第137話 光らない欠片
門の前の石畳に灯りが二つ置いてあった。
薄い黒い痕はまだそこにあった。息を吹きかければ散りそうなほど薄いのに散らない。夜の風が何度撫でていっても形が崩れなかった。
ライは結界の箱の前から動かなかった。
「壊れてないってどういうこと」
エルクはしゃがみこんで箱をのぞいた。
「光らないんだったらさ。壊れてるのとおんなじじゃないの」
「たしかめます」
緑の体がわずかに沈んだ。
「エルクさん。すこしだけ付き合ってください。……いま守りたいものを思い浮かべてもらえますか」
「え。いま?」
「いまです」
エルクは頭のうしろを掻いた。それからなんとなく振り返った。灯りの向こうにウルの黒い背中がある。その先の坂の上には眠っている国がある。昼にノノの護符の紐がきつく結ばれすぎていたのをほどいてやったことをふと思い出した。
箱の中の欠片がひとつ脈打った。
守りたい気持ちに応えるほうだった。灯りとはちがう鈍い色がゆっくり明滅している。
「……うわ。ほんとに光った」
「もう結構です。やめてください」
エルクが息を抜くと光はすうと引いた。欠片はまた黙った。
「動きます」
ライの声は落ち着いていた。落ち着きすぎていた。
「恐怖に応えるほうも昨日ためしました。レンさんに嫌いなものの話をしてもらったら、ちゃんと震えました。二つとも生きています。……そのうえで」
ライは痕のほうへ体を向けた。
「これの前では光らないんです」
エルクは痕を見た。それから箱を見た。何度か見比べてみたが分かることは何もなかった。
「……変なの」
「はい。変です」
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朝になってもう一度降りるとライはまだ同じところにいた。
箱の縁に体を寄せたまま一晩そこにいたらしい。灯りの油は切れかけていた。痕は消えていない。夜のあいだにいくらか薄くなっただけだ。
「寝てないでしょ」
「見ていました」
ライはこちらを見なかった。
「三十七回数えました。……夜のあいだに痕が息をするように濃くなった回数です。濃くなるということはそこで何かが動いているということです。動いているのに欠片はひとつも応えませんでした」
「光らないってどういうこと?」
ライはしばらく黙っていた。
「光らないんです」
やがてそう言った。
「ここから先は推測です。書く前に一度声に出させてください。……手口が変わったんじゃないんです。狙っている気持ちが、弱いんです」
「弱い?」
「強い気持ちがない場所に、何かが来ています」
風が石畳をひとつ撫でていった。
「強くない気持ちって何」
ライは答えなかった。
長い間があった。緑の体が一度だけ小さく揺れた。
「……分かりません」
それから続けた。
「恐怖なら分かります。守りたい気持ちも分かります。どちらも形があるんです。強いから形になる。……ですが弱い気持ちには形がありません。名前もありません。どこからどこまでがそれなのかも分かりません。私はそれを測る道具を持っていないんです」
「作れない?」
「作れません。何を測るのかが分からないものは測れませんので」
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昼前にクラウがメアを連れてきた。
過去を読む娘に痕そのものを見せるためだった。メアは石畳の手前で足を止めそこから動かなかった。
「近づかなくていいの」
「……近づいても同じだと思う」
メアは痕のほうへ手のひらを向けた。青ざめがちな顔がいつもより白く見えた。
「変な感じ。あの夜のとことぜんぜんちがう」
「どうちがうの」
「あの夜のはすごく熱かったの。誰かが誰かを守りたくて必死で。その気持ちの上に悪魔がべたって座ってた。……熱があったから私にも分かった」
メアは手を下ろした。
「ここ、ぬるいの」
「ぬるい」
「うん。感情が薄いの。誰も何も強く思っていない場所。……ここに立ってた人がたぶん何も思ってなかった。こわいとも守りたいとも思ってなかった。ほんとに何にも」
クラウの筆が止まった。
「何も思わずに門の前に立つ者がいるか」
「いるんじゃない?」
メアは困ったように笑った。
「毎晩立ってたら。……そのうち何にも思わなくなると思う」
誰も答えなかった。
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昼過ぎに切り株の輪へ代表者が集められた。月に一度の日ではなかったが痕のことを黙っておく理由もなかった。
ライが報告した。痕は新しいこと。夜のあいだ息をするように濃くなること。欠片は二つとも生きていること。そのうえでまったく光らないこと。
「その夜も当番は立ってる」
ソウが板を持ち上げた。
