第146話 誰も止めに来なかった
灯りがひとつ、地の底に着いた。
記録の間はいつもより暗かった。壁の松明が半分しか灯っていない。当番が二人いれば二人ぶん灯すはずの油を、一人ぶんに絞ったような暗さだった。クラウはそのことに気づかなかった。灯りを高く掲げて奥の壁へ進んだ。
白い顔がそこにあった。
名を消され絵から削られ語りから外された一羽。塗り重ねられた白の下に輪郭だけがうっすら残っている。クラウはその前に立った。灯りを床に置いた。油がぱちりと鳴った。
声がした。
「一人で来たな」
低い声だった。囁きではない。掠れてもいない。落ち着いて急がず、笑いも怒りもしない、ただ静かな声だった。
「……よい。誰も来ない」
クラウは動かなかった。
「表には二人の名があっただろう。だが片方はもう片方が立つと思い、もう片方も片方が立つと思った。両方とも渡したつもりでいる。渡した先を確かめた者は一人もいない。だからここにはお前と私しかいない」
「知ってる」
クラウの声は低かった。
「気づいてた。降りる前に表を見た。二人の名があった。それでも一人だと分かってた。マス目が埋まってるだけだ。中身は空だ。何度も自分で組んだ表だからな。どこが空くかは組んだ者がいちばんよく知ってる」
「ならばなぜ降りた」
クラウは答えなかった。灯りの向こうの白い輪郭を見ていた。
「知りたいからだろう」と声が言った。
「隠された一羽の名。お前の国の誰も持っていない。空の一族すら忘れた。あの少年が山頂まで登っても出てこなかった。この世でその名を持つのは私だけだ。知りたいだろう。分からぬものは怖い。分かってしまえば怖くなくなる。……そう言ったのはお前だ」
「言った」
「では教えてやろう。名を──」
クラウが手を挙げた。
「……いや」
声が止まった。
「今は、いい」
その一言を言うのに、クラウはずいぶん長く息を吸った。
「聞いたら、俺が二人目になる。門を開けた者の隣にいた二人目にだ。あいつは止める役として並んでた。止めなかった。止められなかった。それだけで名を消された。……俺がここでその名を聞いたら、聞いた者になる。聞いてしまった者を、次はどう始末するのか。俺はそれを知りたくない」
声はしばらく黙っていた。
「では、また」
そう言った。追わなかった。責めもしなかった。
「疲れたときに来い。人は必ず疲れる。今日でなくてもよい」
それきり声は消えた。壁は白いままだった。クラウは灯りを拾い上げた。手が少し震えていたが、それは寒さのせいだと自分に言い聞かせた。
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その同じころ、地上の従魔たちはみな持ち場にいた。
ライオは国の外周を回っていた。柵の外の闇を睨んで一歩ずつ足を運んでいた。守るべきものは柵の外から来る。ライオはずっとそう教わってきた。だからその夜も、外だけを見ていた。
グリフは空の高いところで山あいを見張っていた。稜線の影と星の位置を数えていた。上から見れば国じゅうが見える。だが記録の間は地の底にある。上からは見えない。グリフの目はいちばん遠くまで届いて、いちばん深いところには届かなかった。
アラーネは通路の足場に糸を張り直していた。人が踏み外さないように張った糸だ。人が通れば揺れる。その夜、クラウが通った通路にも糸は張ってあった。糸は揺れた。だがそれは「人が通った」としか告げない。「一人で通った」とは告げない。アラーネの糸は数を数えられなかった。
スラは昼のあいだ跳ね回って疲れて、日が落ちる前から丸くなって眠っていた。いちばん賑やかな声が、その夜はいちばん早く寝ていた。
みんな自分の受け持ちを黙って果たしていた。誰も怠けていない。誰も持ち場を離れていない。それでも、そのどれもがあの地の底の入口を見ていなかった。その夜に地の底へ降りた者が何人だったかを数えていたのは、たった一頭だけだった。
