第136話 知らない名前
朝の会議は物置裏の広場でひらかれた。
丸く並べた切り株がこの国の卓だった。地下の記録の間で丸い卓を囲む像を見てから誰が言い出すでもなくこの形になっていた。上座はない。端もない。
エルクは自分の切り株に腰を下ろしてから少しだけ迷った。
昨夜のことを言うかどうかで迷ったのではない。言うと決めていた。迷ったのはどこから話せばいいのかのほうだった。
「昨日の夜さ」
結局そのまま切り出した。
「門のとこであの声に話しかけられたよ。地の底のずっと奥のやつ。前に一回聞いたのと同じ声」
切り株の輪がしんとなった。
クラウの筆はもう動いている。
「なんて言われた」
「三つ。ひとつ目は僕らをほめてきた。まだ誰にも門を開けさせてない、たいしたもんだって」
「二つ目は」
「その仕組みはいつまで保つかなって。人は必ず疲れる。当番も会議もいつかほころびるって」
誰かが小さく笑った。半分は強がりの笑いだった。
「三つ目は」
エルクはそこで少しだけ間をおいた。
「門を開けた人のとなりに立ってたもう一人。……その名前をお前はまだ知らないだろうって」
風が広場の草を撫でていった。
誰も口をきかなかったがそれは怯えた沈黙ではなかった。手のうちを一枚ずつ卓に並べているときの沈黙だった。
エルクはその空気を吸って少し可笑しくなった。
去年までなら自分はこれを一人で持って帰っていた。門のそばで妙な声を聞いてそれを胸の奥にしまって「まあ僕がなんとかすればいいか」と思っていた。それがどれだけ危ないことだったかを今はもう知っている。
いま自分は朝いちばんにそれを全部しゃべっている。しかも誰も驚いていない。当たり前の顔で聞いて当たり前の顔で書き取っている。
仕組みというのはたぶんそういうものなのだろうとエルクは思った。えらそうな石碑が建つわけでもない。ただ朝にこうやって喋れるようになる。それだけのことだった。
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「聞き方は」
クラウが顔を上げずに言った。
「一人で聞いたのか」
「入口にケインとレンがいたよ。声は僕の耳の奥に直接だったけどさ。……ケインがこっち見て変な顔してたから手を振っといた」
「なら一人じゃないな」
クラウの筆が止まらないまま短く言った。
「それでいい。あの声はたぶん一人で聞くとうまいこと甘く聞こえる。となりに人がいると急にしょぼくなる。前にもそうだった」
「うん。ぜんぜん甘くなかった」
エルクはのんびり答えた。
「なんかね。悔しがってるみたいだったよ。ほめてくるところがもう負け惜しみっぽかったもん」
輪のあちこちで小さく息がゆるむ音がした。
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「当番の話が出たなら先に出しておこう」
ソウが手もとの板を持ち上げた。門の前と記録の間の入口と夜の外周。三つの持ち場が日ごとに区切られて名前が並んでいる。
「今月ぶんはぜんぶ埋まってる。空きはない。種族ちがいの二人ずつも守れてる」
「じゃあ大丈夫だね」
誰かがそう言って板は回されずにソウの手もとへ戻った。
メルが少しだけ身じろぎした。
「……埋まってはいるんだけどね」
言い方が半分うしろに引いていた。
「人の数はね。増えてないの。むしろ去年より減ってるくらい。移ってきた人はいるけど当番に入れる歳の人はそんなに。それで持ち場は三つに増えたでしょう。……だから一人が入る回数がね。ちょっとずつ増えてるの」
「回ってるならいいじゃないか」
誰かが言った。悪気のない声だった。
「そうなの。回ってはいるの」
メルはそれ以上言わなかった。
板は片づけられた。誰もその数字を書き留めなかった。クラウの筆さえその一段は綴じなかった。埋まっているものをわざわざ書く欄がなかったからだった。
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「ライは」
エルクが振ると小さな緑の体が卓の縁でぷるりと揺れた。
「欠片は二つとも静かです」
ライの声はいつもどおり落ち着いていた。
「昨夜も見ていました。恐怖に応えるほうも守りたい気持ちに応えるほうも。どちらもまったく動いていません。……あの声が門のすぐそばまで来ていたのに、です」
「それって声だけだったからかな」
「たぶんそうです。声には魔力の体がありませんから」
ライはそこで少しだけ間をおいた。
「ですが一応そう書いておきます。声が来た夜に欠片は光らなかった、と」
「光らなかったことも書くの」
「書きます。何も起きなかったという記録がいちばん後で効くことがありますので」
クラウの筆がその一行を綴じた。
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「で。名前のことなんだけどさ」
エルクは膝に肘をついて頬杖をついた。
「僕あれ知りたいんだよね。門を開けた人のとなりに誰が立ってたのか。……でもさ」
少しだけ口をとがらせた。
「知ってるのが悪魔しかいないっていうのがなんかやだね」
「それが向こうの狙いだ」
クラウが筆を置いた。
