第144話 塗り重ねているのは我らではない
朝の広場に写し帳が三冊ならんでいた。
一冊は昨日エルクが山頂から持ち帰った話。一冊は去年の秋からの記録。もう一冊はライが書きためた黒い魔力の観測帳だった。クラウは書いては見比べ、見比べてはまた書き足していた。目の下がすっかり黒くなっている。
ダクトが盆を抱えてやってきた。
「お茶ですぞ。夜通しでしたな」
「……ああ。悪いな」
クラウは受け取ったが口をつけなかった。湯気だけが写し帳の上をゆっくり流れていく。ダクトは何も言わずに盆を隅へ置いて離れていった。
エルクは切り株に腰を下ろしてその手元をしばらく眺めていた。
「ねえクラウ」
「なんだ」
「ゆうべから引っかかってるんだけどさ。ゼルガたちが消したんだよね。名前も絵も語りもぜんぶ削り取ったって」
「言ってたな」
「じゃあさ。あの顔もゼルガたちが消したの?」
クラウの手が止まった。
筆先が紙の上で一度だけ震えてそれから離れた。しばらく誰も何も言わなかった。ダクトの置いた茶が広場の風で冷えていく。
「……分からん」
クラウはライの観測帳を引き寄せて開いた。
「ライはあの黒を『もっと濃く、もっと新しい』と書いてる。空の一族が絵を削ったのは旧い国が壊れたときだ。ずっと昔だ。……新しいはずがないんだ」
「じゃあ別の人ってこと?」
「そうかもしれん。そうじゃないかもしれん。書いてないことは分からん」
エルクは頭のうしろを掻いて立ち上がった。
「聞いてくる」
---
グリフの背に乗って山頂まで昇るのは半刻もかからなかった。
ゼルガは昨日と同じ白い岩の上にいた。昨日と同じようにたたんだ翼のまま、こちらを見もせずに首だけを傾ける。エルクは前置きをしなかった。
「ゼルガ。あの絵の顔を塗ってるのもゼルガたち?」
「我らではない」
答えは早かった。
息を継ぐ間もなかった。昨日の長い沈黙とはまるでちがう声だった。低いがまっすぐで少しも掠れていない。
「ほんとに?」
「我らはただ消しただけだ。名を消し、絵から削り、語りから外した。それは我らの恥だ。……だがあの顔を今も塗り重ねているのは我らではない」
「じゃあ誰なの」
「知らん」
ゼルガはようやくこちらを見た。
「知らんものは知らんと言う。恥じることのないものについて我は嘘をつかん」
帰りのグリフの背でエルクは風に目を細めていた。
『……早かったな』
グリフが短く言った。
『昨日はあんなに長く黙ってたのに』
「うん。恥ずかしくないことはすぐ言えるんだよ」
『信じるのか』
「ゼルガ、嘘つけない人だしね」
グリフは何も返さなかった。ただ翼の角度をわずかに変えて、風の当たる向きを穏やかなほうへ回した。エルクは膝の上で指を組んだりほどいたりしていた。
「消したのはゼルガたち。塗ってるのは別の誰か。……じゃあ誰なんだろ、あれ」
答えの出ない問いだった。だから抱えたまま持ち帰るしかない。持ち帰る先はもう決まっていた。
---
その日の昼過ぎ、灯りを持って地下へ降りた。クラウとメア、それにノノの手を引いたエネが続き、ライとラネとダクトが後ろから来た。
入口の脇にウルが体を伏せている。黒銀の毛並みが岩肌の色に沈んでいた。
『我はここにおる。入った者と出た者を数えておく。中で灯りが消えたら我が入る』
「うん。頼むね」
通路の途中は去年の崩れがまだ残っていて足場が悪い。ラネが先に降りて糸を張った。壁と壁のあいだに白い筋が何本も渡っていく。
「そこ乗っていいわよ」
クラウが恐る恐る足をのせると糸はたわんだだけで切れなかった。
「落ちても知らないから」
ダクトはその後ろから箱と灯りと紙束を運んだ。ライの結界の箱を胸に抱えたまま器用に段差を降りていく。
突き当たりに壁画があった。
