第138話 誰かが代わったはずの夜
薪割り場に虫の声だけが残った。
ケインは布を握ったまま立っている。斧の刃が夕暮れの最後の光をわずかに返していた。
「うん」
エルクはそう言った。
それだけだった。責める言葉もなだめる言葉も出てこなかった。ただ丸太のひとつに腰を下ろして続きを待った。
ケインは顔を上げた。何か覚悟してきた者の顔をしていた。それが拍子抜けしたようにゆるんだ。
「……怒らねえのかよ」
「怒るとこある?」
「おれ、立ってねえんだぞ。当番だったのに」
「うん。それは聞いた」
エルクは膝に肘をついた。
「でもさ。今、誰にも聞かれてないのに自分で言ったじゃん。それ僕らが去年一年かけて作ったやつだよ。ちゃんと使ってもらえてるんだから、こっちが怒るのはおかしいでしょ」
ケインは口を開いて閉じた。
それから布を膝に落として、まるでずっと前から用意していたみたいに一息に言った。
「立ってない。……けど、サボったんじゃねえんだ」
「うん」
「代わってもらったんだよ。ちゃんと言われた。『今日はおれが立っとくよ』って」
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クラウの筆が止まった。
薪割り場まで写し帳を抱えて降りてきた男は、その一行を書きかけの形で宙に浮かせたまま顔を上げた。
「誰に」
「レンだよ」
ケインは迷わなかった。半拍もなかった。
「あいつがおれの肩叩いて言ったんだ。ケインは昼も畑出てたろって。今日はおれが立っとくよって。……だからおれ、寝た」
クラウは筆を置いた。
「レンはその夜、家にいた」
ケインの顔から表情が抜けた。
「……は」
「ミナの側の記録にある。あの夜レンは熱を出して寝ていた。母親が一晩ついている。四人が見ている」
虫の声が急にうるさくなった気がした。
ケインはしばらく黙っていた。それから笑おうとして失敗した。
「じゃあおれ、寝ぼけてたのか」
「立って喋ってる相手を寝ぼけて見るか」
「……」
「聞くぞ。声はどうだった」
「レンだった」
ケインは即答した。そこだけはまったく揺れなかった。
「あいつの声だよ。おれあいつと十日組んでんだぞ。間違えるかよ。……肩、叩かれたんだ。ちゃんと重かった」
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次の朝、エルクは二人を並べて座らせた。
物置裏の切り株にケインとレンが向かい合っている。レンはまだ少し咳をしていた。ミナがその後ろに立って、腕を組んでこちらを睨むように見ていた。
「レン。あの夜のこと覚えてる?」
「……ねてた」
レンの声は小さかった。
「あたま痛くて、かあさんが水もってきてくれて。それから朝までねてた。当番のとこ行ってない。ケインに何も言ってない」
「うん」
「……ほんとだよ。ぼく、言ってない」
レンの目に涙が溜まりはじめた。嘘つき呼ばわりされたと思ったのだろう。ミナの手が肩に置かれた。
「言ってないんだね」
エルクはあっさり頷いた。
「じゃあ言ってないんだ」
「でもおれは聞いたぞ」
ケインが焦った声を出した。
「エルク。おれは聞いたんだって。おれが嘘ついてるみたいになるだろ」
「ケインも聞いたんだね」
「聞いた」
「じゃあ聞いたんだよ」
二人が同時にこちらを見た。
エルクは切り株の上で頬杖をついていた。まるで昼飯の話でもしているような顔だった。
「両方ほんとでいいじゃん。レンは言ってない。ケインは聞いた。どっちも嘘ついてないんだから、それでいくよ」
「両方ほんとだと」
クラウが低く言った。
「そこにレンじゃないものが立ってたことになる」
「うん。そうだね」
エルクは伸びをした。
「じゃあさ。ケインに喋ったのはケインの仲間の声をした何かだね。……レンの声、上手だったんだ」
ミナの腕がゆっくりほどけた。
レンは自分の喉を押さえていた。自分の声が知らないところで誰かに使われていたと知った子供の手つきだった。
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ソウが板を持ってきたのは昼前だった。
三つの持ち場と日付と名前。切り株の輪の真ん中に置かれたその板を、ソウ自身が長いこと見下ろしていた。
「埋まってる」
やがてそう言った。
「あの夜も埋まってる。門の前、ケインとレン。空きはない。……私は月のはじめにこれを見て、埋まってると言った。会議でも言った」
「埋まってたよ」
エルクが言った。
「そこは嘘じゃないでしょ」
「嘘じゃない」
ソウは板を裏返した。裏には何も書かれていなかった。
「……嘘じゃないから、たちが悪いんだよ」
