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辺境の村のモンスターテイマー  作者: スルメイカ
第四部・隣に立っていた者/ほころびる仕組み編
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第139話 今日くらいはいいだろう

 渡した先を書いた紙は、翌朝になっても一枚も出てこなかった。


 当たり前だった。誰もそんなものを書けとは言われていない。持ちすぎたら隣に渡せ、とだけ去年決めた。渡した相手の名を残せとは、一度も言っていなかった。


 クラウは切り株の輪に写し帳を広げて、当番表を頭から組み直しはじめた。渡した先が分かる形にする。誰が誰に頼んで、誰が受けたのか。線を引いてつなげていく。


 半分もいかないうちに手が止まった。


「エルク」


「なに」


「線を引く先がない」


 クラウは表の端を指でたどった。


「渡す人はいる。だが受ける人の欄が空だ。頭数が足りてない。……渡したくても渡す先が最初からいない夜がある」


「足りてないのよ」


 メルが指を折りながら顔を上げた。声が硬い。


「あのね。去年の危ないときはね、全員が立ったの。立てたのよ。畑ほっぽって台所ほっぽって、みんな門の前に並んだ。……でもあれは危ないって分かってたからでしょ。毎日はむりよ。誰も毎日は立てないの」


 ミナは表の反対側から覗きこんでいた。角の生えた小さな頭が板の上を行ったり来たりする。


「組めない」


 ぽつりと言った。


「ミナ、避難民の側を組んでる。人間の子と一人ずつ組ませてる。……でも人が足りないの。同じ子を三晩つづけて立たせないと埋まらない。三晩つづけて立った子は、四晩めにぼうっとするよ」


 その板の空いた欄に、見慣れない名がいくつか入っていた。国が大きくなった。人が増えた。増えたぶんはそのまま当番の頭数に足されていく。


---


 昼過ぎに、外周の割り振りをめぐって小さな声が上がった。


 移ってきて間もない者たちだった。板を見上げている一人が、悪びれもせずに言った。


「なあ。なんでこんな面倒なことしてんだ、これ」


 嫌味ではなかった。ただ分からないという顔だった。


「夜通し門の前に突っ立ってるんだろ。何も来やしねえのに。おれ、来て半月だけどよ。一度も何にも見てねえぞ」


 近くにいた者が説明しようとして、口ごもった。


「決まりだから」


「なんで決まったんだ」


「……前に、そういうことがあったから」


「どういうことだよ」


 答えは続かなかった。説明しようとした者も、うまく言葉にできずに黙ってしまった。


 エルクは薪を運ぶ途中でその輪に近づいた。


 男は振り返って少し身構えた。国主だと聞いている相手だ。だがエルクは板を覗きこんで、気の抜けた声を出しただけだった。


「面倒だよねえ、これ。ほんとに」


「……は」


「僕もさ、夜の門の前ってなんもないもん。虫が鳴いてるだけ。眠いしさ。面倒くさいって思う気持ち、すごい分かるよ」


 男は拍子抜けした顔をした。


 それからエルクは板を見上げたまま、少しのあいだ黙っていた。


「……あのさ。この人、なんで面倒なのか、誰も言ってないんだ」


 振り返った先は男ではなくクラウのほうだった。


「決まりだから、って言われても、そりゃ面倒なだけだよね。なんでこの決まりがあるのか、この人まだ一回も聞いてないんだ。……僕ら知ってるからさ。知ってるから、言わなくていいと思ってた」


 クラウの筆が止まった。


「決まりは書いた」


 低い声だった。


「去年、俺が書いた。門の前は二人で立つ。種族ちがいで組む。持ちすぎたら渡す。ぜんぶ書いた。……なぜそう決めたかは、書かなかった」


「書かなかったの?」


「あの部屋には、知ってる者しかいなかったからだ。書かなくても全員が地下を見ていた。全員があの夜を覚えていた。だから書く必要がないと思った」


 クラウは移ってきた男のほうへ目を向けた。


「この男は、あの夜を見ていない」


---


 ライが箱を抱えて坂を下りてきたのは、ちょうどそのころだった。


 輪のはしで話を聞いていたらしい。緑の体が卓の縁にのぼって、しばらく黙っていた。


「つながりました」


 やがてそう言った。


「昨日からずっと考えていました。欠片がなぜ光らないのか。……いま、分かった気がします」


「なんで光らないの」


「弱い気持ちだからです」


 ライはこちらを向いた。


「恐怖でもない。守りたい気持ちでもない。……面倒くさい。眠い。今日くらいはいいだろう。誰かが代わってくれてるだろう。そういう気持ちです。ぜんぶ弱いんです。形にならないくらい弱い。だから欠片が光らないんです。私の網の目は、そこを拾えるようにできていません」