体は戻っている。伸ばした手も背後の群れも去年の光の中でちゃんと帰ってきた。顔だけが黒い。灯りを近づけても黒はびくともせず光を吸って沈むばかりだった。
ライが箱を開けて壁の前に置いた。
二つの欠片はどちらも光らない。ライはそれを一度書き留めてから、細く伸ばした体の先を黒のすぐ手前まで近づけた。
「……やっぱりちがいます」
しばらくしてライが言った。
「これは悪魔の黒とは系統がちがうんです。あちらは中へ入り込んで広がろうとする。這って染みて隙を探す。……これはどこへも行こうとしません。ここに留まって重ねられ続けているだけです」
「壊す魔力じゃないってこと?」
「はい。壊すための魔力じゃありません。封じるための魔力です。……むしろ守りに近い」
クラウが写し帳を開いたまま動かなくなった。
「別だ」
低い声だった。
「消した者と隠している者は別だ。空の一族は名を消した。顔を塗ってるのは別の誰かだ。……俺はずっと一本の線だと思って書いてた。二本あったんだ」
メアは少し離れて壁画の前に立っていた。魔眼をそっと開いて、それからすぐに眉を寄せる。
「……この黒、悲しくないです」
「悲しくない?」
「恥ずかしくもない。ゼルガさんの翼とはぜんぜんちがう。……必死なんです。今も。ずっと。誰かが今この瞬間もここを塗ってる。手を止めたら見えちゃうからって」
エネに手を引かれて降りてきたノノが、いつのまにか壁画の下まで来ていた。
首から下げた護符を小さな手で握っている。去年この子は入口を見るだけで泣いた。今日は黒い顔を見上げてじっと黙っていた。
「このひとね」
ノノが言った。
「かくれんぼしてるんじゃないよ。だれかにかくされてるんだよ」
誰も返せなかった。ライがゆっくりと欠片を箱へ戻した。
---
「もう掘るな」
通路の入口でレオルが腕を組んでいた。警備の回りでソウも一緒に立っている。
「掘るたびに増える。名が分からんと言えば名を探し、顔が分からんと言えば顔を探す。一つ知るたびに知らんことが二つ増えてる。……こんなものはきりがない」
ソウが何か言いかけたのをエルクが手で止めた。
「レオルが止めてくれるの助かるよ」
いつもの気の抜けた声だった。
「僕止まらないからさ。ほっとくとどんどん行っちゃうんだ。止める人が横にいるって、こないだ習ったばっかりでしょ」
レオルは何か言おうとして口を閉じた。黙り方が硬かった。エルクはそれを疲れだと読めなかった。
それから壁画のほうを振り返って言った。
「じゃあ顔はさわらないでおこう」
クラウが顔を上げた。
「剥がさないのか。剥がせば名が出るかもしれんぞ」
「うん。でもさ、今どかしたら隠してる人が困るかもしれないでしょ。……なんで隠してるのかまだ知らないもん。理由も聞かないで人の手を払いのけるの、僕やだよ」
その日決まったのは二つだけだった。
顔の封印には手を出さない。そして写し帳の議事を一段分けて、消した者の欄と隠している者の欄を別々に立てる。片づいたことは何ひとつない。分からないことがきちんと二つに分かれただけだった。
---
その夜、クラウは灯りをひとつ持って記録の間へ降りた。
入口には当番が二人立っている。名を告げて中へ入った。丸い卓を囲む像の下に写し帳を広げて、二本に分かれた欄をもう一度なぞる。空の一族。恥。何百年も前。もう一方の欄は空白のままだった。
ペンの先が止まった。
灯りの芯がじじ、と鳴った。
「知りたいのだろう」
静かな声だった。
急いでもいない。笑ってもいない。地の底のずっと奥から、石をひとつずつ伝ってくるような落ち着いた声だった。
「教えてやろうか。その者の名を」
クラウは動かなかった。息を吸うのを忘れていた。
卓を囲む像の顔が灯りの揺れでゆっくりと動いて見えた。




