第135話 まだ誰も開けていない
空から戻って幾日かが過ぎた。
地の底の門はもう一度固く封じられた。記録の間の入口には種族ちがいの当番が日替わりで立っている。薄い殻に閉じ込めた囁きの声は身じろぎひとつしない。黒い魔力はすっかり薄れていた。表向きには危機はまた去った。国はいつもの朝へ戻りつつあった。
畑ではリザードマンとラミアが並んで水路の泥をさらっている。ウーゴが新しい物置の骨組みを立てそのまわりを避難民の子らがはしゃぎながら駆けていく。ダクトが薬草の籠を担いでのんびりと坂を上っていく。何もかも前と同じだった。
同じなのに少しだけちがっていた。
エルクはウルの背に手を置いてそのいつもの朝をぼんやり眺めていた。
「……ねえウル。なんか変わったよね。ここ」
ウルが耳をこちらへ向ける。
「みんな前よりよく喋るようになった気がするんだ。『昨日こわい夢みた』とか『ちょっといやな気分だった』とか。前はそういうのみんな飲み込んでたでしょ。心配かけちゃ悪いって隠してた。……それを隠さなくなった」
黒銀の狼は低く短く応えた。悪夢を恥じ不安を隠したことこそがあの静かな崩れの入口だったのだと。
「うん。そうなんだよね」
エルクは頭のうしろを掻いてそれからちょっと笑った。
「怖いって言えるようになったんだ。みんな。……それってたぶんいちばん強くなったってことだと思う」
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もっともその朝の空気には前の危機のあとにはなかったものが混じっていた。
この前のときにみなの胸へ残ったのは「気まずさ」だった。互いを疑ってしまったうしろめたさ。目を合わせにくいあの感じ。だが今度のはちがった。
残っていたのは静かな自覚だった。あの夜門の前に追い詰められたのはミナだった。けれど皆がどこかで思っていた。あそこに立っていたのは自分だったかもしれないと。守りたい気持ちさえあれば誰でもあの手を門へ伸ばしかねなかった。エルク自身がそうだったように。
それは恐怖ではなかった。もっと静かで重たい覚悟に近いものだった。
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その日の昼エルクはライのところへ寄った。
ライは簡易結界を張った小さな箱の前でじっと二つの欠片を見比べていた。ひとつは前に囁きの悪魔から確保した黒い魔力の欠片。もうひとつは今度の騒ぎで門のまわりに残っていたあたらしい欠片だ。
「並べて置いておくんだね」
「ええ」
ライは箱から目を離さずに答えた。
「前の欠片は恐怖に反応していました。今度の欠片は守りたいという気持ちに反応した。……手口が変わったんです。次はまたちがう気持ちを狙ってくるかもしれない。そのときにこの二つが並んでいれば『前はこうだった』と見比べられる」
「なるほどねえ」
ライは静かに続けた。
「捨てるという手もありました。怖いものですから手元に置いておくのは。……でも捨ててしまえば次に同じものが来たときまた一から怯えることになる。怖いものを怖いままちゃんと棚に上げておく。……それもこの国のやり方になりました」
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物置の裏手の日当たりのいい草地でエネが子供たちに囲まれていた。
その真ん中にノノがいた。黒い影に触れられ眠ると悪夢を撒いてしまうあのいちばん怯えていた小さな子だ。今はライの結界の護符を首から下げている。その震えてばかりいた子が今ほかの子らに向かって一生懸命何かを話していた。
「……あのね。へんな声がきこえたら。すぐにげちゃだめなの。がまんもだめ」
ノノのたどたどしい言葉をエネがそっと継いでやる。
「そう。そういうときはどうするんだっけノノ」
「……となりの子の手をにぎる。それで『いまへんな声きこえた』っていう。ひとりできかない。ひとりになっちゃだめ」
子供たちがこくこくとうなずいた。
エルクは少し離れたところからそれを見ていた。いちばん怖い目にあった子が次に来るかもしれない子のためにその怖さのしのぎ方を教えている。エネが目を細めてこちらに気づき小さく手を振った。
「あの子先生になったんですよ」
エネの声はやわらかかった。
「怖がられて追い出されそうだった子が。……いちばん頼りになる先生に」
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夕方記録の間の当番の割り振りを確かめに行くとそこにミナがいた。
