第145話 名を教えてやろうか
朝の会議は写し帳を囲んで始まった。
丸太を輪にならべただけの広場だった。エルクとメアが並んで座り向かいにソウとミナがいる。レオルは少し離れた岩に腰を下ろして腕を組んでいた。ダクトが人数分の茶を配り終えて隅へ下がったところでクラウが口を開いた。
「ゆうべ声を聞いた」
場が静かになった。
「記録の間で一人になったときだ。あの奥の声だった。名を教えてやろうかと言われた。門を開けた者の隣にいた、消された一羽の名だ」
それだけ言ってクラウは口を閉じた。
「それでクラウはなんて答えたの」とエルクが聞いた。
「答えなかった。灯りを持って上がってきた。……報告はこれで全部だ」
言い終えるのが早かった。何を言われたかは順に並べたのに、そのとき自分が何を思ったかを一言も足さなかった。決まりのとおり隠さず告げた。告げたのは起きたことだけだった。
スラが丸太のあいだをぴょんと跳ねてクラウの膝先まで来た。
『クラウの兄貴ぃ! なんか今日元気ないッスよ! 夜通し起きてるからッスよ! 寝たほうがいいッス!』
「……ああ。そうだな」
クラウは笑わなかった。
スラはしばらくその場で跳ねていたが、返ってくるものがないと分かるとしゅんとして丸くなった。いつもならここでクラウが軽口のひとつも返す。返ってきた軽口にスラがまた跳ねる。その行ったり来たりが今朝は一度も起きなかった。にぎやかな声がひとつ届かなかっただけで、クラウの周りだけ急に広くなったように見えた。
ライが箱を卓の上に出した。二つの欠片をならべてしばらく黙って見ている。
『……光りません』
「クラウが声に呼ばれたんだよね。反応しないの?」
『しません。この黒は守りたいという気持ちにしか反応しないんです。クラウさんが今かかえているのは、守りたい、じゃない。だから欠片は静かなままなんです』
その言葉で場の空気が少しゆるんだ。声に呼ばれてもクラウは崩されない。欠片が光らないならまだ大丈夫だ。誰もがそう受け取った。エルクだけがゆるまなかった。
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会議が散ったあともエルクは切り株に残っていた。
クラウが写し帳を抱えて立ち上がったところで声をかけた。
「クラウ」
「なんだ」
「なんかいつもより喋んないね」
クラウの手がほんの少しだけ止まった。
「……そうか」
それだけだった。エルクは数を数えるのが苦手だし記録を読むのも遅い。けれど人が黙る間の長さだけはよく分かった。今のクラウの返事は半拍ぶん長かった。何かを言わずに飲み込むときの長さだった。証拠はない。間があっただけだ。間は帳面に書けない。書けないから誰にも見せられない。エルクの中にだけ残る、数えられないひっかかりだった。
メアがそっと近づいてきた。
「クラウさん。今ちょっとだけ読んでいい?」
「読むな」
早かった。
「読んでいいのは本人が許したときだけって決めたろう。俺は許さない。ちゃんと報告はした。それで足りてるはずだ」
メアは口を閉じた。
その線を引いたのはクラウ自身だった。人の胸のうちを勝手にのぞかない。読むなら先に断りを入れる。みんなを守るための線だった。そのきれいな線を、いまクラウは自分をのぞかせないための盾に使っていた。決まりは正しく働いていた。正しく働いたまま、いちばん見てほしい胸をふさいでいた。
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昼になっても広場のあちこちで皆が動いていた。
ソウは当番表とにらめっこしたままだった。立てなかった夜が申告で六つになってから穴を埋めるのに手が回らない。誰をどこへ回すかで頭がいっぱいで、クラウのほうを一度も見ていなかった。ミナはミナで避難民と人間の組み合わせを一から書き直している。分けはじめてはいるがまだ回っていない。人が足りないのは変わらないからだ。
