第141話 黙って余分に立つ男
渡した先を書く欄が、当番表の端にひとつ増えた。
ミナとレンが二人で組むようになってから、板の書き方も少し変わった。誰が誰に渡したか、線でつなぐ。受けたほうも受けたと書く。細かくて面倒な足し算だったが、それをやらないと先の夜が埋まらないことを、みんなもう知っていた。
クラウはその新しい板を手に、先月の六つの夜をもう一度洗い直していた。立つと決まっていたのに誰も立たなかったと申告された、あの六つだ。
半分ほど照らし合わせて、筆が止まった。
「エルク」
「なに」
「三つ、埋まってる」
クラウは板の端を指でたどった。
「申告は六つあった。誰も立たなかった夜が六つ。……だが実際に洗ってみると、三つは埋まってるんだ。その夜、確かに誰かが門の前に立ってる」
「よかったじゃん」
エルクは薪を抱えたまま覗きこんだ。
「立っててくれた人がいたんでしょ。じゃあ穴じゃなかったってことだよね」
「そこがおかしい」
クラウは板を裏返した。渡した先を書く欄を指す。
「立ったやつが、どこにも書かれてない。頼んだ記録もない。代わってくれと言われた者もいない。……なのに立ってる。名乗り出た者は一人もいないんだ」
エルクは薪を下ろした。
「親切な人が黙って埋めてくれたんじゃないの」
「その親切な一人が、三晩も名乗らない理由がないだろう」
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ソウが板の前にしゃがみこんで、しばらく黙っていた。
「……私のせいだ」
顔を上げたとき、いつもの調子がなかった。
「私が守りの手配を回してた。毎朝、板を見て、埋まってると思ったら次へいってた。埋まってる欄は、それでいいと思ってた。……誰が立ったかまでは、見てなかったんだ。板を見てただけだった」
「ソウのせいじゃないよ」
「いや。私の持ち場だ」
ソウは膝に肘をついた。
「埋まってる夜は、平和な夜だと思ってた。だから見なかった。……その埋まってる夜のなかに、名前のない夜が三つも混じってた。私、それに一月気づかなかった」
メルが指を折りながら横から言った。
「埋まってる欄は、誰も数え直さないのよね。空いてる欄は目につくの。真っ赤に空いてるから。でも埋まってる欄は、埋まってるってだけで安心しちゃうの。……中身を見ないのよ」
クラウが写し帳を閉じた。
「埋められた穴は、穴として数えられない」
低い声だった。
「空いた穴は見える。誰かが黙って埋めた穴は、見えなくなる。……いちばん厄介なのは、埋めてくれる者がいることだ」
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その夜、エルクは眠れないまま国のなかを歩いた。
誰が三晩も黙って立っていたのか。歩きながらぼんやり考えていた。考えごとをするとき、エルクの足はいつも従魔たちの持ち場をなぞる。
外周の道に入ると、闇のなかで黄色い目がふたつこちらを向いた。ウルだった。
「ウル。……こんな時間に何してんの」
『回っておる』
当たり前のように返ってきた。
『夜の外周を、ひと回り余分に。半月ほど前からだ』
「半月? 誰かに頼まれたの」
『いや。主が寝ておるのだから、我が回るのは当然であろう』
エルクは足を止めた。
当番表のどこにも、ウルの名はない。夜の外周は当番の人が回る決まりだ。ウルはその人の後ろを、誰にも言わずにもう一度回っていた。人が薄い夜も、そうでない夜も。
門のほうへ下りると、そこにも大きな影がうずくまっていた。ライオだ。門の外の暗がりに、身じろぎもせず座っている。
「ライオまで」
ライオはこちらを見もしなかった。答えもしなかった。
当番表に、ライオの名はない。門の内は当番の者が立つ。外は誰も立たない。その外の闇へ、ライオはただ黙って向いていた。疲れの色などまるでなかった。誰に言うでもなく、ずっとそこにいたのだと、その背中だけが告げていた。
小屋の裏では、糸を張り直す音がかすかにしていた。
「アラーネ」
「あら、起こしちゃった?」
闇のなかで八本の脚が器用に動いていた。
「警戒の糸がね、雨で緩むのよ。緩んだままだと、なんか来ても揺れないの。だから張り直してるの。……張り直したのは私よ~。まあ、誰にも言ってないけど」
