第147話 網が見せた線
朝の広場はまだ静まったままだった。
誰かが口を開いたのは、その静けさに耐えかねてのことだったのかもしれない。移住者の一人が丸太の輪の外から声を上げた。
「渡した先を書かせればいい。書かなかった者には次から当番を外す。それくらいしないと、また同じことが起きる」
もっともに聞こえた。何人かがうなずきかけた。
「だめだ」
止めたのはクラウだった。
「罰を作ったら、次にほころんだ奴は黙る。今回みんなが六つも申告できたのは、責めなかったからだ。……罰を置いた瞬間、これは終わる」
ソウが顔を上げた。
「じゃあどうするのよ。書けって言っても書かないんじゃ、同じことの繰り返しだわ」
「書かせるからだめなんだよ」
エルクが丸太の上で頬杖をついたまま言った。
「書くの面倒だから書かないんでしょ。……じゃあ、書かなくてもいいようにすればいいんじゃない? 見えればいいんだから」
「見えるって、どうやって」
クラウが眉を寄せた。エルクは答えられなかった。ただそう思っただけで、そこから先は数字も記録も苦手なエルクの手には余った。
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答えを持ってきたのはアラーネだった。
昼過ぎに広場へ現れて輪の真ん中に糸の束をどさりと置いた。
「渡したかどうかを人に書かせるから漏れるのよ。糸ならね、渡ってなければ張らないわ~」
誰かが端を持って歩き出す。糸はその足に合わせてどこまでも伸びる。渡す場所まで来て、次の者がその端を握って自分の柱に結ぶ。結ばれれば二本の柱のあいだに糸がぴんと張る。誰も来なければ糸はただ地面に垂れたまま風にあおられて終わる。
「朝、糸を見れば分かるわ。張ってるか垂れてるか。それだけよ」
ソウが最初に立ち上がった。
「表じゃなく、糸を見ればいい……。私、それがいいわ」
板を見て埋まっていると思い、人を見ていなかった目が、初めて人へ繋がる線を見ようとしていた。
「ちょっと! そこ引っ張らないでよ!」
試しに柱と柱のあいだへ糸を渡そうとしたラネが、通りかかったソウの足に糸を巻きつけて悲鳴を上げた。
「ごめんね」
「もう……。いいわ、やり直すから」
長い説明はラネには要らなかった。手を動かすほうが早かった。
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糸を張って回る役には避難民の子らも交じった。
ミナは柱に結ぶ手つきを何度もアラーネに直された。結び目が固すぎると次の者がほどけない。緩すぎれば夜のうちに落ちる。三度目でようやく形になった。
「これなら、ミナにも分かります」
ミナは張ったばかりの糸を指でそっと弾いた。
「表は……読めないから。誰の名前が書いてあるのか、聞かないと分からなかったです」
ミナは糸の先を目で追った。
「聞いたら、みんな埋まってるって言うんです。だから信じるしかなくて」
その一言に近くで杭を打っていたソウの手が止まった。
読める者は表を見て安心していた。読めない者は読める者の言葉を信じるしかなかった。立っている場所は違っても、どちらも人を見ていなかったことに変わりはない。糸はその差をまるごと消してしまう。張っているか垂れているか。それだけなら誰の目にも同じに映る。
「文字が読めないと参加できない仕組みは、参加できない人がいるってことよね~」
アラーネが糸の束を抱え直しながら誰にともなく言った。
「そういうの、いちばん先にほころぶのよ」
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それから数日、国のあちこちで小さな音が続いた。
ダクトは毎朝、糸の束と当番表を記録の間から会議の卓まで運んだ。
「重いですぞ」
そうこぼしながらも器用な体で束を抱え直して歩く。運ぶ者がいるから束は毎朝そこにある。誰も褒めない仕事だった。
ウーゴは当番小屋をようやく仕上げた。二人並んで座れる屋根つきの小屋だった。
「フタリ、スワル」
それだけ言って手を止めた。レオルが黙って中を覗いたのをウーゴは見ていた。長は何も言わずに離れていった。