 風が板の上をひとつ撫でていった。


 エルクはふと、坂の途中でウルに聞いたことを思い出した。こわいでも守りたいでもない、そのあいだにあるもの。名前のついていないやつ。あれのことだったのかもしれない。


「あれが狙ってるの、そこなんだ」


「そこだけです」


 ライは静かに続けた。


「強い気持ちのある場所には立てません。人が固まって声をかけ合っている場所にも立てません。……気持ちが薄れて、うすくなって、なくなりかけたところ。そこにだけ、あれは立てるんです。誰も何も強く思っていない夜に、そっと入ってくる」


 誰も何も言わなかった。移ってきた男でさえ、板の前で黙って立っていた。


---


 輪の外からレオルが進み出た。


 リザードマンの長は、割り振りの板を上から下まで見下ろした。


「怠慢だ」


 低く硬い声だった。


「立つと決めた夜に立たぬ。渡したと言って渡さぬ。……気持ちが薄れた、だと。それを人は昔から怠慢と呼ぶ。名を変えたところで中身は変わらん」


「怠慢じゃない」


 ミナだった。角の生えた頭をまっすぐ上げていた。


「人が足りないだけだよ。同じ子を何晩も立たせて、その子が疲れて薄くなっただけ。怠けてなんかない。……疲れてるだけだよ」


 レオルはミナを見下ろした。それから、何も言わずに口を閉じた。


 その黙り方が、どこかおかしかった。責める者が言い負かされて黙ったのではなかった。もっと別の、飲み込むような黙り方だった。エルクは何か引っかかったが、それが何なのか分からなかった。レオルはそのまま輪を離れていった。


---


 その日、決まったことはひとつもなかった。


 ただ一つ、みんなの口から同じ言葉が出た。理由を伝えないといけない。決まりだけじゃなくて、なんでその決まりがあるのかを。あの夜を見ていない人に、あの夜のことを。


「誰がやるの」


 エルクが聞いた。


 誰も手を挙げなかった。みんな自分の持ち場でもう手一杯だった。畑があって、台所があって、子供の世話があって、そのうえで夜に門の前へ立っている。あの夜のことを一から語って聞かせる時間だけが、どこにも残っていなかった。


 語り継ぐ役は宙に浮いたまま、夕方になった。


---


 日が落ちて、クラウは組みかけの当番表を切り株の上に残していった。


 半分は線でつながっていた。もう半分は空のままだった。埋まらない夜がいくつも縦に並んでいる。エルクはその板をしばらく見下ろしていた。


 それから、いつもの間延びした声で言った。


「じゃあさ。あいた分は、僕が全部立つよ」


 板を持ち上げた。


「僕そんな疲れないし。夜は暇だしさ。ちょうどいいじゃん」


 誰も、すぐには止めなかった。


 それが正しくないことは、その場にいた全員がどこかで分かっていた。渡す先がないから、いちばん強い一人が全部引き受ける。去年、それをやめようと決めたはずだった。持ちすぎたら隣に渡せ、と。エルクが全部立つというのは、その決めごとを、いちばん大きな形で破ることだった。


 それでも、みんなの肩から少しだけ力が抜けた。エルクが立つなら、今夜は埋まる。明日のことは、明日でいい。


 今日くらいはいいだろう。


 その言葉が、さっきライの言った弱い気持ちと同じ形をしていることに、誰も気づかなかった。いちばん強い者へ渡して、渡したことにする。それもまた、隣へちゃんと渡さなかった夜のひとつだった。


 足もとで、ウルが低く唸った。

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