第148話 減らす
朝の広場に三本の糸が並べて置かれていた。
どれも端の垂れた糸だった。三本とも夜明け前。人がいちばん薄い時間に集まっている。クラウは糸を丸太の輪の真ん中に置いてから板に書き写した時刻を読み上げた。
「ここが空く。毎日空く。誰の怠けでもない。……最初から埋まらない時間だ」
しばらく誰も口をきかなかった。
「なら、そこへ人を足すしかないだろう」
声を上げたのは移住者の男だった。罰を作れと言い、糸を子供だましと言ったあの男だ。
「二人立てないなら一人でもいい。夜明け前の一刻だけだ。みんなでもう少しずつ我慢すれば埋まる」
もっともに聞こえた。何人かがうなずいた。ソウが板に指をあてて数えはじめて途中で止まった。
「……足りないわ。回せる人がもういない」
メルが写しの束をめくって顔を上げた。
「足りないんじゃないです。もう超えてます」
いつもの明るい調子がなかった。
「今の当番の数は、みんなが半年前より一晩ずつ多く立ってやっと回ってる数なんです。そこへ夜明け前を足すと、一人あたり月に三晩増えます。……二月で壊れます。今度は六つずつじゃなくて、全部いっぺんに」
誰も言い返さなかった。もう少しだけ頑張ろうを半年続けた結果がそこに垂れている三本だった。
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エルクは丸太に座ったまま足をぶらぶらさせていた。
「じゃあさ。僕が――」
低い唸り声がした。
輪の外に伏せていたウルが顔を上げていた。牙は見せない。喉の奥で短く鳴らしただけだった。
エルクは口を閉じた。頭のうしろを掻いてそれからずいぶん長く黙っていた。誰も急かさなかった。ソウが板を持ったまま待っていた。メルが写しをめくる手を止めた。
「……じゃあさ」
やっと出てきた声は全然ちがうことを言った。
「減らそっか」
輪が静まり返った。
「回らないんでしょ。回らない守りって守ってないよね。それ守ってるふりだよ」
「減らす、だと」
レオルが岩の上で腕を組み直した。鱗の下の筋がひとつ動いた。
「守りを減らすのか。あの夜を忘れたか。石扉が半分開いた夜だぞ。入口に誰も立っておらんかった夜だ」
「忘れてないよ」
エルクの声は変わらなかった。
「忘れてないから減らすんだ。……あの夜ってさ。みんなが限界まで頑張ったあとに来たんでしょ」
レオルの口が開いてそのまま閉じた。
言い返す言葉はいくらでもあったはずだった。どれを選んでも、限界まで黙って立っていたのは自分だという話に戻る。長は腕を組み直しただけでそれきり何も言わなかった。
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『はいはーい!』
丸太のあいだからスラが跳ね出した。
『おいらが立つッス! 分裂すればいくらでも増えるッスよ! 夜明け前だろうが朝までだろうが、おいらの分身で全部埋めるッス!』
あちこちから笑いが漏れた。悪くない案に聞こえた。手が足りる。誰も疲れない。
ライが静かに前へ出た。
『兄さん。分身は名前を書けますか』
『……書けないッス』
『表に名前の載らない者が立つと、立ったことがどこにも残りません。私たちが困ったのは、そこでした』
スラの体がわずかに縮んだ。
『それに分身は疲れたと言えません。疲れる前に消えるだけです。隣の者が今夜きつそうだと気づくこともできません。門の前にいてほしいのは数ではなく、気づける誰かなんです』
エルクが小さく笑った。
「それ、この前僕が言われたやつだ」
僕が全部立つよ、と言いかけて止められたのはついこのあいだのことだった。数だけ足しても穴は埋まらない。同じ答えが今度はスラに返っただけだった。
スラはしゅんと丸くなって黙っていたが、しばらくして急にぷるりと跳ねた。
『じゃあおいら、昼にするッス!』
「昼?」
『夜に立った奴を昼に寝かせるッス! おいら昼はずーっと起きてるッスから、寝てるあいだの畑も水汲みもおいらが走るッスよ。立てないなら、立った奴を寝かせるッス!』
エルクは目を丸くしてそれから深くうなずいた。
「……それ、いちばんいるやつだ」
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「ならば竜と狼に立たせればよかろう」
レオルが言った。移住者たちが何人か顔を上げた。
「ここには人の何倍も強い従魔がおる。疲れぬ者に夜を任せればよい。それで足りる」
「ウルは疲れるよ」
エルクは即答した。
「半月くらい前から夜の外周を余分にもう一回ずつ回ってたんだ。誰にも言わないで。ライオも門の外にずっと座ってた。表のどこにも名前がないから、僕、ぜんぜん気づかなかった」
『我は疲れておらぬ』
ウルが低く言った。
「うん。でもそれ、レオルとおんなじだよ」
ウルの耳がわずかに動いた。
「疲れてない人が黙って埋めてくれるのって、いちばん助かるんだよ。助かるから、その人が倒れるまで誰も気づけないんだ。……ウルが倒れたら僕、たぶん立ち直れないよ」
ウルはしばらく黙ってそれから前足に顎を乗せた。反論はしなかった。
『では、我の名も表に書け』
「うん。減らすほうの欄に書くね」
