第142話 空へもう一度
記録の間の奥の石扉は、朝になっても半分開いたままだった。
閂は内側から外れていた。誰も入っていない。誰も開けていない。それでも扉は開いていた。
クラウが灯りを近づけても奥は暗いままで何も見えなかった。エルクは扉の縁に手をかけて少しだけ動かしてみた。石は重く、そして冷たかった。
「……押しても引いても、こっちからは動かないね」
「内側から外れたんだ」
クラウが低く言った。
「外から誰かが開けたなら痕が残る。足跡でも、こじ開けた傷でも。……何もない。閂だけが、内から落ちてる」
エルクは扉を見上げた。分からないことだった。分からないことは分からないまま棚に上げる。それがこの国のやり方になっていた。
ライが箱を抱えて坂を降りてきた。二つの欠片を扉の前に並べてしばらく待つ。どちらも光らなかった。
「ここでも光りません」
ライの声は落ち着いていた。
「恐怖にも、守りたい気持ちにも応えません。……門の前の痕と同じです。この扉のことは、あの黒とは別のものかもしれません」
「別の?」
「分かりません。ですから、分からないと書いておきます」
エルクはうなずいた。扉の前には種族ちがいの二人を交代で立たせることにした。一人にしない。開いた扉を一人でのぞかせない。それだけ決めて、あとは今日やるべきことへ向かった。
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今日エルクがやると決めていたのは、空へ昇ることだった。
従魔小屋の前で、留守のあいだの持ち場を分けていく。
「僕、ゼルガのとこに行ってくる。たぶん昼過ぎまで帰らないから、そのあいだ地上はみんなで見ててほしいんだ」
ウルが顔を上げた。
『外周は我が回る。夜だけでなく昼もだ。お前がおらぬあいだ、傾く者がおっても我が止められん場所がある。だから回る』
「うん。ありがとう」
ライが箱の横で体を沈めた。
「私は記録の間の扉の前に残ります。欠片を置いて、光るかどうかを見ています。何も起きないと思いますが、何も起きないことを見ておくのも仕事ですので」
スラがぴょんと跳ねた。
『じゃあおいらは昼の薄いとこ埋めとくっスよ。門の前と物置と……あと畑! 畑さぼると怒られるっス』
「さぼってないよ、いつも」
『さぼってないっス。ちゃんと座ってるだけっス』
エルクは笑った。ウルが外周を、ライが扉を、スラが昼の穴を。自分がいないあいだの地上が、ちゃんと三つに分かれた。一人に集めない。それは自分が空へ抜けるときも同じだった。
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メアが小屋の陰から出てきた。
「今日は私、行かなくていいの?」
前に空へ昇ったときは、メアがゼルガの言えないところを読んだ。だから今日も、と思ったのだろう。
「うん。今日はいいや」
エルクは頭のうしろを掻いた。
「今日はさ、聞きに行くんじゃないんだ。……言いに行くんだよ。ほころびたって。うまくいってますって報告しに行くんじゃなくて、だめでしたって言いに行くんだ。それ、読んでもらうような話じゃないでしょ。ただ正直に言えばいいだけだから」
メアは少し目を見開いて、それからうなずいた。
「……うん。分かった。読むのは、帰ってきてからでいいね」
なぜミナとケインなのか。エルクは説明しなかった。ただ、ほころびを作った側とほころびを背負った側を連れて行くのが、いちばん正直だと思っていた。
グリフが背を低くして翼を広げる。
「グリフ。今日はミナとケインも連れてっていい?」
グリフは金色の目でエルクを見て、それから短く鳴いた。山肌を若い嵐鷲が二羽すべり降りてきて、ミナとケインの前にそれぞれ背を低くする。
ケインが少し身を引いた。
「……おれも?」
「うん。ケインも来てよ」