物置のほうではダクトが黙々と樽を並べ直していた。誰も見ていない時間に、こぼれた物資を元の棚へ戻しているのだという。昼の見回りの薄くなった一角には、いつのまにかスラがぷるぷると座っていた。埋めているつもりすらないらしく、『暇だったからここにいたっス』とだけ言った。空の高いところでは、羽ばたきの音がひとつ、ゆっくり旋回していた。
『俺は上から見てただけだ』
グリフの声が降ってきた。
『昼の当番と夜の当番の、あいだの時間。あそこは誰も見てない。だから見てた。……鳴いてない。何も起きてないからな』
エルクは夜空を見上げて、それから足もとを見た。
自分の従魔たちが、当番表の外で、誰にも言わずに国を回していた。半月も。エルクは、それに今夜まで気づかなかった。守る役は二人にした。組む役も二人にした。けれど数えられていない持ち場が、こんなにあった。
「……気づいてなかったな。ぜんぜん」
誰にともなくつぶやいた。
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記録の間の入口へ着いたのは、夜がいちばん深い頃だった。
石の扉の前に、大きな影が立っていた。鱗が月明かりを鈍く弾く。レオルだった。
「レオル」
エルクは近づいた。
「今日、レオルの当番じゃないよね。おとといも、その前も。……三日つづけて、ここに立ってたの、レオルなんだ」
「穴があった」
レオルは前を向いたまま言った。
「埋めた。それだけだ」
振り向きもしなかった。
「頼まれておらん。渡された記録もいらん。長が入口に立つのに、いちいち名を書く必要があるか。空いていたから立った。ただそれだけのことだ」
エルクはしばらくその横顔を見上げていた。
「ありがとう」
まず、そう言った。
「レオルが立っててくれたから、あの三晩、門は空かなかった。……でもさ。それって、僕らが気づけなかったってことだよね」
レオルの尾が、石の床をひとつ叩いた。
「レオルが倒れるまで、誰も分かんないんだ。名前がどこにもないから。レオルが三晩立ってたことも、四晩めに立てなくなることも、誰にも見えない。……それがいちばん困るんだよ」
背後の暗がりから、メアが静かに歩み出た。眠っていなかったらしい。レオルの背をじっと見て、それから低く言った。
「レオル。疲れてる」
「疲れておらん」
即座だった。取りつく島もなかった。
メアはそれ以上言わなかった。読めていても、本人が閉じてしまえば、そこから先へは入れない。誇りが読みを拒んでいた。
「疲れたと言えと申すのか」
レオルはようやくこちらを向いた。
「長が。……皆が疲れているなかで、長が真っ先に疲れたと。できるものか」
その声には怒りはなかった。ただ固かった。以前この鱗の長は、いざという時は結局誰かが決めねばならぬと言った。いざという時ではない毎日の夜に、この男は誰にも言わず、黙って決めていた。
エルクは何も言い返さなかった。約束もさせなかった。ただ一つだけ、いつもの気の抜けた声で頼んだ。
「じゃあ、今度から、立ったら書いてよ」
「……書け、だと」
「うん。疲れたって言わなくていいよ。強がっててもいいよ。でも、立ったことだけ書いといて。書けば残るじゃん。残れば、レオルが四晩めに倒れる前に、誰かが気づけるもん」
レオルは長いこと黙っていた。
入口の奥のほうから、木を刻む規則正しい音が聞こえてきた。ウーゴだった。誰も頼んでいないのに、入口のわきに小さな骨組みを立てはじめている。二人が並んで座れるくらいの、屋根つきの小屋だった。立ちっぱなしをやめるための小屋を、この木のゴーレムはもう建てはじめていた。
「カタコト。フタリ、スワル」
ウーゴがぼそりと言った。
レオルはその骨組みをしばらく見ていた。それから、ほんの少しだけ、肩の力を抜いたように見えた。返事はしなかった。けれど否とも言わなかった。
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空が白みはじめる頃、エルクは記録の間の入口を離れた。
埋められた穴は、穴として数えられない。真面目な者が黙って埋めるほど、ほころびは見えなくなる。これはサボりの話ではなかった。むしろ逆だった。国を思う者ほど黙って背負い、背負われた重さは、どこにも記されないまま消えていく。
明け方の光のなかで、エルクはふと足を止めた。
記録の間の扉が、半分開いていた。
昨夜、レオルが立っていた入口の、その奥の石扉だ。閉じ切って封じたはずのそれが、半分だけ開いている。誰も開けていない。誰も入っていない。レオルはずっと外に立っていた。
閂が、内側から外れていた。