「名を教えてやろうかと言われて、じゃあ教えてくださいと言いに行った時点でこっちは相手の卓に座ってる。あの声は名前を持ってるんじゃない。名前を持ってるふりをして、こっちが自分から地の底へ降りてくるのを待ってる。……去年は恐怖で釣った。今度は知りたい気持ちで釣ろうとしてる」
「うん。分かってる」
エルクは頬杖のまま頷いた。
「だからさ。悪魔じゃないほうから知りたい」
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「知って何になる」
低い声が輪の向こうから落ちた。
レオルだった。腕を組んで切り株に座っている。まぶたが重そうだった。
「過ぎた国の話だ。もう滅んだ。名の一つや二つ分かったところで死んだ者は戻らん。……門は閉じている。当番も立っている。それで足りているのではないか」
「レオルさん眠そうだね」
「眠くはない」
即答だった。エルクはそれ以上つつかなかった。
「足りてるかもしれないけどさ」
代わりにそっちに答えた。
「あの絵の顔、まだ塗り消されたままなんだよ。体は戻ったのに顔だけ戻らない。ライが言ってたでしょ。あれは悪魔が塗った黒とは別の墨だって。もっと濃くてもっと新しいって。……つまりさ。今も誰かがあの顔を隠してるってことだよ」
レオルの眉が動いた。
「今も、か」
「うん。滅んだ国の話じゃないんだよそれ。今やってる人がどこかにいるの」
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「それに」
クラウが静かに継いだ。
「過ぎた国と同じ壊れ方を、この国は去年やりかけた」
輪が静かになった。
「あの国は裏切りで壊れたんじゃない。最後まで仲が良かった。ただ最後の判断を一人に背負わせた。それだけで壊れた。……その一人のとなりに、もう一人立っていたのかもしれない。止める役だったのかもしれない。だとしたらそいつがなぜ止められなかったのかは、うちの当番の話とまったく同じ話になる」
レオルの腕がゆるんだ。
組んだままだったがゆるんだ。
「……なるほどな」
短くそう言った。それきり反対はしなかった。
クラウが写し帳の新しい頁をひらいた。
「議事に一段足す。『門を開けた者のとなりに立っていた者』。名も顔も分かっていない。分かっていないと書いて残す」
「分かってないことを書くの」
ミナが聞いた。
「書く。分かってないと書いておかないと、そのうち誰も分かってなかったことすら忘れる。……あの国はそうやって一人を消した」
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会議が散ったあとエルクは切り株に残っていた。
グリフが空の高いところで輪を描いている。ゼルガの名代として毎日この国の上を回っていく若いグリフォンだった。
「ゼルガのとこ行く?」
メアが隣の切り株に座って空を見上げた。
「残り半分あの人まだ持ってるもんね」
「行くよ。……でも今日じゃない」
エルクは草をむしって指のあいだで転がした。
「あの人さ。半分話したとき翼すごく固くしてたでしょ。あれ話したくないんじゃなくて話すのがめちゃくちゃ重かったんだと思うんだよね。……で、いま行って『残り半分ください』って言ったら、それってさ。半分背負わせたうえにもう半分も一人で背負って持ってこいって言ってるのと同じじゃない?」
メアが小さく笑った。
「エルクさんそういうとこ律儀ですよね」
「律儀っていうかさ」
エルクは草を放って空を見た。
「一人に全部背負わせないって決めたじゃん。うちの当番の話だけじゃなくてさ。よそのおじいちゃんにも一応その決まり使ってあげようよ」
グリフの影が広場を横切っていった。
「あの人が自分から話す気になるまで待つ。……それまでこっちで調べられるだけ調べとくよ。記録の間もまだ全部読んでないしさ」
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その夜のことだった。
当番から戻ったレンが門の前の石畳をふと見下ろして足を止めた。
薄い痕があった。
黒い。だが濃くはない。息を吹きかければ散りそうなほど薄い。ただ夕方に自分が通ったときにはなかった。それだけははっきりしていた。
報せを聞いてライが来た。エルクも来た。ノノは眠っていたので起こさなかった。
ライは痕の前に体を寄せてしばらく動かなかった。
「新しいです」
やがてそう言った。
「これは古い残りかすじゃありません。ついさっきここにあったものです」
「じゃあ欠片は」
エルクが振り向いた。
ライの結界の箱はもう運ばれてきていた。二つの欠片が並んでいる。恐怖に応えるほうと守りたい気持ちに応えるほう。この国が二度の冬を越えて手に入れた二つの警報だった。
二人はそろってその箱をのぞきこんだ。
欠片は静かだった。
どちらも。まったく。指先ほども光らない。
エルクはしばらく黙ってからのんびりした声で言った。
「……あれ。壊れてる?」
「壊れていません」
ライは箱から目を離さなかった。
その声がはじめて少しだけ固くなっていた。
「壊れていないんです。それが、いやなんです」