「表は埋まってる。門の前も外周も。……穴はない」
「……なんだ」
ラミアの長老が身をゆらした。
「光らんのだろう。ならば大したものではあるまい」
声には安堵があった。責める調子でなかったぶんかえって重かった。
「その欠片は去年も我らを助けた。恐怖に応え守りたい気持ちに応えた。……その二つに応えぬということは去年より弱いということだ。弱いものにいちいち騒いでいては身がもたん」
輪のあちこちで小さくうなずく者がいた。もっともな話だった。
ライの体が卓の縁でぷるりと動いた。
「ちがいます」
大きな声ではなかった。ただはっきりしていた。
「弱いから分からないんです。……弱いものは、見つけられないんです」
長老が目をあげた。
「大声は聞こえます。ですが誰かが黙っていることは聞こえません。黙っているほうは、そこにいないのと同じに見えるんです」
「……いないのなら困りはせん」
「いないのではありません。数えられないだけです」
ライは長老のほうを向いた。
「この欠片は強い気持ちを狙う相手を捕まえるために作りました。だからそれを狙わない相手にはまったく役に立ちません。役に立たないのは相手が弱いからではないんです。私たちの網の目が、その大きさに作られていないからです」
長老は口を閉じた。それから長い息をひとつ吐いて身を沈めた。取り下げたのではない。ただそれ以上は言わなかった。
「去年の欠片も」
ライは静かに足した。
「最初はただの壁の汚れでした。誰も数えなかったから膨らんだんです」
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「ライ。書いてくれ」
クラウが筆を持ち上げた。
「何をです」
「分からない、と」
緑の体が一瞬止まった。
「……分からないと書きます」
「それでいい」
クラウの筆が走った。
「昨日俺は議事に一段足した。となりに立っていた者の名も顔も分かっていない、と。書かなければそのうち誰も分かっていなかったことすら忘れる。今日のも同じだ。光らなかったと書け。分からないと書け」
「分かんないって書くのさ」
エルクが頬杖をついた。
「書くほうは気持ちよくないよね」
「よくない」
「うん。……でもそれやんなかった国、僕ら地下で見たもんね」
クラウは答えなかった。筆だけが走っていた。
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その日のうちに決まったのは二つだけだった。
門のそばの痕を毎日見る。誰が見たか。濃さはどうか。光ったか光らなかったか。ライ一人に見させない。持ち場を離れる前に当番の者が一度しゃがんで見る。それだけだ。
もう一つは痕を掃かないことだった。
「掃いたら楽になるでしょ」
エルクは石畳を見下ろして言った。
「でも掃いた人はさ。そこに何かあったことも一緒に忘れちゃうんだよ。……怖いもんは怖いまんま棚に上げとくって、ライが前に言ってたじゃん」
ライの体がわずかに揺れた。それだけだった。
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日が傾くころエルクはウルの背に手を置いて坂を上っていた。
「ねえウル。強くない気持ちってなんだと思う?」
ウルは歩きながら耳だけこちらへ向けた。答えはなかった。
「こわいでもない。守りたいでもない。……その二つのあいだって何があるんだろ。なんにもないような気がするんだよね。なんにもないとこに何か来られてもさ。困るじゃん」
ウルは何も返さなかった。
こわいでも守りたいでもないものが、胸には山ほど入っている。ただ、それに名前がついていないだけだ。
「……名前がないやつか」
エルクは坂の途中で足を止めて振り返った。門のほうはもう暗くて何も見えなかった。
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夕方クラウが写し帳を二冊ひらいて突き合わせていた。
片方は痕の記録。もう片方はソウの当番表だった。日付をたどっていた指が途中で止まった。
「エルク」
「なに」
「痕が出た夜の門の前。……ケインの名がある」
ケインは薪割り場にいた。斧を置いて汗を拭いている。日はもう坂の向こうへ落ちかけていた。
「ケイン。ちょっといい?」
「おう」
「昨日の夜さ。門の前の当番だったよね」
ケインの手が止まった。
止まったというほどでもない。汗を拭く布がほんの半拍だけ遅れた。それだけだった。エルクは数字が読めない。当番表を渡されても目が滑る。ただ半拍だけは分かった。
「……ケイン?」
ケインは布を握ったまましばらく黙っていた。誰も何も聞いていない。責める者もいない。日が落ちて虫が鳴きはじめていた。
それから顔を上げずに言った。
「……あの日、おれ、立ってない」




