
「助かるっす」
糸が一度だけ揺れた。
風ではなかった。
ミナの耳の奥で誰かが言った。よく知っている声だった。毎日聞いている声だった。返事をしようとして横を見ると、ケインも顔を上げていた。ケインもたった今、何かを聞いた顔をしていた。
ただし二人が聞いた声は、同じ声ではなかった。
その声はどちらにも、まったく同じことを言った。
「疲れたろう。……代わっておくよ」




