第139話 今日くらいはいいだろう
渡した先を書いた紙は、翌朝になっても一枚も出てこなかった。
当たり前だった。誰もそんなものを書けとは言われていない。持ちすぎたら隣に渡せ、とだけ去年決めた。渡した相手の名を残せとは、一度も言っていなかった。
クラウは切り株の輪に写し帳を広げて、当番表を頭から組み直しはじめた。渡した先が分かる形にする。誰が誰に頼んで、誰が受けたのか。線を引いてつなげていく。
半分もいかないうちに手が止まった。
「エルク」
「なに」
「線を引く先がない」
クラウは表の端を指でたどった。
「渡す人はいる。だが受ける人の欄が空だ。頭数が足りてない。……渡したくても渡す先が最初からいない夜がある」
「足りてないのよ」
メルが指を折りながら顔を上げた。声が硬い。
「あのね。去年の危ないときはね、全員が立ったの。立てたのよ。畑ほっぽって台所ほっぽって、みんな門の前に並んだ。……でもあれは危ないって分かってたからでしょ。毎日はむりよ。誰も毎日は立てないの」
ミナは表の反対側から覗きこんでいた。角の生えた小さな頭が板の上を行ったり来たりする。
「組めない」
ぽつりと言った。
「ミナ、避難民の側を組んでる。人間の子と一人ずつ組ませてる。……でも人が足りないの。同じ子を三晩つづけて立たせないと埋まらない。三晩つづけて立った子は、四晩めにぼうっとするよ」
その板の空いた欄に、見慣れない名がいくつか入っていた。国が大きくなった。人が増えた。増えたぶんはそのまま当番の頭数に足されていく。
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昼過ぎに、外周の割り振りをめぐって小さな声が上がった。
移ってきて間もない者たちだった。板を見上げている一人が、悪びれもせずに言った。
「なあ。なんでこんな面倒なことしてんだ、これ」
嫌味ではなかった。ただ分からないという顔だった。
「夜通し門の前に突っ立ってるんだろ。何も来やしねえのに。おれ、来て半月だけどよ。一度も何にも見てねえぞ」
近くにいた者が説明しようとして、口ごもった。
「決まりだから」
「なんで決まったんだ」
「……前に、そういうことがあったから」
「どういうことだよ」
答えは続かなかった。説明しようとした者も、うまく言葉にできずに黙ってしまった。
エルクは薪を運ぶ途中でその輪に近づいた。
男は振り返って少し身構えた。国主だと聞いている相手だ。だがエルクは板を覗きこんで、気の抜けた声を出しただけだった。
「面倒だよねえ、これ。ほんとに」
「……は」
「僕もさ、夜の門の前ってなんもないもん。虫が鳴いてるだけ。眠いしさ。面倒くさいって思う気持ち、すごい分かるよ」
男は拍子抜けした顔をした。
それからエルクは板を見上げたまま、少しのあいだ黙っていた。
「……あのさ。この人、なんで面倒なのか、誰も言ってないんだ」
振り返った先は男ではなくクラウのほうだった。
「決まりだから、って言われても、そりゃ面倒なだけだよね。なんでこの決まりがあるのか、この人まだ一回も聞いてないんだ。……僕ら知ってるからさ。知ってるから、言わなくていいと思ってた」
クラウの筆が止まった。
「決まりは書いた」
低い声だった。
「去年、俺が書いた。門の前は二人で立つ。種族ちがいで組む。持ちすぎたら渡す。ぜんぶ書いた。……なぜそう決めたかは、書かなかった」
「書かなかったの?」
「あの部屋には、知ってる者しかいなかったからだ。書かなくても全員が地下を見ていた。全員があの夜を覚えていた。だから書く必要がないと思った」
クラウは移ってきた男のほうへ目を向けた。
「この男は、あの夜を見ていない」
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ライが箱を抱えて坂を下りてきたのは、ちょうどそのころだった。
輪のはしで話を聞いていたらしい。緑の体が卓の縁にのぼって、しばらく黙っていた。
「つながりました」
やがてそう言った。
「昨日からずっと考えていました。欠片がなぜ光らないのか。……いま、分かった気がします」