ウルは地下の入口に伏せて出入りする者を数えていた。グリフは空の高いところをゆっくり回って山あいを見張っている。アラーネとラネは通路の足場に糸を張り直していた。従魔もそれぞれの持ち場を黙って果たしていた。みんな自分の受け持ちで手一杯だった。だからこそ、その持ち場と持ち場のあいだにできた隙間を、誰も見ていなかった。
レオルは離れたところで守りの数を数え直していた。もう掘るなと言った手前、掘る側の様子はわざわざ見に来ない。見に来ないから、クラウがどんな顔で白い欄をなぞっているかも知らなかった。守りを固めることと、固めている人の中を見ることは、別の仕事だった。そして今この広場では、後のほうを引き受ける手がひとつも空いていなかった。
エルクはクラウの隣にしゃがんで写し帳をのぞきこんだ。
二本に分けた欄のうち片方は空白のままだった。クラウがその白い欄を指でなぞっている。
「知りたいだけなんだ」
少ししてクラウがぽつりと言った。
「隣に立ってた一羽の名だ。空の一族も忘れた。おまえが山頂まで行っても出てこなかった。この国じゅうでその名を持ってるのは、あの声だけだ。……知らないままにしておくほうが、いずれ危ない。分からないものは怖い。分かってしまえば怖くなくなる。前にそう言ったのは俺だぞ」
「うん。言ってたね」
「間違ってないだろう」
「間違ってないよ」とエルクは言った。
「クラウの言うこと、たぶんぜんぶ正しいよ。でもさ。正しいまま変なほうへ歩いてっちゃうことって、あるじゃない。去年の旧い国の人もたぶん、ぜんぶ正しかったんだよ。みんなを守りたいって気持ち、正しかったでしょ。それでもあそこは壊れたんだ」
クラウは答えなかった。指が空白の欄の上で止まったままだった。
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日が傾いてきたころ、エルクはもう一度クラウのところへ行った。
「ねえクラウ。今夜さ、僕も記録の間行くよ」
「いい」
クラウは顔を上げなかった。
「当番がいる。今夜は二人立つことになってる。一人にはならん。決まりどおりだ。おまえが来る必要はない」
「うーん。でもさ」
「表を見てみろ」
クラウが当番表を指した。今夜の記録の間の欄にはちゃんと二人の名前が書いてあった。マス目は埋まっている。エルクは字を追うのが遅い。それでも二つの名前がそこにあることだけは分かった。
「……埋まってるね」
「埋まってる。だから大丈夫だ」
エルクはしばらくその表を見ていた。何かがひっかかった。けれどそれが何なのか言葉にならなかった。マス目は埋まっている。名前がある。人がいる。それのどこが気持ち悪いのか、エルクには最後まで分からなかった。分かるとしたら数字の得意な誰かの役目で、その誰かがいま、いちばん黙っていた。
「わかった。じゃあ今夜は無理に行かないよ」
エルクはそう言った。
言ってしまってから、言わなきゃよかったような気がした。理由は出てこなかった。理由が出てこないものを止める言葉を、エルクは持っていなかった。止めるには数えられる何かが要る。エルクの手にあるのは、半拍ぶん長かった返事の間と、光らない欠片への居心地の悪さだけだった。どちらも帳面には載らない。ウルがそばにいれば唸ったかもしれない。けれどウルは地下の入口で夜の当番についていて、この広場にはいなかった。
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その夜、クラウは灯りをひとつ持って記録の間へ降りた。
入口に当番はいなかった。
表には二人の名前が書いてあった。片方は「もう一人が先に立っているはずだ」と思って家にいた。もう片方は「相手が立っているだろう」と思って家にいた。二人とも相手に渡したつもりでいた。渡した先を確かめた者は一人もいなかった。
表のマス目は埋まっていた。名前は二つとも書いてあった。ただ、その名前の下に立つはずの体が、二つとも別の場所にいた。紙の上だけで番が回っていた。
だから入口には誰もいなかった。降りていくクラウを止める者は、どこにもいなかった。
灯りがひとつ、地の底へ沈んでいった。