小角族の少女は写し帳の当番表を真剣な顔で指でたどっていた。避難民の側からは誰と誰がいつ立つか。そのやりくりをミナが任されている。
「今日はケインとミナのとこのレンが組む番」
ミナはエルクに気づくと少し照れたように言った。
「人間とミナたちをわざと組ませてる。クラウさんがそうしろって。……最初はいやだった。人間と二人きりなんて。でも」
ミナは当番表から顔を上げた。
「……見張るためじゃないんだよね。これ。片方があの声に傾いたとき。もう片方が気づいて止めるため。ミナたちも人間を止められる側なんだって。……そういう意味なんだよね」
「うん。そうだよ」
エルクはうなずいた。守られるだけの側だった少女が今は誰かを止める側の当番を自分で組んでいる。
「ミナがいてくれると僕助かるんだ。避難民のことは僕よりミナのほうがずっと分かるでしょ。……だからこれからも決める側にいてね」
ミナはうつむいてそれからこくりとうなずいた。頬がほんの少し赤かった。
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その帰り道でメアと行き会った。
山のほうを見上げていた。ゼルガのいる空の領域のあたりを。
「メア。ゼルガまだあのままかな」
「うん。……たぶんしばらくは。半分話してそれで精一杯だったと思う。残りの半分はいつかあの人の気が済んだとき」
メアは少し笑った。青ざめがちなその顔にいつもより明るいものがあった。
「でもねエルク。私前よりずっと先が見える気がするの。……一人で門の前に立つ未来が減ったから。あの夜みたいに誰かがたった一人であそこに追い詰められる。そういうのが減った。だから先がこわくなくなった」
「うん。……僕もそう思う」
空の高いところで嵐鷲が一羽ゆっくりと輪を描いていた。ゼルガの見張りだ。半分は話し残り半分は胸にしまったままあの誇り高い空の主は今日もこの小さな国の空を見下ろしている。それだけでじゅうぶんだった。
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夜になってエルクは記録の間へ降りた。
一人ではなかった。今日の当番のケインとレンが入口にいる。決めごとを破らない。門の前にはもう誰も一人では立たない。それがこの国のあたらしい形だった。
壁のあの絵の前に立つ。
戻ってきた壁画には門を内側から開けようとする一人の人物が描かれている。うしろに子らをかばい震える手を門へ伸ばして。けれどその顔だけがいまだに黒く塗りつぶされたままだった。周りの黒はすっかり引いたのにそこにだけ別の墨が後から重ねられているように。誰がなぜその顔を今も隠しているのか。ゼルガの言う隣に並んで立っていたもう一つの影もこの絵にはいない。
分からないことはまだたくさん残っていた。
その黒い顔を見上げていたときだった。
地の底のそのまた奥から。囁きの声ともちがう。もっと低くもっと遠い黒い声がエルクの耳の奥に直に届いた。
「……お前はよくやった」
エルクは動かなかった。ただ絵を見上げたまま聞いていた。
「まだ誰にも門を開けさせていない。一人も。たいしたものだ。あの仕組みとやらでよくしのいだ。だが」
声は笑うようにゆらいだ。
「いつまで保つかな。その仕組みは。人は必ず疲れる。当番も会議もいつかほころびる。……それに」
顔のあるべきところにぽっかり空いた黒がじっとこちらを見ているようだった。
「旧き国の門を開けた者のもう一人の名を。お前はまだ知らぬだろう。隠されたまま消えたその者の名を」
入口でケインが怪訝そうにこちらを見た。エルクが何も言わず絵の前に立ち尽くしているからだ。エルクはその視線に大丈夫というように小さく手を上げた。一人では聞いていない。ちゃんと隣に人がいる。それだけであの声はもう前ほど甘くは響かなかった。
それからエルクはあの黒い顔を静かに見上げて言った。
「……知るよ」
声はいつもの気の抜けた響きのまま。けれどその奥に静かな芯があった。
「隠されたままにはしない。ゼルガが半分話してくれた。残りもいつか聞く。……門を開けた人がどんな顔で誰とあそこに立ってたのか。ぜんぶちゃんと知るよ。そのうえで今度こそ誰にも開けさせない」
黒い声はもう答えなかった。
ただ黒く塗りつぶされた顔が答えを待つように灯りの端に沈んでいた。まだ誰もこの門を開けてはいない。けれどこの顔の名を知る日まで本当の意味でこの門が閉じることはないのだろう。エルクはひとつ息を吐いてケインとレンの立つ灯りのほうへゆっくりと歩き出した。