「なんで光らないの」
「弱い気持ちだからです」
ライはこちらを向いた。
「恐怖でもない。守りたい気持ちでもない。……面倒くさい。眠い。今日くらいはいいだろう。誰かが代わってくれてるだろう。そういう気持ちです。ぜんぶ弱いんです。形にならないくらい弱い。だから欠片が光らないんです。私の網の目は、そこを拾えるようにできていません」
風が板の上をひとつ撫でていった。
エルクはふと、坂の途中でウルに聞いたことを思い出した。こわいでも守りたいでもない、そのあいだにあるもの。名前のついていないやつ。あれのことだったのかもしれない。
「あれが狙ってるの、そこなんだ」
「そこだけです」
ライは静かに続けた。
「強い気持ちのある場所には立てません。人が固まって声をかけ合っている場所にも立てません。……気持ちが薄れて、うすくなって、なくなりかけたところ。そこにだけ、あれは立てるんです。誰も何も強く思っていない夜に、そっと入ってくる」
誰も何も言わなかった。移ってきた男でさえ、板の前で黙って立っていた。
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輪の外からレオルが進み出た。
リザードマンの長は、割り振りの板を上から下まで見下ろした。
「怠慢だ」
低く硬い声だった。
「立つと決めた夜に立たぬ。渡したと言って渡さぬ。……気持ちが薄れた、だと。それを人は昔から怠慢と呼ぶ。名を変えたところで中身は変わらん」
「怠慢じゃない」
ミナだった。角の生えた頭をまっすぐ上げていた。
「人が足りないだけだよ。同じ子を何晩も立たせて、その子が疲れて薄くなっただけ。怠けてなんかない。……疲れてるだけだよ」
レオルはミナを見下ろした。それから、何も言わずに口を閉じた。
その黙り方が、どこかおかしかった。責める者が言い負かされて黙ったのではなかった。もっと別の、飲み込むような黙り方だった。エルクは何か引っかかったが、それが何なのか分からなかった。レオルはそのまま輪を離れていった。
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その日、決まったことはひとつもなかった。
ただ一つ、みんなの口から同じ言葉が出た。理由を伝えないといけない。決まりだけじゃなくて、なんでその決まりがあるのかを。あの夜を見ていない人に、あの夜のことを。
「誰がやるの」
エルクが聞いた。
誰も手を挙げなかった。みんな自分の持ち場でもう手一杯だった。畑があって、台所があって、子供の世話があって、そのうえで夜に門の前へ立っている。あの夜のことを一から語って聞かせる時間だけが、どこにも残っていなかった。
語り継ぐ役は宙に浮いたまま、夕方になった。
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日が落ちて、クラウは組みかけの当番表を切り株の上に残していった。
半分は線でつながっていた。もう半分は空のままだった。埋まらない夜がいくつも縦に並んでいる。エルクはその板をしばらく見下ろしていた。
それから、いつもの間延びした声で言った。
「じゃあさ。あいた分は、僕が全部立つよ」
板を持ち上げた。
「僕そんな疲れないし。夜は暇だしさ。ちょうどいいじゃん」
誰も、すぐには止めなかった。
それが正しくないことは、その場にいた全員がどこかで分かっていた。渡す先がないから、いちばん強い一人が全部引き受ける。去年、それをやめようと決めたはずだった。持ちすぎたら隣に渡せ、と。エルクが全部立つというのは、その決めごとを、いちばん大きな形で破ることだった。
それでも、みんなの肩から少しだけ力が抜けた。エルクが立つなら、今夜は埋まる。明日のことは、明日でいい。
今日くらいはいいだろう。
その言葉が、さっきライの言った弱い気持ちと同じ形をしていることに、誰も気づかなかった。いちばん強い者へ渡して、渡したことにする。それもまた、隣へちゃんと渡さなかった夜のひとつだった。
足もとで、ウルが低く唸った。