声が乾いていた。
「私が見たのは表だ。誰が立ったかは見ていない。名前が書いてあれば立ってると思った。書いた時点で立ったことになってた。……私、一度も夜の門まで確かめに行ってない。表を見ただけだった」
誰も慰めなかった。
慰めたら、その場でこの話が終わってしまうと全員が分かっていた。
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クラウが二冊の写し帳を持ってきて、痕の記録と当番表を頭から突き合わせはじめた。
半刻ほどで顔を上げた。
「二つある」
輪が静まった。
「痕が出た夜が他に二つ。どちらも表は埋まっている。当番の名も二人ずつある。……その二人にさっき聞いてきた。片方が言った。『相方が代わってくれると言ったので帰った』」
「もう片方は」
「言っていない、と」
クラウは頁を開いたまま置いた。
「三つとも同じ形だ。片方が渡したつもりで帰る。もう片方は渡されたことを知らない。誰も立たない夜ができる。……誰も嘘をついていない」
「三つよ」
メルが指を折っていた。声が硬い。
「この半月で三つ。半月で三つっていうのはね。多いのよ。当番は三十六回しか回ってないの」
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「もう当番などやめてしまえ」
声を上げたのは輪の外の男だった。移ってきて日の浅い者だとエルクは思った。
「どうせ穴が空くのだろう。ならいっそ夜のあいだは全員で見張ればいい。全員でいれば代わったの代わらないのという話にならん」
もっともに聞こえた。何人かが頷いた。
「むりよ」
メルが顔も上げずに言った。
「三日でみんな倒れちゃう。畑も回らなくなるし飯も出なくなるの。……そのあと誰が門の前に立つの」
男は口を閉じた。
メルはそこで初めて顔を上げた。
「言っとくけどね。それ、去年もう試したのよ。危ないときはみんな立ったの。立てたの。でもあれはね、危ないって分かってたからよ。……毎日は立てないの。誰も」
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「あのね」
小さな声が輪の下のほうから上がった。
ノノだった。護符の紐を両手で握っている。前に出るのに時間がかかった。エネがすぐ後ろにしゃがんで背中に手を当てていた。
「ノノ、せんせいしてるでしょ」
「してるよ」
エルクが答えた。
「へんな声きこえたら、となりの子の手をにぎるっておしえてる。……でも」
ノノは紐を握りなおした。
「きのう、いち君が、にぎったの。ちゃんとにぎったの。おしえたとおりに」
「うん」
「でも、となりの子が、へんな声だったの」
誰も何も言わなかった。
「にぎるとこにいたの。となりに、ちゃんといたの。……そしたら、だめだった」
ノノの声が震えはじめた。
「ノノのおしえかた、まちがってたの?」
エネが後ろから両腕を回して抱えた。ノノはそれ以上言わなかった。
輪は長く黙っていた。
エルクはしゃがんでノノと目の高さを合わせた。
「まちがってないよ」
「でも」
「ノノが教えたから、いち君は手をにぎったんでしょ。にぎったから変だって分かったんでしょ。……教えてなかったら、いち君は変なやつと二人で朝まで一緒にいたんだよ」
ノノの目がゆっくり上がった。
「たりないだけ。まちがってるのとたりないのは別だよ。……足りないぶんは、僕らが足すやつだから」
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その日決めたのは一つだけだった。
立たなかった夜を全部申告する。誰も責めない。罰も記録の赤字も何もない。ただ言う。
夕方までに、六つになった。
三つが六つになった。あとの三つは痕の出ていない夜だった。誰も気づいていなかった夜だった。責めないと言ったら出てきた。
「……これでも全部じゃねえと思うぜ」
ケインが低く言った。輪の隅で膝を抱えている。
「言えてねえやつ、まだいる。おれだって今日まで言えてなかった」
クラウは六つの日付を紙の上に並べていた。
書き終えて、しばらくその六行を上から下まで何度も目でなぞっていた。筆は動かなかった。
「クラウ?」
エルクが覗きこんだ。
「六つとも同じだ」
クラウの声が妙に平らだった。
「全部、渡したつもりの夜だ。誰も怠けていない。全員が誰かに渡している。ちゃんと隣に渡した。……去年俺たちが、そうしろと決めたとおりに」
筆先が紙のふちで止まった。
「エルク。うちの記録にな」
「うん」
「渡した先を書いた紙が、一枚もない」




