第143話 消したのは我らだ
山頂の風がたたまれた翼を撫でて抜けていった。
ゼルガは動かなかった。以前は半分だけほどけていた翼が今日は固く閉じている。だがその閉じた翼のまま、空の主はゆっくりと口を開いた。
「……あれは過ぎた国の話だ」
声は低く遠かった。
「過ぎた者の話だ。聞いてもお前たちの何の足しにもならん」
「うん」
エルクはうなずいた。急かさなかった。相槌もそれ以上は打たなかった。
ミナとケインも黙っていた。グリフは翼をたたんだまま金色の目で老いた鳥を見上げている。若い嵐鷲はそれでも視線をそらさなかった。
ゼルガは一度もこちらを見なかった。山より高い遠くの空だけを見て、話した。
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「空から見た影は二つあったと、我は言うたな」
「うん。言った」
「一つは絵のとおりだ。子らをかばい、手を伸ばす者。門を開けようとした者だ」
ゼルガの喉が低く鳴った。
「もう一つはそのすぐ隣に並んで立っていた。……あれは空の者だった」
エルクは口を挟まなかった。
「空の護りの一羽だ。地に人と獣人、水辺にラミア、空に我ら。皆でひとつの国を守っていた。その空の護りに並んで立つ役目の者がいた」
「並んで立つ役目?」
思わずケインが聞き返した。
「止める役だ」
ゼルガが答えた。
「門を開けさせぬために隣に立つ。片方が開けようと傾いたとき、もう片方が止める。……そのために並んでいた」
エルクは息を呑んだ。それは去年この国が作ったばかりの決めごとと同じ形をしていた。門の前に種族ちがいの二人を立たせて、片方が傾いたらもう片方が止める。旧い国はそれをとうに持っていた。
「じゃあ……止めたの?」
「止めなかった」
ゼルガの声が初めて掠れた。
「あるいは止められなかった。どちらだったのか我にも分からん。門は開いた。国は内から壊れた。隣に立っていた者は止める役でありながら、止めなかった」
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風が岩を撫でて抜けた。ゼルガは長く黙ってから、また続けた。
「だから我らは消した」
「……消した?」
「その一羽を無かったことにした。名ごとにだ。記録から、絵から、語りから。空の一族の口から。止める役が止めなかったなどあってはならぬ。空の護りの恥だった。……だからいなかったことにした」
ようやくその言葉の意味がエルクの中で像を結んだ。
「敵が消したんじゃないんだね」
「敵ではない」
ゼルガははっきりと言った。
「壁の顔を封じたのが誰であれ、隣の一羽を絵から削り取ったのは我らだ。空の一族が自分たちの手で消した。……見たくなかったからだ」
グリフが低く鳴いた。
『……その一羽、名前も残ってないのか』
金色の目がまっすぐゼルガを向いていた。親を目の前で殺され、群れを離れ、地の者のもとにいる若い嵐鷲。空の一族に消されたその一羽と、いちばん近い場所にいるのはこの鳥だった。同じように消されていたかもしれない一羽だった。
「残っておらん」
ゼルガはグリフを見た。
「消したのだからな」
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ミナが小さな手を握りしめた。
「……ミナたちも消したことある」
角の生えた頭をうつむけたまま言った。
「前の国にいたとき。恥ずかしいことはみんな言わないの。なかったことにするの。だれも悪くなくても、恥ずかしいと消しちゃう。……ミナ、それ知ってる」
ゼルガの目がその小さな娘へ動いた。何も言わなかった。ただたたんだ翼の付け根がほんのわずかに震えた。
エルクはしばらく岩の上を渡る風を聞いていた。それからぽつりと聞いた。
「ねえゼルガ。……その一羽って悪い鳥だったの?」
ゼルガが初めてこちらを見た。
朝の光を弾く目に光とはちがう昔の色がよぎっていた。
「……分からん」
「分からない?」
「止めなかったのか止められなかったのか。それを確かめる前に我らは消した。名も、顔も、何があったかも、ぜんぶ削り取った。だからもう誰にも分からん。悪い者だったのかただ間に合わなかっただけなのか。……責める資格すら我らはとうに失うた」
消してしまったから、責めることさえできなくなった。ゼルガはそう言っていた。
「じゃあ名前は?」
エルクが聞いた。
「その一羽の名前、ゼルガは覚えてる?」
「……もう我らの中にもない」
ゼルガの声は静かだった。
「消したのだ。名ごと。我が親もその親も、口にせなんだ。だから我も知らぬ。空の一族の誰ひとりあの一羽の名を持っておらぬ。……我らがそうしたのだからな」
名を知る者は空の一族にはいなかった。
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帰りのグリフの背は来たときより静かだった。
国が足の下でだんだん大きくなってくる。畑も広場も記録の間の入口も元の大きさに戻っていく。外周の道を黒銀の影がゆっくり回っているのが見えた。ウルだった。エルクが空へ抜けているあいだ約束どおり昼の外周を余分に回っていた。門の前の薄くなった一角には青いスライムがぽつんと座っている。スラだ。誰かが立つべき場所にただ座って埋めていた。
降り立つと、ライが箱を抱えて待っていた。
「おかえりなさい。……何か分かりましたか」
エルクは山頂で聞いたことをそのまま話した。飾らずに。隣に立っていたのは空の者だったこと。止める役だったこと。止めなかったか、止められなかったかもう誰にも分からないこと。そして消したのは敵ではなく空の一族自身だったこと。
ライは静かに聞いて、最後に小さく言った。
「……記録に残します。分からないことは分からないまま。ですが消したのが誰かだけははっきり書けます。ひとつ埋まりました」
メアが少し離れたところで目を伏せていた。話を聞き終えて、ゆっくり顔を上げる。
「……だからだ」
「なに?」
「ゼルガさんずっと翼をたたんでたでしょ。半分開けたり、固く閉じたり。……あれ、怖がってたんじゃないんだ。恥ずかしがってたんだ。今ごろ分かった。恐れてる人と、恥じてる人は翼のたたみ方がちがうの」
前に空へ昇ったときメアはゼルガの言えないところを読んだ。今日は行かなかった。行かずに帰ってきた報告だけでその底を読んでいた。
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クラウはライの書いた記録を受け取って、長いこと黙って見ていた。
「消したのは悪意じゃないな」
やがて低く言った。
「恥だ。……前におれは言ったよな。悪意より善意のほうが一人を追い詰めるって。訂正する」
写し帳の端を指でたどる。
「悪いことは後ろめたくて、いつか漏れる。善意は正しいと思い込んで突き進む。……でも恥はちがう。恥ずかしいことは誰にも言わないまま、完全に消える。漏れもしない、突き進みもしない。ただ無かったことになる。……恥がいちばん記録を殺すんだ」
エルクはその言葉をぼんやり聞いていた。夕方の光が記録の間の入口の石を赤く染めていた。
名前は空の一族の中にもない。消したのだから。ゼルガもその親も知らない。誰も持っていない。
そこまで考えて、エルクはふと足を止めた。
「……あれ」
いやな感じが背中をゆっくり這った。
「じゃあ名前を知ってるの……あいつだけじゃん」
地の底のいちばん奥。まだ誰にも門を開けさせていないと、耳の奥へ直接ささやいたあの静かな声。隠されたまま消えたその者の名をお前はまだ知らぬだろうと言った、あの声。
消した側はもう誰も名を持っていない。持っているのはたぶんあれだけだった。名を知りたければ、いちばん名を知られてはいけない相手に聞きにいくしかない。
エルクは夕日を背にしばらくその場から動けなかった。