ノノは子供らの側にも小さな糸を張った。
「へんな声がきこえたら、いとをひっぱる」
手を握るより先に糸を引く。教えたやり方が一つ増えた。エネがその隣で頷いていた。
夜のあいだ、ウルは地下の入口に伏せて糸の張り具合を静かに見ていた。何も唸らない夜が続いた。門の外ではライオが立ったまま外の闇を見ている。糸の届かない場所を体ひとつで埋めていた。
ドラゴは糸の上を歩かないよう大きな体を持て余しながらそっと足を運んでいた。踏めば一瞬で切れてしまう。跨ごうとして翼が引っかかり、慌てて動きを止めたきり、日が暮れるまでその場から出られずにいた。誰かの目を焼く炎の代わりにこの日のドラゴが使ったのは、ただ静かに避ける足だけだった。
「おいらも手伝うッス!」
スラが糸の束に飛びついて逆に絡まって丸くなった。ラネに引っ張り出されて、ぷるぷると震えながらまた次の柱へ跳ねていった。
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「そんな子供だましで悪魔が防げるものか」
輪の隅から出た声だった。初日に罰を作れと言った移住者だった。糸はただの糸だ。斬るのも燃やすのも容易い。悪魔がその気になれば一晩で断たれる。言っていることは間違っていなかった。
メアが静かに答えた。
「防げないです」
迷いのない声だった。
「これで悪魔を止められるとは思ってません。……でも、見えます。見えないのが一番こわかったんです。誰が渡して、誰が受け取ったか。それがずっと見えなかったから、六つの夜が消えたんです」
男は何か言いかけて口を閉じた。六つの夜のうちの一つは、この男の持ち場だった。
誰も言い返さなかった。
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試しに張った初日、朝いちばんにクラウが糸を見て回った。
ほとんどの柱にはぴんと糸が渡っていた。門の前、記録の間の入口、外周の分かれ道。どこも二本の柱のあいだに白い線がまっすぐ光っていた。前の夜に誰かがそこを渡り、次の誰かがそれを受け取った証だった。名前はどこにも書かれていない。それでも渡ったことだけは動かしようがなかった。
三本だけ、垂れていた。
地面に落ちて夜露に濡れたまま、行き先のない端を風にわずかに揺らしている。渡した者はいた。柱に結んだ跡が残っている。だが受け取った側の柱には何も結ばれていなかった。
「三つか」
クラウは切れた端を拾い上げてしばらく黙って見ていた。
六つが三つに減った。半分は糸を張っただけで塞がった。書けと言っても書かれなかったものが糸に替えただけで半分になった。だが残りの三つは糸を張っても届かなかった。
その三本をあとから来たソウが受け取った。
「これ、私の見ていた表だと全部埋まってるわ」
ソウは垂れた端を手のひらに乗せた。
「板の上では埋まってるの。でも糸は落ちてる。……どっちが本当かなんて、考えるまでもないわよね」
言い訳をしなかった。埋まっていると思った、ではなく、自分は埋まっていることにして見るのをやめていた。ソウはそう言い直した。
「私が見なきゃいけなかったのは、板じゃなくてこっちだった」
クラウは何も言わずに、三本の端をソウの手から受け取り直した。責める言葉はどちらからも出なかった。垂れた糸のほうが、どんな叱責よりも先に事実を言い終えていた。
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その日の夕方、クラウは三本の切れた糸を並べて、日付と時刻をもう一度突き合わせていた。
筆が途中で止まった。
「エルク」
「なに」
「三つとも、同じ時間帯だ」
クラウの声が低くなった。
「夜明け前。……いちばん人が薄い時間に、集まってる。誰かが怠けたわけじゃない。最初から、そこは埋まりにくい時間だったんだ」
誰の悪意でもなかった。誰の不注意でもなかった。ただこの国の一日のなかに、最初から誰もいない時間が空いていた。糸はそれを、初めて目に見える形にしてみせただけだった。