ウルだけが起きた。
地下の入口に伏せて出入りを数えていたウルが、鼻先を上げた。降りていった者が一人。上がってきた者が、まだ、ない。数が合わない。表では二人が立っているはずの夜に、伏せていた入口を通ったのは一人だけだった。ウルは低く唸った。それから身を起こして走った。
『主。……起きろ』
念話は短かった。ウルは無駄な言葉を使わない。
エルクは飛び起きた。
「ウル、どしたの」
『記録の間。入った者が一人だ。上がってきていない。当番は、入口にいない』
「え」
エルクは寝床から転げ出た。上着も羽織らずに走った。ウルの背に手を置いて、通路を駆け下りた。足がもつれた。数を数えるのは苦手でも、当番が入口にいないという一言の意味は分かった。分かったからこそ、いちばん恐ろしかった。
記録の間の入口にたどり着いたとき、クラウが上がってくるところだった。
灯りをひとつ提げて、生きて、自分の足で。
「……クラウ」
「エルクか」
クラウの顔は静かだった。何かをやり終えたあとの、少し疲れた顔だった。
「間に合わなかったな。おまえは」
「うん」とエルクは言った。ほかに言えることがなかった。
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翌朝の会議で、クラウは自分から全部話した。
誰にも聞かれる前に、丸太の輪の真ん中に立って順に並べた。一人で記録の間へ降りたこと。入口に当番がいなかったこと。表には二人の名があったが、二人とも相手が立つと思って家にいたこと。声に名を教えると言われたこと。そして自分がそれを断ったこと。
場は静まり返っていた。ソウが写し帳を握ったまま俯いた。当番の穴は自分の受け持ちだった。ミナが唇を噛んだ。分けはじめた編成が、まだ回っていなかった。
「責めるな」とクラウが言った。
「当番の二人を責めるな。二人とも決まりどおりに名を書いた。書いた名の下に立たなかっただけだ。それは怠けじゃない。相手が立つと信じただけだ。信じることを罰にしたら、この国はもう誰も信じなくなる」
それからクラウは息を継いだ。
「勘違いするな。俺が止まったのは、仕組みが止めたからじゃない。俺自身が止まっただけだ。今回は俺が持ちこたえた。次は持ちこたえないかもしれん。俺じゃない誰かが降りたら、止まらないかもしれん。……意志で保たせるのは、仕組みとは言わない」
誰も言い返せなかった。奥の声が言ったことは全部当たっていた。仕組みはほころびる。人は疲れる。当番も会議もいつかほころびる。予告のとおりに、それはほころんだ。
メアがそっと手を挙げた。
「クラウさん。今、読んでいい?」
昨日は読むなと言った。その線を盾に使った。クラウはメアを見た。
「……ああ。読んでくれ」
読まれる側から、はじめて許しを出した。
メアは目を閉じてしばらく黙り、それから小さくうなずいた。何を読み取ったのかは言わなかった。ただクラウの肩に、子どもの手をひとつ置いた。
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会議はそのまま沈黙に落ちた。
誰かを責める言葉も、次をどうするという言葉も出てこなかった。ソウは俯いたままだった。ミナは膝の上で指を組んでいた。レオルは腕を組んで岩の上から見下ろしていたが、その口も開かなかった。ウルは入口のほうを向いて伏せていた。昨夜ただ一つ数を合わせた鼻先を、今朝はどこにも向けていなかった。
その静けさのなかで、エルクだけがいつもの調子で口を開いた。
「これさ。たぶん、誰が悪いって話じゃないんだよね」
全員が顔を上げた。
「渡すのはいいことだって、僕らが決めたんだもん。一人で抱えるな、隣に渡せって。みんなちゃんとそのとおりにやってた。名前も書いてた。渡したつもりでいた。……みんな、正しくやってたんだよ」
エルクは頭のうしろを掻いた。
「渡した先、誰も見てなかっただけだね」