門の外の暗がりでは、ライオが座ったまま外を向いていた。呼ばれても振り向かない。ただ、外周を回る回数を一度に減らすとソウが読み上げたとき、尾の先だけがわずかに床を打った。是とも否とも言わなかった。
輪の端で大きな影がもぞりと動いた。
『我も夜に立とうか。我が門の前に座っておれば、誰も近づかぬのだ』
「近づけん。当番の二人もな」
クラウがすかさず返した。
「おまえが座ったら入口をふさぐだろう。この前、糸を跨ごうとして日暮れまで動けなくなったのはどこの竜だ」
『……あれは糸が細すぎたのだ』
笑いが起きた。ドラゴはむすりと翼をたたんでそれきり黙りこんだ。国でいちばん強い一頭が、いちばん役に立てない場所に座っている。竜の炎で埋まる穴なら、この国はとうに困っていない。
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そこから先は算数だった。
メルが数を出し、ソウが板を引き直した。夜明け前の一刻を人から外す。当番の数を三割減らす。減らしたぶんは人以外で足す。
「扉の閂を三重にします」とメルが言った。
「糸はもう張ってあるからそのままで。入口にも、夜のあいだだけ結界をお願いできますか」
『張れます』
ライが答えた。
『夜明け前の一刻だけ、門と入口に結界を張っておきます。人が立たない時間の穴は、私が埋めます』
『ノノの護符はそのままです。あの子から外す気はありません』
「無理してない?」
『無理はします』
ライはあっさり言った。
『結界は疲れませんが、私は疲れます。ですから五日に一度は張りません。その日は別の埋め方を考えてください。……疲れないふりをして、あとで全部いっぺんに落とすほうが困りますから』
クラウは筆を止めてライを見た。それから何も言わずに書き足した。
通路のほうからは糸を張り替える音がしていた。
「夜明け前だけ張り替えるわ~。夜露で緩むと揺れないのよ。緩んだ糸って、張ってあるのに何も教えてくれないの。……いちばん質が悪いわね~」
アラーネの声は暗がりから聞こえてくるだけだった。
入口のわきにはウーゴの小屋がもう建ち上がっていた。屋根と三方の壁。中に腰かけが二つ並んでいる。
「フタリ、スワル。タツ、ナガイ、ダメ」
ウーゴはそれだけ言って、屋根の端をもう一度叩いた。夜を越すのに立ち続ける必要は、どこにもなかった。
最後にソウが板を持ち上げて、全員に見せた。当番の欄の隣に、新しい欄がひとつ増えていた。
「休む枠よ。ここに名前を書くの。当番と同じ欄の隣に、同じ大きさで書く」
「休みを書くのか」
「書くわ。……今まで休んでる人は、どこにも書かれてなかったの。書かれてないから、休んでる人は空いてる人に見えたのよ。空いてる人に見えたら、また声がかかるでしょう」
クラウが写し帳を開いて、新しい行を一つだけ書いた。読み上げたのはもっと短かった。
「渡すときは、渡した先の名を言う。受け取った者も、受け取ったと名で言う」
「それだけか」とレオルが言った。
「それだけだ。長い決まりは誰も覚えん。……六つの夜も今度の三つも、渡した先の名を一度声に出していれば起きていない」
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減らした最初の夜は、何も起きなかった。
夜明け前の門の前に人は立っていなかった。閂が三重に落ち、糸が張り替えられ、薄い光の膜が入口を覆っていた。ウルは外周をひと回りだけして戻り、伏せて眠った。ライオも門の内側へ体を入れて丸くなった。国の暗がりから、はじめて見張りの気配が消えた。
二日目も何も起きなかった。三日目の朝には、当番を外れた者たちが朝までぐっすり眠った顔で畑へ出てきた。ケインが欠伸をしながら鍬を担いでいた。
「おれ、こんなに寝たの久しぶりっす」
その隣でミナが休みの欄に自分の名前を書いていた。書き終えるまで少し時間がかかった。文字はまだ得意ではない。それでも人に頼まず自分で書いた。
「休んでいいって書いてある日は、ミナ、休みます」
板の休みの欄には日ごとにいくつも名前が並ぶようになった。人を減らしたのに、国は前より静かに眠れるようになっていた。スラは昼のあいだじゅう跳ね回って、夜番明けの者の水桶を代わりに運んでいた。
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四日目の夕方、クラウが板の前で足を止めた。
休みの欄はほとんど埋まっていた。ソウの名も、ケインの名も、ミナの名も、順に一度ずつ入っている。エルクの名もあった。渋々ながらウルの名も並んでいた。
一つだけ、空いていた。
鱗の長の名は当番の欄にしかなかった。休みの欄には一度も書かれていない。当番を三割減らしても、その一人ぶんだけは何も減っていなかった。
クラウは筆を持ち上げて、また置いた。他人の休みを他人が書くわけにはいかない。そういう欄にしたのは自分たちだった。
その夜、レオルは外の暗がりへ一人で出ていった。当番ではなかった。誰も頼んでいなかった。
国じゅうが眠っていた。眠っていない者が、まだ一人だけ残っていた。
その背中を、地の底のずっと奥から、静かなものがひとつ見ていた。