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グリフの翼が朝の風をつかんで、国が足の下で小さくなっていった。畑も広場も記録の間の入口も、みんな手のひらほどになる。ミナは初めての高さに縮こまり、ケインは口を真一文字に結んで下を見ないようにしていた。エルクだけが、いつもの気の抜けた顔で風を受けていた。
山頂は前と同じ白い岩だった。
ゼルガは岩の上にいた。翼をたたんでいる。半分でもなく、こらえるようでもない。ただ静かにたたまれた翼だった。若い嵐鷲を三羽も従えて降りてきた地の者たちを、空の主の目がゆっくりとなめるように見た。
「また来たか」
「うん。……今日はね、報告に来たんだ」
エルクは飾らずに続けた。
「ゼルガ前に言ったよね。その仕組みがどこまで保つか見せてもらおうって。……見せるよ。ほころびたんだ。ゼルガの言うとおりだった」
ゼルガは何も言わなかった。
「当番が三回消えた。埋まってるはずの夜に、誰も立ってなかったんだ。みんな、誰かが代わってくれたと思ってた。……その誰かは、いなかった」
風が岩の上を抜けていった。ゼルガは動かない。
「長がね、黙って三日も余分に立ってた。疲れてるのに疲れてないって言い張って。編成もミナ一人に寄ってた。守る役は二人にしたのに、組む役が一人だったんだ。……ぜんぶ、去年作った仕組みの穴だよ」
ミナが前に出た。角の生えた小さな頭をまっすぐ上げている。
「ミナが全部組んでた」
声は震えていたが、逃げなかった。
「早いから。ミナがやったほうが早いから、誰にも分けなかったの。それでミナ一人になった。仕組みが、ミナのとこで細くなってた。……ミナのせい」
ゼルガの目がミナへ動いた。避難民の小さな娘が、空の主に自分の失敗を告げていた。
ケインも口を開いた。一度唇を噛んでから。
「おれは立たなかった。当番だったのに。代わってもらったつもりだった。でも誰も代わってなかった。おれが疲れて立たなかっただけだ。……門が空いたのは、おれのせいだ」
言い終えて、ケインは目をそらさなかった。逃げるつもりで来たのではないという顔だった。
グリフがエルクの横で翼をたたんだ。若い嵐鷲がまっすぐにゼルガを見上げている。親を失い群れを離れた一羽が、空の一族の老いた主の目を、そらさずに見ていた。ゼルガもその視線を受けていた。
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長い沈黙があった。
風が二度、岩を撫でて抜けた。ゼルガはそのあいだ遠い空をただ見ていた。それからようやく、喉の奥から低い声がこぼれた。
「……ほころんだか」
それだけだった。
それ見たことか、とは言わなかった。だから壊れるのだと突き放すこともしなかった。ただ、ほころんだか、と。まるで自分のことのように、その一語は重かった。
「その、三つの穴を」
ゼルガが続けた。
「……お前たちは、どうした」
「責めなかったよ」
エルクはあっさり答えた。
「立たなかった夜を、誰も責めなかった。責めたら隠すもん。隠したらまた同じ夜が来る。だから全部言ってもらった。ケインも、ミナも、長も。……三つだと思ってた穴が、責めなかったら六つ出てきた。それでよかったんだ。見えないよりずっといい」
ゼルガの翼が、ほんの少し緩んだ。
固くたたまれていた翼の付け根が、わずかにほどけた。責めなかった、という一語がこの空の主のどこかへ届いていた。なぜそれがこの老いた鳥にそれほど効くのか、エルクにはまだ分からなかった。ただ、届いたことだけは分かった。
ゼルガは長いこと黙っていた。
遠い空のずっと向こう、山より高いところを見つめている。その目に朝の光とはちがう昔の色がよぎった。やがて、ほとんど聞こえないくらいの声が風にまじってこぼれた。
「……我らは、消した」
何を、とは言わなかった。
エルクは聞き返さなかった。ミナもケインも黙っていた。グリフの翼が一度だけ小さく鳴った。エルクはただ待った。ゼルガが自分でその先を口にするまで、急かさずに待つ。それが、この誇り高い空の主への礼儀だった。
山頂の風が、たたまれた翼を撫でて抜けていった。




